🖋

名著 西田幾多郎『善の研究』

感じたこと

  • 私とわたし。これは道元的だ。心身から距離を起きつつ、しかし自身の身体は大切にと。バランス感覚だ。
  • 動揺、たしかに感じを見ると真実を表すいい言葉だ→「動揺」という言葉は、今日では心理状態を示す言葉ですが、西田にとってはまったく異なる意味でした。まさに世界は「動き」、私たちの心が「揺れる」。一瞬たりとも同じ世界は存在しない。これは彼がいう「実在」の在り方を表現する言葉でもあります
  • 「思考」「思索」「思惟」、いいね。自分はまだまだ、思考なんだ。思索には至れていない、弱い人間なんだと思う。もっともっと、カラダとココロを投げ出していかんとな。いま、ここ、わたし。

内容

  • 実在の完全なる説明は、単に 如何 にして存在するかの説明のみではなく何のために存在するかを説明せねばならぬ。 「如何にして存在するか」ではなく「何のために存在するか」が「価値」である、というのです。
  • 西田にとっての「知識」は情報としての知識とは違って、頭と身体の両方で知ることを指しています。知は頭、識は身体全体を意味しています。 そして、哲学にとってもう一つ大切なことは、「情意」だともいう。「情」は、私たちの「こころ」のはたらきです。情意とは、容易に言語化されない「おもい」だと考えてよいと思います。 世界は「あたま」だけで認識されているのではなく、そこにはつねに「こころ」のはたらきがある。これらが一つになったとき、「真実在」への扉が開かれる、というのです。 知識と情意のふたつが 揃わないと哲学は始まらない。頭脳が 明晰 なだけでは哲学は始まらない。頭脳と同時に心も育み、開花していかなければならない、というのです。
  • 「動揺」という言葉は、今日では心理状態を示す言葉ですが、西田にとってはまったく異なる意味でした。まさに世界は「動き」、私たちの心が「揺れる」。一瞬たりとも同じ世界は存在しない。これは彼がいう「実在」の在り方を表現する言葉でもあります
  • 「知る」と「愛する」という営みは、一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。
  • 西田にとって「愛」とは、生けるものの本質を 摑 むちからです。花の中には生けるもの、いのちがある。それを感じたときに私たちは花を愛し、そして花に愛されていると感じる。花に愛されるというのは、花との交わりが生まれるということです。 ここでの花は自然の象徴です。自然は私たちにいつも呼びかけてくれる。しかし、「知る」ことしか知らない者は、その呼び声に 応えられない。しかしその「声」に応えさえすれば、そこに循環が生まれる。これが西田のいう「一致」です。 「一致」の世界には、損得や利害といった関係は成り立ち得ません。他者の喜怒哀楽は、そのまま「わがこと」になっていきます。
  • 「私」が主語になると、世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しないかもしれない。しかし、「私」が深くなっていくと、表層意識の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底にふれていこうとする。この状態が、西田のいう「善」の世界なのです。
  • 当時、西田はすでに哲学者として立つことを決めていたので、ここでの「学」は、哲学と考えてよいと思います。「禅」は、哲学のためにするのではない。「心」のため、「生命」のためだというのです。このとき西田にとって「禅」は、生の中心にあるものです。文字通り、彼は「いのち」を 賭して参禅していました。 「見性」とは禅における究極的経験のことです。それは自己の底、世界の底にふれる経験だといってもよいかもしれません。見性を体験するまでは「宗教」や「哲学」とは何かを考えてはならない。すべては「いのち」の奥義を体得するためでなくてはならない、というのです。
  • ここでいう「己自身」には「大なる自己」と「小なる自己」が併存している。それが人間の日常的な在り方です。西田にとって「哲学」とは、「小なる自己」を通じて「大なる自己」へと至る道であり、「大なる自己」の世界の叡智を「小なる自己」の世界へと運ぶはたらきだともいえます。 「大なる自己」とは、自我から自由になった「自己」、無私なる自己だと考えてよいと思います
  • 西田のいう「知意未分以前の統一」は大拙のいう「形而上学的無意識」「霊性的直覚」あるいは超「分別的知性」、超「意識的悟性」とも言い換えることができる。しかし、ここで最後に大拙が強調するのは、それが概念ではなく、「経験事実」であることなのです。 「知意未分以前の統一」にも同じことがいえます。「知意未分以前の統一」や「無心」の世界を感じるとき、私たちは理智、つまり知識の世界の「境界線を思い切って飛び越して」います。そこで人は自他の「分別」がなくなります。他者のことはそのまま「わがこと」になる。そのような世界こそが新しい叡智、新しい徳、新しい生命の母胎だというのです
  • 彼にとって「善」とは「大なる自己」の開花であり、それに基づいて「行為」することなのです。 西田が考える「善」を読み解くときに、幾つかの鍵となる言葉があります。 ①「自己の発展」あるいは「自己の発展完成」 ②「行為」と「意識」 ③「利己」と「人類」 まずは、①「自己の発展」あるいは「自己の発展完成」から見ていきます。 西田は「最上の善」とは、個々の人間のなかに眠っているものが、世に出現し、「円満なる発達を 遂げる」ことだといいます。
  • 「あお」を実在的に経験するとは、さまざまな「あお」を感じ分けるということではありません。それは科学的な情報に基づく「解析」です。 たとえば「あお」という多面体があるとします。西田のいう「実在」の経験とは、この多面体の一つひとつの面に「ついて」知ることではありません。多面体そのもの「を」認識することです。「あお」そのものにふれ、「あお」を色たらしめている「色そのもの」のはたらき、根源のはたらきを感じることです。 この「色そのもの」が、西田のいう「実在」です。「あか」「あお」「きいろ」「くろ」「しろ」はどれも「色」です。しかし、私たちがこれらの色を科学的に「解析」するとき、それぞれの色の特性について知ることはできますが、私たちが「色そのもの」を知ることはできません。 絵画を見るときを想像してみてください。その絵の「あお」に感動したとき、私たちは「青」「蒼」「碧」など個別の「あお」を解析しているのではありません。そうではなく、私たちはその絵の「あおそのもの」「色そのもの」を感じているのではないでしょうか。
  • 柳は、世に芸術家として認められた人によって、飾られるために作られる「芸術品」だけが美しいのではなく、無名の人によって、日々の生活に「用いられる」ために作られたものこそ美しいといいます。
  • 「思考」「思索」「思惟」という言葉があります。「思考」は、俗にいう「あたま」で行うものです。「思索」は「こころ」の営みです。しかし、「思惟」は「こころ」の奥にあるもの、世にいう「いのち」の営みです。それがどのように行われているかは外見的には分かりません。 思考力を高めたければ「あたま」を鍛えればよいのでしょう。しかし思索を深めたければ「こころ」を動かさなくてはなりません。もし、「思惟」によって世界を感じたいなら「いのち」の地平に立ち、他者と己れが分かちがたい関係にあることに目覚めなければなりません。このことをたしかに認識し、語ること、それが哲学者西田幾多郎の始点であり、終着点だった、と思うのです。

引用メモ