感じたこと
内容
引用メモ
よく、「自分の言葉で話しなさい」ということが言われ、創意のある言葉やユニークな 言葉を繰り出すことが無闇に推奨されることもあるが、「自分の言葉で話す」というのは 必ずしもそういうことではない。むしろ、ありがちな言葉であっても、数ある馴染みの言 葉の中から自分がそれをしっくりくる言葉〉として選び出すのであれば、そのことのう ちに、これまでの来歴に基づく自分自身の固有なありようや、自分独自の思考というもの が映し出される。逆に、「お約束」に満ちた流暢な話しぶりや滑らかな会話は、(こういう 場合は人はこう言うものだ〉、〈こう言うのが世間では正解だ〉という暗黙の基準にしばし 支配されている。それが常に悪いわけではないが、しかしそのときには、言葉に責任を もつべき自分がそこに存在しないことも確かなのである。
それから、この迷いの感覚がとりわけ道徳的な贈り物であるのは、私たちが紋切り型の 言葉の使用に安易に流れることに対して、この感覚が抵抗を示してくれるからだ。 一二四 でも触れたように、日々のコミュニケーションにおいて、ありがちな言葉をテンポよく 繰り出しているとき、私たちはしばしば思考停止している。逆に、迷いを常套句でやり過 ごさず、言葉同士の繊細なニュアンスの違いを感じ取り、意識的にぴったりの言葉を探す ことは、自分自身の思考を開くことにつながりうる。これもすでに、一一五頁で「ニュー スピーク」の特徴に絡めて確認した点だ。
母語の言葉にあらためて注意を傾ける
カール・クラウスという人物については前章でも触れたが(一七七頁)、彼は、その生 を通じて「言葉の実習 (Sprachlehre)」 と題したエッセイを発表し続け、母語の言葉に あらためて注意を傾けることの重要性を説き続けた。たとえば、「zumuten (求める)」と 「zutrauen (期待する)」の違い、「nur noch (もはや~しかない)」 と 「nur mehr (いまや ただ~しかない)」の違いなど、個々の言葉の微妙なニュアンスを、比較や例示などを通し 具体的に浮き彫りにしていく作業を続けたのである。
前節でジョン・マクダウェルの議論を引きつつ確認したように、いまある言葉の多くは、 長い時間をかけて形成された、世界に対する特定の見方を含むものだ。そして、時間は流 れ、世界は変わり、言葉も変わっていく。そうした変化と、個々の言葉が湛える豊かな意 味合いとを繊細に捉えながら、用いるべき言葉をよく吟味する言葉を大切にするとい うのは、そうした努力を指すのではないだろうか。
伝統は変化し、言葉も変化する
マクダウェルの言う通り、伝統へと入っていくことは、母語を学ぶことの一部を成して いる。ただし、このことはもちろん、物事の伝統的な見方はすべてそのまま受け継がれて 保存される、ということを意味するわけではない。言語は生ける文化遺産であって、私た ちの生活のかたちが絶えず変容を続けるなかで、言葉やその用法も変わり続けている。 そして、特定の言葉に対する違和感は、社会や物事のあり方に対する私たちの見方が変 わりつつあることを示す重要なサインでありうる。たとえば、「お母さん食堂」や「おか あさんといっしょ」といったものに見られる「お母さん」の用法は、現在でも疑問に思っ たり不自然に感じたりする人が一定数おり、今後もその割合は増えていくだろう。
新語が持つ、しがらみの薄さ
明言を避け、責任を回避する姿勢
このように、どこか明言を避けてぼやかす姿勢、言質を与えず責任を回避する姿勢こそ が、「○○感」という言葉がいま氾濫を起こしている大きな要因だろう。
実際、いま日常のさまざまな場面で、「そこはよくなった感あるよね」とか、「あれは無 理してる感がする」といった類いの言い回しがよく耳に入ってくる。「よくなった」とは 言い切らず、「無理してる」とは断言しない、曖昧な言い方だ。
そしてこのことは、謝罪というものを構成する、もうひとつの主要な特徴に結びついて いる。それは、謝罪は儀式ではないということだ。謝罪は多くの場合、自分が何をしたの かを説明し、それが悪いことだったと認める所作を行うだけで終わるのではなく、むしろ そこから始まる。それだけで常に謝罪を謝罪として完成させるような、そうした魔法の言 葉や態度などは存在しない。軽微なケースを除けば、謝罪の言葉を発したり頭を下げたりすることは、謝罪のスタートライン、謝罪という実践のはじまりに過ぎないのである。
たとえば、哲学者カント(一七二四一八〇四)の主著のタイトルである『純粋理性批判 (Kritik der reinen Vernunft)』 は、理性能力のある種の限界をよく吟味して画定する、と いった意味であって、「批判」ということで単純な攻撃や非難といったものを指している わけではない。また、日本語の「批判」も元々は、批評して判断することや、物事を判 定評価すること、良し悪しや可否について論ずることなどを意味していた(日本国語大 辞典 第二版)。
「当意即妙さ」「流暢さ」は賞賛されるべきことなのか
滑らかに進行する言葉のやりとりは、あたかも定石に沿って囲碁を打つように、すでに なら 繰り返し踏み均された会話の道筋を辿っている場合が多い。そして、その整備された道筋 は、長く蓄積されたステレオタイプの温床でもある。また、たとえば政治家の討論会にお いて当意即妙に思える受け答えがなされているように見えても、それは往々にして、周到 に準備された想定問答や、古来錬成されてきたレトリックや雄弁術の賜物にほかならない。
漢字の構成から意味を読み取るということに関しては、当用漢字表や常用漢字表の制定 に伴う当て字表記にも問題がある。たとえば「かっこうがよい」などの「かっこう」の本 来の漢字表記は、「格好」ではなく「恰好」であり、後者の「恰」は、「あたかも、ちょう ど」といった意味をもつ漢字だ。それが、戦後に「恰」が表外字となったことから、公用 文書などでは同音の「格」が代用字として用いられるようになり、やがて一般化した、と いう経緯がある。その結果、「かっこう(格好)」という言葉は、その元々のかたちや意味 の成り立ちを辿ることができないものになってしまっている。(そして、同様の例はほかに も、「抽籤」から「抽選」へ、「象嵌」から「象眼」へなど、無数に存在する。)
実際、「しあわせ」は元々、二つの事物がぴったり合った状態を指す言葉だった。そし その状態は自分の意志や努力だけでは実現せず、それを超えた働きに大きく左右され るものだという受けとめ方が、この言葉には込められてきた。それゆえ、かつてこの言葉 は「めぐり合わせ」や「運」、「運命」、「なりゆき」、「機会」といったものを主に意味し、 しかも、良いめぐり合わせにも悪いめぐり合わせにも用いられてきた。つまり、「幸運」 以外にも、「不運」、「不幸」、「人が死ぬこと」、「葬式」といった意味すらもっていたので ある(日本国語大辞典 第二版)。