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絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか

感じたこと

  • フェアな内容、素晴らしい。

内容

  • いま挙げた移民や不平等などの問題は、アメリカだけでなく世界のどの国でも政治論議においてある意味で最前線に位置づけられ、さかんに議論されている。だがこうした問題に対する人々の意見は、個人的な価値観の単なる主張であることがあまりに多い(「私は寛容だから移民受け入れに賛成である」「移民は国家のアイデンティティを脅かすので受け入れるべきではない」など)。しかも個人の価値観は 拵え上げられ報道された数字や単純化された解釈に頼っていて、自分の力で問題を一生懸命考えてみようとする人はまずいない。
  • 現代の危機において、経済学と経済政策は重要な役回りを演じている。成長を回復するために何ができるのか。富裕国にとって、経済成長はそもそも優先すべき課題なのか。ほかにどんな課題を優先すべきか。あらゆる国で急拡大する不平等に打つ手はあるのか。国際貿易は問題の解決になるのか、深刻化させるだけか。貿易は不平等にどのような影響をもたらすのか。貿易の未来はどうなるのか、労働コストのより低い国が中国から世界の工場の座を奪い取るのか。移民問題にはどう取り組むのか。技能を持たない移民が多すぎるのではないか。あるいは新技術にどう対応するのか。たとえば人工知能(AI)の台頭は歓迎すべきなのか、懸念すべきなのか。そしてこれがいちばん急を要するのかもしれないが、市場から見捨てられた人々を社会はどうやって救うのか
  • 経済学では医学と同じく、「これが正しい」と断言できることがない。せいぜいできるのは、この結論に基づいて行動してもまず大丈夫だろう、と言うことぐらいだ。そのときでさえ、あとで方針転換が必要になるかもしれない。また、基礎科学では定理や法則が確立されているが、経済学はそれを現実の世界に応用するところから始まる点でも、医学と似ている
  • 最近行われた二つの実験は、事実確認が手順に則って行われるような国でも、こうした選挙戦術が有効であることを示した。そのうちの一つはアメリカで行われた実験である。この実験では二種類の質問が用意された。第一の質問では、実験参加者は移民についての 自分の意見 を求められる。第二の質問では、移民の数と特徴について 事実に基づく知識 を訊ねられる。すると、第二問に先に答えてから第一問に答えた回答者、つまり自分の事実誤認を再確認してから意見を述べた回答者は、その逆の場合と比べ、移民受け入れに反対する傾向が顕著に強いことが認められたのである。しかも実際の数字を教えられたあとも、事実認識は変わっても、意見は変わらなかった
  • よりよい経済条件を求めて移動しようという気を起こさないのは、発展途上国の人々だけではない。ギリシャでは、経済危機が深刻化した二〇一〇~一五年に三五万人のギリシャ人が国外に移住したと推定される。大きい数字のようだが、実際にはギリシャの総人口の三%にすぎない。二〇一三年と一四年のギリシャの失業率は二七%に達し、しかもEU加盟国であるギリシャの人々は自由にEU域内を移動し、働くことができるのに、である。
  • 言い換えれば、こうだ。強制的であれ自発的であれ、ともかくも移住をした人が経済的利益を得たことは事実ではあっても、大方の人がすべてを捨てて富裕国へ行くチャンスをうかがっているという見方は、到底まじめには受け取れない。経済的な見返りの大きさに比して、移民の数は思うほど多くない。何かが彼らを押し止めるのである。それが何なのかについては後段でまた論じることにして、その前に移民の流入と労働市場の反応を見ておきたい。とくに多くの人が信じているように、移民の利益が受入国の住人を犠牲にしてほんとうに増えるのかどうかを検証することにしよう
  • 言い換えれば、受入国の既存の未熟練労働者と低技能移民は必ずしも直接対決するわけではない。それぞれに適した仕事はちがう。移民はコミュニケーション能力をさほど必要としない仕事に、受入国の労働者は必要とする仕事に就くというふうに。現に移民を雇えるようになると、企業は雇用数を増やしており、単純な仕事を移民に、移民にはできない高度な仕事を既存労働者に割り当てるという形がしばしば見られる
  • 「あらゆる社会科学分野の中で、真理であり、かつ自明でない命題は何か、教えてほしい」というのである。これに応じてサミュエルソンが持ち出したのが、国際貿易理論の柱となっているあの比較優位である。このときのサミュエルソンの言い分が傑作だ。「これが論理的に正しいことは、数学者の前で改めて論じる必要はあるまい。またこの理論が自明でないことは、何千人ものきわめて優秀な人間によって確かめられている。彼らは独力ではこの理論を考案できなかったうえ、説明されても理解できなかったのだ」
