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“個人”の行方―ルネ・ジラールと現代社会

感じたこと

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内容

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引用メモ

アリストテレスが言ったように、人間の技術は「相反する力を持つ」以上、生産力の増大が必ず破壊力の増大を伴い、またフロベールが鋭く見抜いたように、人間の進歩は愚行(もしくは蛮行)と同時に進行するものだから、市場、情報、文化がグローバル化もしくは世界化すれば、暴力、(国家或いは非政府の)テロもまた同時にグローバル化、世界化するのは不可避なのかもしれないと思ってみても、それが私たちの不安を解消してくれるわけではない。

カミュの言明。

芸術は、芸術家が孤立しないことを強制し、芸術家をこの上なく地味で、この上なく普遍的な真実に服従させます。そして、よくあるように自分が他の人々と異なっていると感じたために芸術家としての道を選んだ者は、自己と万人との相似を認めなければ、その先自分の芸術を、そしてまた自分の差異を育ててゆくことが出来ないということを、たちまち学に至るのです。(1957年ノーベル賞受賞スピーチ) pp.20-21
私がジラールの仮説=理論から学んだもっとも根本的かつ本質的であり、いまなお決定的な重要性を 失っていないと思える考えは彼の模倣(ミメーシス)的欲望論であるが、『ロマン主義の嘘と小説の真 実』で提示されているその基本的な命題はほぼ次のようなものである。 人間の欲望は三角形的、換言すれば「模倣的」である。すなわち、欲望をもつ主体とその欲望の対象 となるもののあいだには、いつも媒介者が存在する。私たちがあるものを欲するのは、それがそれ自体 として望ましいものであるためではなく、他者がそれを欲しているからであり、他者がそれを望ましい ものとして示すからである〉。
ジラールはまた模倣的欲望の悪循環から逃れる唯一の道はいっさ いの模倣的欲望を断念し、全面的に暴力を放棄して、ひたすらキリストだけに従いながら、愛によって 絶対的な人間関係を取り戻すことだと繰り返し言っているのだが、デュピュイは「世界で 絶対的な透明という理想にたいして近似的に接近するのでさえ、驚くべき暴力を代償にしてはじめて であるというのに、そのような理想をめざすのは狂気の沙汰ではないだろうか」と深刻な疑問を呈し ている。たしかに私たちにとって、だれであれ、どんな他者もそう簡単に、また持続的に自己と一 したり、一体化したりできる存在ではない。 私はこのデュピュイの意見にも全面的に賛成である。
無意識的模倣とは人間関係における感染である。そして、これを免れる者は原則として、だれひ とりいない。 モデル(蝶介者)が主体に指し示す対象への熱情を倍加するのは、モデル自身がその 感染に身を任せるからである。 とどのつまり、モデルは弟子を介して自分自身をするこ とになる。もし弟子が自分自身のモデルにたいしてモデルとして役立つなら、モデルは逆に自分自 身の弟子の弟子になる。 要するに、人間たちのあいだには、より正確には人間の欲望のあいだに は、真の差異はないのである。 交換され、移動し、漂流する差異という表現で思考するだけでは、 やはり充分ではないのだ。いわゆる差異なるものはつねに、相互性のいくらか恣意的な断絶にすぎ ないのである。 ジラールがここで確認しているのは、欲望の介者と主体の関係、差異は相対的なものにすぎず、 そ の関係はすぐにでも逆転し、差異もまたやがて消滅してしまうことが (ミメーシス)的欲望の常態 であるということだ。
この小説は死者を迎えるの祭りについての描写と説明に始まり、生者を強制的に死者にする事 れのまいりの末によって終わる。祭りは「他の行事より特別に力をいれる祭り」であり、ご 走をこしらえるのもこの祭りのときだけだが、それと同時に、来年七〇歳になるおりんにとって、き たるべき まいり、 による死の準備をすべき時を告げるものでもある。祭りの意味をそのよ に知らせたあと、作者は以後、あらゆるエピソードを村の恒常的な貧しさ、そしてその貧しさが村人 にした生活観、人生観、最低限の文化)を述べつつ、みずからが属する共同体の論理と 理の必然性を信じ切ったおりんのまいり、つまり自己の死の準備としてのみ描く。 妻に玉 やんが来てくれて嬉しいのは、後事を心配せずに安心して山に行けるからだし、年寄りには丈夫 火打ち石をつかってへし折ってしまうのも、やがて山に捨てられる老人にふさわしい体をととの えるためだけが「の」の松やんを孕ませたことでおりんの心を悩ますのは、家の「性」 「生」のありように違反すること、すなわち見境もなく食い扶持をふやしてしまうことの恥であ り、これがますます楢山まいりの決意をおりんに固めさせる。
ジラールの模衆的暴力論によれば、いわゆる「民主的な競争社会」におけるこのような 模倣(ミメーシス)的欲望の激化は必然的に暴力を誘発し、その暴力の模倣的かつ相互的な伝染によって 個々の人間化されてゆき、やがてはすべてが差異化される混沌と無秩序が提出するはずで ある。
