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心配事の9割は起こらない: 減らす、手放す、忘れる「禅の教え」

感じたこと

  • 禅の心は、とにかくいま・ここに集中すること。得るよりも捨てること。すべての縁を理解し感謝すること。大切にしたい。
  • 悟れば好悪無し、随処に主となれば立処みな真なり、歩歩是道場、清風明月を拂い明月清風を拂う、いい言葉ばかりだ。素敵。
  • 日々真っ直ぐに生きていきたいなぁ。過去にとらわれず。未来にとらわれず。

引用メモ

「あれが欲しい」という我欲も、「これを手放したくない」という執着も妄想です。 他人がうらやましいという気持ちも、自分はダメだという思いも、実はすべて妄想なのです。  もちろん、心をとらえるあらゆる妄想を断ち切って、いっさいの妄想と無縁で生きる、なんていうことはできません。それは仏様の境地。人間であるかぎり、心のどこかに妄想があって致し方なし、なのです。
「比較」することに、なにか意味があるでしょうか。 「悟れば好悪無し」 という禅語があります。  人間関係に引き寄せてその意味をいえば、他の人がどうであろうと、あるがままを認めたら、好きとか嫌いとか(自分に比べて相手が上とか下とか……)といった感情に流されることはない、ということでしょう。 日本における曹洞宗の開祖・道元禅師も、「 他 は 是 れ 吾 にあらず」 といっています。  他人のしたことは、自分のしたことにはならない、と教えています。他人が努力したことで、自分が向上することはありません。向上するためには自分が努力するしかないのです。 禅はどんなものも、どんな人も、他とは比べようがない「絶対」の存在と教えます。  あなたもそうですし、他人もそうです。
私たちが生きていく「原点」である命さえ、すでにどうにもならないことに気づいたら、どうにもならないことがたくさんあっても、なんの不思議もないことがわかる。そして、それをどうにかする必要などない、ということがスッと胸に落ちるのではないかと思います。  そう、 自分ではどうにもならないことは、そのまま、あるがままに受け取っておけばいい のです。
心技体がともに最高度に充実していたとされる双葉山関にして、なお、心に揺れが生じることがあるのですから、「木鶏たる」のはまさしく至難のわざです。  悪いことが起きたり、つらい境遇に立たされたりしたら、気持ちが落ち込んでもいいのです。そのうえで、負の心をプラスに転じていく。それが禅の考え方です。
「随処に主となれば、立処みな真なり」という、臨済宗の開祖である臨済義玄禅師の言葉があります。  その意味は、どんなところにあっても、「いま」「ここ」でできることを一生懸命にやっていれば、自分が主人公になって生きられる、ということです。
松下幸之助さんの言葉です。 「逆境もよし、順境もよし、要はその与えられた境遇を素直に生き抜くことである」 まさに至言です。 素直に生きていたら、よい境遇も悪い境遇もないのです。 そこにはただ、一生懸命に生きる「場所」があるだけです。
「帰家穏坐」という禅語があります。その意味は、平たくいえば、 わが家に帰ってゆったりとあぐらをかいたときにこそ、心がどこまでも安らかで穏やかな世界が広がっている、 ということです。  さらに禅の本質からいえば、 わが家という言葉には、誰の中にも備わっている仏性、つまり、本来の自己という意味も込められています。 即ち、自分の仏性に目覚める悦びを示した言葉なのです。  本来、「家」とはそうした場所、自分の居場所にもっともふさわしい場所なのです。  ここはひとつ、少し性根を据えて「家」を見直してみませんか?
「歩歩是道場」 という禅語があります。 私の好きな言葉ですが、どこにいてもそこが「道場」であり、なにをしていてもそれが「修行」である、という意味です。  禅では「行住坐臥」のすべてが修行ですから、坐禅をするのも、食事をするのも、掃除をするのも、顔を洗うのも、同じように丁寧に取り組まなければなりません。
「清風明月を拂い、明月清風を拂う」  さわやかに吹く風と明るく輝く月は、それぞれに美しく、ときによって、お互いが主となったり客となったりしながら、一体となって美を高め合っている、という意味の言葉です。  人間関係にあてはめれば、 人はつきあっている人に生かされ、また、その人を生かしてもいる、 ということ。誰かを生かしたり、誰かに生かされたりしている、と感じるのは、なにも熱っぽく実のある議論をしたり、高尚な対話をしたりしているときだけではありません。