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完全教祖マニュアル

日付

@June 1, 2018

メモ

  • 教祖の成立要件は以下の二要素です。つまり、「なにか言う人」「それを信じる人」。そう、たったのふたつだけなのです。この時、「なにか言う人」が教祖となり、「それを信じる人」が信者となるわけ 12
  • 仏教伝来から一五〇〇年もの間、日本中の一流のクリエイターたちが腕を競って、「仏像」という等身大フィギュアを作り続けてきたのです。さらに 天平時代には国家が全面協力して奈良に一五メートルもの巨大な 盧 舎那 仏 フィギュアが作られています。金も人材も芸術的才能も惜しみなく投入されている 16
  • 宗教で大切なことは、それが正しいかどうかではなく、人をハッピーにできるかどうかです。神もこれと同じで、「いる」と仮定した場合に、そこからどんな素晴らしいことを得られるか。問題はそこなのです。つまり、あなたが神にどんな「機能」を期待するのか、そこから考えれば良いのです 26
  • 努力したってダメな時はダメ。では、そういった理不尽にぶつかった時はどうすれば良いのでしょう? そう、ここで神です。もし、あなたが全知全能の神を信じていれば、「まあ、これも神の思し召しだろう」と神のせいにできるのです。誤解している人も多いと思いますが、神は別に努力した人すべての夢を叶える必要なんてありません。良い結果など出なくても一向に構わないのです。ただ、信者が「神は絶対間違えない。必ず正しいことをする」と本気で信じてさえいれば、どんな結果が出たとしても「これが神の意志なら間違いない」と肯定的に受け入れられるのです。神の役割はむしろここにあります。神は困っていれば助けてくれる便利なお助けキャラではなく、困っていること自体を肯定する存在だと言えるのです 26
  • つまり、教団というのは本来、「個人の霊的体験」という本質を包む外殻だったのですが、この外殻が、本質である「個人の霊的体験」を押し出そうとし始めるわけです。すると、教団にがんじがらめにされて、「個人の霊的体験」が失われていきます。宗教活動が儀式化すると言い換えても良いでしょう。現代日本では「スピリチュアルには関心があるけど宗教団体はイヤ」という人も多くいますが、それは彼らが「個人の霊的体験」を重視しているためかもしれません 33
  • なぜ、新興宗教が反社会的になるかというと、そもそも新興宗教はその社会が抱える問題点に根差して発生するものだからです。なので、どうしても反社会的にならざるを得ませんし、また、そこにこそ宗教の意義があるとも言えます 35
  • 社会は常に正しいわけではありません。そして、社会の提示する価値基準では「負け組」となってしまう人が必ず存在します。そこであなたがすべきこととは、社会に反する新しい価値基準を提唱し、「負け組」の人を「勝ち組」へと変えてハッピーにすることなのです。つまり、あなたが石を投げたいと思う人たちこそ、あなたが救うべき人たちなのです 39
  • 非インテリ層の一般人にいかに教えを広められるかはとても大切なことなのです。結論から言うと、彼らに必要なのは極限まで簡略化された教えと、御手軽な現世利益なのだと覚えておいて下さい。ヒトラーも『我が闘争』でこのように言っています。「どのようなプロパガンダも大衆にあわさねばならず、その知的水準は獲得すべき大衆の最低水準の人々が受け入れられるようにあわさねばならない」 48
  • ところで、一応言っておきますが、浄土教も「南無阿弥陀仏だけ言っておけばいい」という結論に至るまでにはちゃんとした理論的根拠があります。かいつまんで言うと、仏になるためには自力で悟りをひらくか、阿弥陀ジムで悟りをひらくかの二つの道があります。それで後者を選んだ場合、阿弥陀ジムの入会手続きで最もベストなものが阿弥陀仏の名を呼ぶことなので、「南無阿弥陀仏」と唱えるわけです。楽だからこうしているのではなく、それが最もベストな方法だからこうしているのです。…………ということになっています。 50