ここで私が宗教的感性、宗教的な思考というのは、前述のようにジラール的な意味においてである。 そこで、「宗教的なもの」についてのルネ・ジラールの次のような考えをもう一度想起しておこう。 「 教的にものを考えるということは、人間が暴力を支配すると思いこんでいればいるだけ、それだけいっそう仮借なく人間を支配することになる暴力との関連において人間共同体の運命を考えることである。 したがってそれは、暴力を離れたところに置き、暴力を放棄するために、暴力を超人間的なものとして考えることである」。
平等が増大すれば媒介者が接近すれば、調和ではなく、つねにより実鋭になる競争が み出されることになる。著しい物質感のあるこの争はそれよりさらに著しい精神的 な苦脳の源泉となるのだ。なぜなら、物質的な何をもってしてもこのめることができない だから貧困を軽減する平等はそれ自体として良きものではあるが、しかし平等はもっとも激しく 平等を要求する者たちさえも満足させられず、彼らの欲望をいよいよ激化させることにしかなら ないのだ。
各市民に広大な希望を抱 かせるようにしている平等は、すべての市民を個人的には弱いものにしている。 平等はすべての市 民たちの願望を拡大させると同時に、あらゆる面で彼らの力を制限する。 すべての市民たちは、ひ とりびとりでは無力であるばかりでなく、一歩前進するごとに初めには気づかなかった巨大な障害 を見つけるのである。 彼らはすべての人々からの競争に出くわす... 平等が生みだす本能と、この 本能が満たされるために平等の提供する手段との間には、恒常的な対立がある。 そしてこの対立 は、人々の魂を苦しめ疲労させるのである......。 それ故にある民族の社会状態と体とがどんなに民主的であろうと、その市民たちのひとりび とりは常に、自らのそばに彼を支配する数の不平等な点を見出すであろう。そして彼は常に その眼をこの不平等な方面にばかりに執拗に、頑固に向けることであろう。 不平等が社会の共通法則であるときには、最も著しい不平等も眼につかない。しかしすべての人々が殆ど平等化されてい るときには、どんな小さな不平等でも眼につくのである。そのために、平等への願望は、平等が一 増大するにしたがって、常に一層飽くなきもの、いやしがたいものとなってゆくのである
民主的民族が些細な特に対して、心のうちにかきたてられる亡びることのない、そしてますま 燃えたってゆく嫌悪のために、奇妙なことに、すべての政治的権利は徐々に国家の唯一の代表者 の手に集中されてゆく。 競争相手もなく、 そして必然的にすべての市民の上に優越している者 は、市民たちの誰の望も刺激しない。 そしてそこでは、各市民は自ら主権者に譲渡するすべての 特権を、自らの平等者たちからもとり除くことができると信じるあらゆる中央権力はその自然 的本能に従って平等を愛し、平等を奨励し支持する。 なぜかというと平等は、このような中央権力 の作用を著しく容易にし、 これを拡大し、 そしてこれを保証するからである
しかし他方でまた、トクヴィルが提起した問題、すなわち不平等が軽減されれば、人間は そのぶんだけさらに不平等の重さに耐えられなくなり、より一層の平等を求めるようになるという平等 の逆説 個々の人間の平等を前提とする民主制だからこそますます、 社会的に無力、無能な個々人の自 を吸収する絶対的な主権者が要請されるようになるという逆説による、民主主義の(ヒトラー、スターンあるいは戦前の日本の軍国主義的な)ハード、もしくは(クンデラが「キッチュの全体主義」と名 づけたような) ソフトな全体主義への転化の危険がますます広範囲に拡散し、いたるところで確認され ることになり、そのことがじっさいに過去の深刻な惨劇になったし、いまなお未解決の問題であるのも事実である。
このように人と人の友愛は、対立的でも闘争的でもなく、かといって一致でも同一化でもない相互的 差異の尊重 受容としての間主体性のうえにはじめて成立する。 そういえば、モンテーニュもまたエ ティエンヌ・ド・ラ・ボエシーとの友情を振り返って、「なぜならそれが彼だったから、それが私だっ たから」と認めていた。ただ、これは友愛という人間関係についてだけ言えることだろうか。時間と 他者」のレヴィナスは、エロス的関係においても、さらには現実もしくは精神的な)父子関係におい でもまた、そのような「他者の他者性の現前」を見ている。「他者の他者性」の受容と尊重こそが異性 (5) 愛性愛の条件だというのである。 そこでジャン=ピエール・デュピュイは、「愛する者は自らの愛の 偶然性を知覚する。 自らの対象の自らの状況の偶然性を。 しかしそう知ったからといって、愛着 の力がいささかなりとも減じるわけではない。彼には自分がこの特殊なものをとおして普遍的なものに 近づけることがわかっているのだ。愛は差異をしない。 ただ愛だけが差異に意味をあたえうる」と 書くことができたのであった。 たとえいまだ、あるいはもはや神を知らなくても、かつて人を心から愛することができた者ならだれ しも、ジャン=ピエール・デュピュイのこの言葉に深くくことだろう。