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人は生まれながらにつながり、孤独でもある

日付

Jul 21, 2018

メモ

  • 仏教の世界ではそもそも、孤独を病としてとらえることをしません。なぜなら、人は生まれながらにして孤独な存在だからです。(中略)ただし、ここで忘れていけないことは、人は絶対的に孤独であると同時に、誰もがつながっているということです。仏教ではそれを「縁起」と呼びます。他との関係性の中で初めて、それとして存在できるということです。万物はこのつながりのネットワークの中にあり、その他には何一つ存在することは出来ません。(中略)独一無比にユニークな存在である独在性と、全体と一つにつながっている共在性とが矛盾なく、同時に成り立っている。その綾模様の中に、人間の苦しみや悲しみがあり、幸せや喜びもある。(中略)どうあがいても存在のあり方には逆らえませんから、それに随順した生き方をしていくことが自然であり、賢明です。二重構造のうちの独在性だけ、あるいは共在性だけに囚われるのは、文字通り一面的で、それではバランスを欠いた生き方になってしまうでしょう。(pp.68-69)
  • 仏教は、問題に対して否認、回避、闘争ではなく、直面、直視、傾聴を勧めます。問題の解決よりも、問題の理解が先決なのです。(pp.71)
  • 心のつながりの自覚があれば、一人でも孤独感にさいなまれず、むしろ孤独の深い味わいを楽しめるようになるでしょう。そうではなく、孤独の事実としっかり向き合わないまま、孤独感を忘れるために他人とつながろうとする先にあるのは、共依存や馴れ合いという傷の舐め合いです。それでは相手を利用し搾取することになり、孤独による苦しみをかえって増幅することにしかなりません。 反対に、孤独と向き合い、それを深めた先にあるのは、孤独を糧にすることで成熟した個であり、それは本当の意味で確立された個です。そして、その個は、外に向かって開かれています。 閉じた個は、自分を開いたら攻撃されると思っているので、常に防御の体制を取ります。防御の裏側に何があるかというと、それは恐怖です。このバリヤーが自分を孤立させ、孤独感を生んでいる。孤独は存在の事実ですが、孤立は主観的産物です。開かれた個は孤独を恐れていませんから、防御の必要がなく、自然と開かれています。そして、自分を開くことで、様々なリソースが流れ込んでくるでしょう。色々なサポートが届いてくる。孤独だけど、孤立してはいない。(pp.72)
  • 世俗的マインドフルネスとは、「私の問題」を解決するために、マインドフルネスが役に立つという発想です。すなわち、私に降りかかってくる問題の方をなんとかしようということです。それに対して仏教的マインドフルネスでは、「私という問題」を解決することを目指します。この私が、そもそもの問題だというわけです。(中略)「私の問題」という場合、私自身は問題視されていませんよね。そのときに問題とされるのは、言うことを聞かない部下や自分を評価してくれない上司など自分の外側にあり、私に降り掛かってくる難儀な事件です。しかし、「私という問題」の場合、本当の問題は外側に有るのではなく、自分自身だという洞察です。僕は同じことを「人生上の諸問題」と「人生という問題」という言い方で区別することもあります。(pp.74)
  • ネットワークで繋がっていることで思い通りにならないことはあるけど、自分で選べることもたしかにある。宇宙でひとりぼっちだから寂しく、孤独に生きるしかないわけではなくて、ひとりぼっちという事実の上に立ちながらも、ひとりぼっち感にさいなまれないで、活きいきした人や物とのつながりを育てていくために生きていくこともできる。独在性にしっかり足をおろした人だけが、共依存や馴れ合いではない、成熟した共在性の世界を想像できるのだと思います。 仏教は、「自分の足で立って、人々とともに歩きなさい」と教えています。孤独を受け入れて自立した人々が共同体をつくるという、興味深いプロジェクトを提案しているのです。孤独を病にしてしまうのではなく、それを健全に生きるための鍵は、自分の手の中にあります。(pp.78)

引用メモ