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唯識の思想

感じたこと

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内容

  • すべては心の中にある、心を離れてはものは存在しない、心の外にはものはない」ということを、〈 一切 不離 識、 唯識 無 境〉といいます
  • なぜ自分の外に抜け出ることができないのでしょうか。答えは簡単です。それは自分にエゴ心があるからです。私、自分、己というエゴ心があるかぎり、私たちは自分の心の中に閉じ込められて外に抜け出ることができない
  • 世界はもともと無名で無色の世界だったのです。目覚めた瞬間の世界はそうだったのです。それが自他対立の世界に変貌し、あれを考え、これに悩み、ときには怒り争う一日に終始してしまいます。私たちはまさにそのような対立状態の毎日を生きています。そしてひと月、一年が過ぎ、瞬く間に、憎み、悩み、争う一生を終わることになります。それでは人生はなんとむなしいことか。急ぎその泥沼から抜け出そうと決意することが大切
  • そこから抜け出すにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、まずは「彼は豊かだがぼくは貧しい」「あの人は美しいが私は醜い」などという二元対立の世界を乗り越え、「思い」と「言葉」とによって加工されない、もとの対立なき「 生 の世界」に帰りゆく力を養成すべきです。そしてその力が、唯識思想が強調する、〈 念・定・慧〉と展開する心の働き
  • 「自分」への執着、すなわち我執がなくなればなくなるほど縁起の理が見えてきます。そして、他によって生かされているという事実に気づき、そこに感謝の気持ちが起こってきます。 私たち 凡夫 には、真如の理を悟ることは容易ではありません。しかし、少なくとも縁起の理だけでも、心の中にますますはっきりとするように努力したいものです。「実体はなく関係だけがあるのみ」と言い聞かせながら、人々の中で生きるとき、自他の対立、抗争が少しずつ薄れていくでしょう。家庭内の親子の対立から、学校におけるいじめや暴力、会社での人間関係の対立、さらに世界に目を向ければ、民族紛争、宗教間の対立などすべては、自分と他人とを実体視するところに根本原因があります。
  • 地獄とは自と他とが対立した世界。極楽とは自と他とが 一如 になった世界。なんとわかりやすい定義ではないでしょうか。
  • 「自分」と「もの」とに執着して起こす汚れた行為が 刹那 刹那 に 阿頼耶識 に 種子 を植えつけ、阿頼耶識をますます汚く重くしていきます。
  • 言葉にはもう一つ重要な働きがあります。それは、言葉が人の迷いを正す最初の原動力になるという働きです。なぜなら、人は言葉によって迷っているから、まずは同じ言葉によってその迷いを正す必要があるからです。もちろん、迷いを正しうる言葉は正しい言葉でなければなりません。 例えば「 諸法 は 無我 である」という教えがあります。この言葉を聞いて、「無我なのだ。よし、無我になろう」という意志が起こります。「 自性 清浄心・客 塵 煩悩」(煩悩は 塵 ほこりのようなもの、心はもともと清らかである) という教えを聞いて自分への信頼を取り戻し、よし、煩悩をふき払ってもとの清浄な心に戻ろうという決意が生じます。「 自他 不二 である」「我と万物とは同一根である」という文句を聞いて、「自分とはそういうものか」と想像し、ほんとうの自分とは、自分と他人、自分と自然という対立がなくなった広大無辺な宇宙大ともいえる自分なのだと知って勇気がわいてきます
  • ① 段 食、② 触 食、③ 意思 食、④ 識食 という四種の食事があります。 最初の「段食」は、ひとくちひとくち口にするふつうの食事です。次の「触食」とは、いろいろなものとの触れ合いが生きる栄養となるという意味での食事です。その次の「意思食」とは、意思という食事です。確かに人間はなにかを目的とした意思を持たなければ生きていけません。最後の「識食」とは、見たり、聞いたり、ないし考えたりする識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識) も栄養となるという意味での食事です。いわば感性と知性とが生きる栄養になるということも、うなずける考えです
  • 「一水四見」という考えは、これまで人間中心主義的に生きてきた人間の生き方に大きな反省をもたらすものです。自然と共生しよう、自然に優しくなどのスローガンを掲げて、いま人類は地球環境問題に取り組んでいます。もちろんこれも大切なことですが、もっと根源的な目でもって「いったいなにか」と問い、人間が「自然」と考えているものがはたして〝自然〟であるのかを、いまここで反省してみる時代がきたのではないでしょう

引用メモ