  • 現世利益です。この世の真理を悟りたいとか、完璧な人格を目指したいとかではなく、健康でいたい、家族と仲良く暮らしたい、給料が上がるといいな、大学に受かりますように、と、彼らが求めるのはそういった次元のものなのです。現に「手からオーラが出て肩こりが治る」といった宗教の信者に入信のきっかけを尋ねてみると、「信じてなかったけど、実際に肩こりが治ったから」といった答えがしばしば返ってきます。必要なのは理屈ではないのです。ハッピーになったという実感なのです。 55
  • 人間は良いことをする時にも悪いことをする時にも、とにかく「理由」が必要だからです。「理由」のない行為はなんだか気持ち悪くって、たとえ善行でもやりたくないのです。私たちが無償のボランティアに抱くある種の気持ち悪さもこれに依るものでしょう。ですが、これが宗教ならどうでしょうか? 宗教なら「教義」により、その「理由」を用意することができ、人々に素直な善行をさせることができるのです
  • ここで大事なのは、相手は今まで「困っていると認識していなかった」ことです。「困っている」と思っていない相手に対して、「実はお前はこれこれこういう理由で、本当は既に困ってるんだぞ」というわけですから、ここにどういう理由を持ってくるかであなたのオリジナリティが問われます。そこで、もしあなたに「世間的には困ってないけど、あなただけは困っていること」があれば、それは大きなアドバンテージとなるでしょう。 78
  • 内観療法では、まず、相手に対してセラピストが「あなたがお母さんにしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを調べて下さい」などと過去の記憶を思い出すよう促します。場合によっては、母の代わりに父や兄、上司などになることもあります 80
  • さらに言うなれば、こう考えることもできるでしょう。人は社会的に生きる以上、必ず何かの権威に従って生きていかざるをえません。しかし、どうせ何かの権威に従わなければならないのなら、早いうちから一本筋の通った権威を仰いでおくのは幸せなことだとは言えないでしょうか? 信仰を持った人に「信仰を持って良かったことはなんですか?」と尋ねると、「しっかりとした価値観が持てるようになった」「自分の中に一本芯が通ったから、ブレることがなくなった」「何かに迷っていても、自分には宗教という指標があるからそこに立ち戻れる」といった返事がよく返ってきます。これは言ってしまえば、「自分で考えることが減ったのですごく楽だ」ということです。楽というのはハッピーなのです 112
  • たとえば、病気や事故など何かの不幸に見舞われた時、ユダヤ教であれば「これも神の思し召し。神のすることは人間には計り知れないから神を信頼して耐えよう」と考えます。また、キリスト教も「神の思し召し。神を信じよう」と考えますし、イスラム教は「神が我々をテストしている」と考えるわけです。こうして意味付けられたことにより、弱っている人たちは「ただただ弱っている」のではなく、「何らかの意味があって弱っている」ことに気付きます。そして、その意味ゆえに自分の不幸を受け入れることができるようになるのです。これも一つのハッピーの形と言えるでしょう。 なお、仏教は不幸に説明を付けるというよりは、考え方一つで不幸もどうにかしようという宗教ですから、坊さんに相談しても、「病気になって不幸? そりゃ生きていれば病気にもなります」でたぶん終わりです 135
  • それで、どうやってハッピーを与えていたかというと、彼らは人々に世界を解釈する斬新な方法を与えていたのです。私たちが何を考えていようとお構いなしに、「世界」は、こう、どーんと存在してますよね。問題は、私たちがその「世界」をどのように解釈するかということです。どう解釈したらハッピーに生きていけるのか、十人十色ですから、それは人によって違います。科学的に解釈するのも一つの選択ですし、キリスト教的に解釈しても、仏教的に解釈しても、イスラム教的に解釈しても構いません。それは自由ということになっています。「実はこれが正解でした!」というのが本当はあるのかもしれませんが、今のところ誰にも分からないので、自分がハッピーになれるものを選べばよいのです。教祖のお仕事は、そんな選択肢の一つを与えること、つまり、あなたなりの世界解釈を説くことなのです 228

引用メモ