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ロジェ・カイヨワ『戦争論』

感じたこと

  • 戦争をハレの視点から。まつり。なるほど。
  • 第二次世界大戦後、数年の時点で書かれた本書は、戦争の不可避性を「文明の発展」と「集団的人間の特性」から分析、国際的な反響を得た。二度の世界大戦を経ても、なぜ「懲りない」のか。戦争を惹起する、非合理な人間の全体性とは。国家に飲み込まれない「個」の在り方を、人類学的視点から考える。

内容

  • 「戦後」はすぐに「冷戦」の状況に入ります。人間は懲りずにまた戦争をする姿勢を崩さない。これはほとんど人間の 性 なのではないか。カイヨワは、一般的な政治的考察や歴史的考察ではなく、人間とその社会の本質に、どうしようもない「戦争への傾き」があると考え、それを見つめて、人類の行方を考えようとしました。
  • よく考えてみると、そもそもあらゆる物語は戦争から生まれたと言っても過言ではないでしょう。古代メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』や、古代ギリシアのトロイ戦争を題材にしたホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』からしてそうです。戦争という破滅的な体験から、それを語り出そうとする止みがたい営みが生まれます。勝った者たちはそこから英雄譚や武勲詩をつくり出すでしょう。敗れた者たちは、命があれば自分たちの運命を哀歌に託し、仲間を悼み、自らを悲しみ、そのことを生きてゆく糧にします。人びとの運命を翻弄する戦いが、そのようにして共同の語りを生み出したのでしょう。それが時間の秩序に従って整理され、因果関係を語るようになると、「歴史」になるわけです。「物語」と「歴史」は、ギリシア語ではどちらも historia(ヒストリア)です。それは戦争から生まれた。それくらい、戦争とは人間にとって根本的な体験だったのです。
  • バタイユが中心になって唱導していたのは、合理主義的かつ生産主義的な近代の文明が、ものをつくり蓄積し、社会を発展させているつもりで、結局は戦争という暴力的な消費の中に闇雲に崩れ落ちていく、その愚かしさを人間は自覚し、社会を再定礎しようという主張でした。 あえて簡単にまとめると、このようになります。──有用なもの、つまり役に立つものだけが善いとされ、無用のもの、無益なものは無駄だ、ひいては悪だとされる功利主義的な考えが、じつは人間に自分自身を見誤らせている。人間社会を貫いているのは最終的には無目的な消費であって、生産は結局、蓄積された富をいっそう華々しく消費するためにしか役立っていない。
  • ところが、有用性を金科玉条とする人間にはそれが理解できない。合理的な人間は消費を非合理として 斥け、身を守り力をつけるつもりで、結局は我れ知らず破滅に引きずり込まれてしまう。じつは人間の生命活動そのものも、太陽のエネルギーを源泉とする、非合理で無目的な消費にほかならない。人間はそれに気づかず、ただ闇雲に生産と蓄積の競争に明け暮れる。しかしその中にも「遊び」や「祭り」が欠かせない。それは生産プロセスの中の消費の露頭なのだ。じつはそのような露頭こそが宗教や社会の根源にあり、人間同士を結びつけている最も肝心なものである
  • カイヨワはまず、戦争は人間集団間の「破壊のための組織的企て」であると定義します。いわゆる政治的行為や単なる武器による闘争ではなく、敵の集団を破壊するための、集団による組織的な暴力が、戦争行為であるというのです
  • の大規模な混乱を収拾するために開かれたのがウェストファリア講和会議(* 38)(一六四八) で、以後、戦争をするのに信仰を口実にしないこと、そして戦争をすることができるのは主権国家のみとされ、戦争は誰もが勝手に起こすことができるものではなくなったのです。主権国家とは、相互に承認し合うことで初めて成立するものですから、勝手に名乗りを上げてもダメで、もし勝手に戦いを始めたとしても、それは「戦争」ではなく「内乱」「反乱」として「主権」のもとに制圧されます
  • クラウゼヴィッツの有名な定式です。戦争は基本的に政治の延長上にあり、その目的も政治的なものである。それが「現実の戦争」だというのです。国家間の政治が外交でうまくいかないときに、非常手段に訴えて「我が方の意志を強要する」ことが戦争であると定義して、そのための合理的な条件や方法を考えた
  • 「この人たちが国のために死んだ。おまえも国のために死ね」という形で、国家は自らを強化していく。そのことをわたしは「死の貯金箱」と呼びます。国家のために死んだ人間が多くなるほど、国家の力は強くなっていく
  • 「聖なるもの」を既成の宗教現象の核心にある、あるいはそれすら融解する、いわば超越的な宗教形態であると捉える。そのこととのつながりで、この「全体戦争」の中で起こる、人びとの心理に関わる非合理な現象を、カイヨワはしだいに宗教的な用語で語っていくの
