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アドラー 人生の意味の心理学

感じたこと

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内容

  • いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック──いわゆるトラウマ──に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。
  • ここまでに何度か「意味づけ」という言葉を使ってきましたが、アドラーは、この世界、人生、自分についての意味づけを「ライフスタイル」と呼びました。自分のことを自分がどう見ているか(自己概念)、他者を含む世界の現状についてどう思っているのか(世界像)、自分および世界についてどんな理想を抱いているのか(自己理想)──この三つをひっくるめた信念体系がライフスタイルです。 文章を書く際の言葉遣い、テンポやリズムなどを総称して「文体」といいますが、文体のことを英語ではstyleといいます。アドラーのいうライフスタイルは、私たちが生まれてから死ぬまで書き続ける人生という「自叙伝」を書く時の、私たち一人ひとりの文体のようなものです。夏目漱石と森鷗外とでは文体が異なるように、一人ひとりがそれぞれのライフスタイルを持っている
  • アドラーは、このような優越性の追求を人間の普遍的な欲求と考え、次のようにいっています。 すべての人を動機づけ、われわれがわれわれの文化へなすあらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行
  • 他者の価値を落として自分が優位に立とうとすることを「価値低減傾向」と呼んでいます。 いじめや差別も、優越コンプレックスの特徴である価値低減傾向がある人が引き起こすと考えていいでしょう。いじめる側、差別する側の人は、強い劣等感を持っています。だからこそ自分よりも弱い人をいじめたり差別したりすることで、相対的に自分を上に位置づけようとするのです。「いじめは人間として恥ずかしい行為、絶対にやめよう」とだけいってみても、それだけではいじめや差別の問題は解決しません。いじめや差別をなくそうとするのであれば、いじめる側、差別する側の人に、自分に価値があると思えるようになる援助が必要になってくる
  • 受験勉強を経験した人の多くは、勉強をつらいものと感じていたと思います。しかし、勉強は本来知らないことを学ぶことですから、大きな喜びを与えるはずです。それなのに、勉強は他者との競争であり、苦しくても歯を食いしばってするものだと、いつのまにか信じ込まされてしまった人は、大学などに進学したり、就職が決まったりして、もはや受験する必要がなくなると勉強しなくなってしまいます。また、ただ他者に勝てばいいと思っている人は、勝つためには手段を選ばず、不正行為をするかもしれませんし、勝算がなければ挑戦することもしないかもしれません。
  • 平らな地平をみんなが先へと進もうとしている場面をイメージしてみてください。自分より前を歩いている人もいれば、後を歩いている人もいます。そんな中をそれぞれが一歩一歩前に進んで行くのが、優越性の追求
  • しかし、真に人生の課題に直面し、それを克服できる唯一の人は、その〔優越性の〕追求において、他のすべての人を豊かにするという傾向を見せる人、他の人も利するような仕方で前進する人
  • 人間の基本的な欲求のひとつとして「所属感」があります。所属感とは「私はここにいていいのだ」と、共同体の中に自分の居場所があると感じることです。家庭であれ、学校であれ、職場であれ、自分にとって居心地のいい場所をどこかに持ちたいと思うことは人間にとってごく自然の欲求であり、それは人間の幸せや生きる喜びにもつながっています。
  • 他の人が自分をどう見るかは、他の人の課題です。他の人の課題には介入できないということの意味は、この場合は、他の人の自分についての評価をどうすることもできないということであり、ましてや他の人に自分のいったこと、したことを承認されたいと思っても、それはちょうど子どもに勉強してほしいと願う親と同じで、他の人に要求できないということなのです。先に使った言葉を使うならば、他の人は自分の期待を満たすために生きているわけではない
  • 現状は糸がもつれているような状態で、誰の課題なのかがわからなくなっているので、「これは私の課題、これはあなたの課題」と、もつれた糸をほどく作業をまず行い、何が誰の課題なのかということをはっきりさせなければなりません。その上で、どうしても自分だけでは解決できない課題については、協力を求めてもいいのですし、協力を求められたら、できるだけ協力すればいいのです。これをアドラー心理学では「共同の課題にする」という言い方をします
  • われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚
  • ここでいう「人生に与える意味」とは「人生の意味づけ」のことです。共同体感覚が欠如している人は、人生に「私的な意味づけ」を行い、自分にだけしか関心を向けず、自分の得になることだけを目的として生きています。しかし、人間は一人では生きることはできず、必ず他者と共生しなければならないので、関心は他者にも向けられていなければなりません。優越コンプレックスのある人も、そしてその裏返しの劣等コンプレックスのある人も、共に彼らの目指す優越性は、「個人的」なものであって、それが他者に貢献するかどうかということは問題になりません。彼らの優越性の追求は競争が前提なので、「勝利」は自分自身に対してしか意味を持たない
  • この「私」は、他の道具とは違って買い替えたり交換したりすることはできません。どれほど癖があったとしても、この自分と死ぬまで付き合っていくしかないわけですから、それをどう使いこなすかを考えていかなければなりません。そのためには、今の自分に価値があると考え、自分を受け入れる必要があります
  • 天才とは新しい自明性を創り出す能力のことであるとベルナール・グラッセ(フランスの編集者)がいっています。前から存在していたにもかかわらず、誰一人その存在に気づかなかったものを発見し、言葉で言い表す能力ということです。言葉で表現された途端、あまりに当たり前のことのように見え、さらに常識に組み入れられてしまうと、それが最近、発見されたということは忘れられてしまいます
  • シューベルトは、ある時、洗濯をしている女性たちが彼の作曲した歌を歌っているのを耳にしました。どこでその歌を教わったのかとたずねたところ、彼女たちは答えました。それはその地方で昔から歌われている古い民謡である、と。 その歌はもちろん古い民謡ではなく彼が創作したものだったのですが、彼が天才である 所以 は彼の歌曲が古い民謡だと思われたところにあるといえます。もしも誰も一度も耳にしたことのない新奇なものであれば、受け入れられなかったかもしれませんし、誰が作った曲であるかも意識されることなく歌われることもなかったかもしれません。
  • 精神科医の 神谷美恵子 は、「生存充実感」は変化を求めることに密接に結びついているといっています。 育児に追われている若い母親は、幼い生命の示す日々の変化と成長のめざましさに目をみはり、心をうばわれ、それを自分自身の生命の発展として体験して行くから、この上なく大きな生存充実感を味わっている。 (『生きがいについて』) 老人についても神谷は次のようにいっています。 すでに自己の生命の終りに近づいた老人にとって、草花を育てることや、孫の相手をすることが大きなたのしみになるのは、ただの暇つぶしという意味よりもむしろ若い生命のなかにみられる変化と成長が、そのまま自分のものとして感じられるからなのであろう。
  • 敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男は多くいた。しかし、夕食をととのえない女性がいただろうか。他の人とおなじく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。

引用メモ