  • カイヨワの論点の肝となる部分を整理しておきましょう。近代の社会では、人間が個々ばらばらに「俺は」「わたしは」という風に存在している。しかしそのようにしながら、実はまとまった集団を形成しているのです。そのつながりを何が支えているかというと、基本的には言葉です。そしてその言葉がどのように作用し、どのようにつながりを構成するかという、それぞれの想像世界を介して人びとは生きている。そうした言語と想像世界の全体が国家に統合されていくと、あらゆる人間が「国民」という共通項で結ばれ、国家によって逆に造形されていく。その統合の力が剝き出しになり、最強の形で現れるのが、「全体戦争」なのです。 そこでは戦争は個々の人間の意志を超え、あたかも「聖なるもの」のように、恐怖と魅惑の中に人間を呑み込んでしまう。そのように、個々の人間にとっての戦争の現れ方が、「世界戦争」の時代にまったく変わってきたということを、カイヨワは強調している
  • フランスの社会学者のエミール・デュルケーム(*3) も『宗教生活の原初形態』(*4) の中で、この用語を用いて宗教現象一般を理解しようとしました。デュルケームは人間の活動を「聖」の領域と「俗」の領域に二分し、前者を「禁止」によって後者から隔離された領域だとしました。その領域は信念や儀礼によって編成され、個人を超えた力を崇拝の対象とし、そこから生まれる道徳や倫理を通じて成員相互のつながりを支える社会統合的な機能を果たしていると考えました。いわばデュルケームは「聖」を「俗」と対置してそれを機能的に考えようとした
  • 戦争と祭りとは二つとも、騒乱と動揺の時期であり、多数の群衆が集まって、蓄積経済のかわりに浪費経済を行なう時期である。(略) さらにまた近代の戦争と原始的祭りとは、強烈な感情の生まれる時である。このある間隔をおいて生ずる熱狂的な危機は、色あせて、静かで、単調な日々の生活を打破するものであった。集団の関心事は、個人のあるいは家族の関心事に優先する。個の独立性は一時棚上げされる。個人は画一的に組織された大衆のなかに溶けこんでしまい、肉体的、感情的また知的自律性は消え去っていく
  • 近代社会は表面上、生産や蓄積が価値とされ、勤勉をモットーとしていますが、じつはそれは社会を統制する枠組みにすぎず、最終的な目的は消費や浪費や遊びなのではないか。一人ひとりの人間として見ても、ケチを通して働き、人からも 搾り取って、物やお金をいくら貯め込んだところで、墓場まで持っていくことはできません。人のため、自分のために散財する。生産・蓄積に対する消費こそが人間の経済の目的で、人びとの欲望の根源に結びつき、生きることの実相に 適っているのではないか──。近代の功利主義に対する異論として、カイヨワの社会学は無意味だからこそ「遊び」を重視したのです。
  • 戦争と「祭り」には共通点があります。カイヨワは「戦争と祭りにはまた、道徳的規律の根源的逆転がともなう。戦時には人は人を殺すことができ、また殺さなければならないが、平和時には殺人は最大の罪とされる」とか、「戦争と祭りは、平常の規範を一時中断することであり、真なる力の噴出であって、同時にまた、老朽化という不可避な現象を防ぐための唯一の手段である」などと述べています
  • 戦争はその集団性において、ことに近代では国家が強力に統制する全体性において、個々の人間の枠が取り払われたときに噴出するエネルギーを、すべて「敵」の破壊へと方向づけていきます。そのために集団の力は憎悪や排除の感情という形をとります。ですから「祭り」や「遊び」において個の制約を取り払うことの解放感や豊かさといったものが、すべて「敵」に対する攻撃性となって現れ、憎悪や破壊となり、またそれに対する恨みとなって残ることになる
  • 国民全体というものが他のあらゆる集団構造をしのぐものとなったとき、はじめて戦争は社会的高揚の頂点となった。(略) 国民というものが平等の権利をもつ市民のみによって構成されるようになり、市民は政治的力を与えられ、そのかわりに兵役の義務を負うようになったとき、国民は、武装した不可分の全体となり、当然他の国民からは分け隔てられ、たがいに対立し、排除しあう絶対的なものとなった。それが膨大なものとなるにしたがって、国家は国民に対してより大きな役割を果たすようになり、またより多くの統制を行なうようになった。それによって、国民はより社会化された一方、ますます閉鎖的な硬直したものとなった
  • 本当の問題は、「テロとの戦争」と言った途端、「敵」が消されてしまうことです。「テロリスト」として名指しされたときから、それは存在してはいけないもの、あらかじめ消されたものとなるわけです。そしてそのこと自体が、名指しするものとしての国家の、無制約の権力行使であるという現実を、見過ごしてはいけません

引用メモ