  • なれば、両国が貿易をする限りにおいて、労働力が豊富な国は労働集約型の財の製造に特化し、資本集約型の財からは手を引くだろう。そうすれば、貿易がまったく行われていないか規制されている場合に比べて労働需要は拡大し、したがって賃金は上昇するはずだ。逆に資本が相対的に豊富な国では、資本需要が拡大して資本価格が上昇(賃金は下落)するはずだ。 労働力が豊富な国はおおむね貧しい国が多く、かつ労働者は雇用主より貧しいのがふつうであるから、自由貿易は貧困国の貧困層にとって好ましい影響をもたらし、賃金格差を減らすと考えられる。逆もまた成り立つ。したがってアメリカと中国が貿易を行えば、中国の労働者の賃金は上昇し、米国の労働者の賃金は下落する はず
  • 発展途上国の多くの事例とかけ離れていることだ。過去三〇年間に多くの低~中所得国が貿易自由化に踏み切っている。ところがその後に起きたことは、ストルパー=サミュエルソン定理の示した方向とはまったく逆になった。低~中所得国が豊富に抱える低技能労働者(したがって最も助けを必要とする人々)の賃金は、高技能労働者や高学歴労働者の賃金に比して伸びが低かったのである
  • 労働者がなかなか他地域へ移動しないとすれば、ある産業から別の産業にもなかなか移らないと考えるのが妥当だろう。このことは、労働市場についてすでにわかっていることと完全に一致する。インドでは、貿易自由化が貧困削減にマイナスに作用することをトパロヴァは示したが、このことは労働市場にはより極端な形で現れる。というのも、厳格な労働法により労働者の解雇が困難で、不採算企業の市場からの退場も進まないため、元気な企業がなかなか取って代わることができないから
  • 一段と衝撃的なのは、 同じ企業内でも リソースの移転が進まなかったことである。インドの多くの企業は、複数の製品を製造している。となれば、安価な輸入品と競合する製品は製造を打ち切り、不利益を被らない製品に注力すればよさそうに思える。労働法で解雇がむずかしい場合でも、企業内の配置転換までは禁じられていない。にもかかわらずトパロヴァは、輸入品と太刀打ちできない製品の製造を打ち切った企業の例を発見できなかった。経営者は、製造ラインの転換はコストがかかりすぎる、労働者は解雇せず新しい製造機械を導入するとなればコスト負担が大きい、と考えたのだろう
  • 経済学部で学ぶ学生はみな、貿易は大きな利益をもたらし、その利益が再分配される限りにおいて国民全員の生活水準が向上すると教わる。だが本章で指摘した次の三つの事柄は、このバラ色の貿易理論に水を差す。 第一に、国際貿易から得られる利益は、アメリカのような規模の大きな経済にとってはきわめて小さい。第二に、規模の小さい経済や貧しい国にとっては貿易の利益は潜在的に大きいものの、市場開放を行うだけでは問題は解決しない。移民を扱った第二章で論じたとおり、国境を開いただけでは人は移動しないのと同じで、貿易障壁を取り除いただけでは初めてグローバル市場に進出する国が利益を手にすることはできない。今日から門戸を開放しますと言うだけでは、経済は発展しないのである(それどころか貿易すら発展しない)。第三に、貿易利益の再分配は口で言うほど簡単ではない。貿易で打撃を受けた人々の多くはいまなお苦しんでいる。
  • 自分とはちがう人種、宗教、民族、さらにはちがう性に対する剝き出しの敵意をあからさまに表現する──これが、世界中で台頭するポピュリスト政治家の常套手段だ。アメリカからハンガリー、イタリアからインドにいたるまで、人種差別や民族的偏見と大差ない発言を繰り返し、選挙で公約に掲げるような政治家が跳梁跋扈している
  • さらに、経済学者が統計的差別[ statistical discrimination] と呼ぶものがある。統計的差別とは、過去の統計データに基づいた合理的判断から結果的に生じる差別のことだ。私たちがパリでウーバーを利用したとき、その運転手はいかにウーバーがすばらしいかを熱く語ってくれた。アフリカ系の自分がこんな立派な車を運転していると、以前は麻薬の密売人か車を盗んだのだろうと決めつけられたという。大方のフランス人は、フランスにいるアフリカ出身者は貧しく、したがって新車など買えないと考えている。これ自体は統計的事実に基づく合理的な判断だ。ところがその判断に基づき、大方のフランス人は、新車に乗ったアフリカ人は だれでも 犯罪者だとみなしていた。だがいまは、ああ、ウーバーの運転手か、と考えてくれる。これはすごい進歩だというのである
  • アメリカの心理学者クロード・スティールは、自分自身や自分が帰属する集団に対して差別を行うという現象に注目して有名な実験を行った。この実験であきらかになった自己に対する差別は「ステレオタイプの脅威」と名付けられている。実験では学生の被験者を対象にテストを実施する。最初に「実験室における問題解決」についてのテストをすると言われたときには、黒人学生と白人学生の成績は拮抗してい た。ところが、「個人の能力測定」のテストをすると言われたときには、黒人学生の成績は白人学生を大幅に下回ったのである。 ステレオタイプの脅威の影響を受けやすいのは、黒人だけではない。女子学生と男子学生を対象に高等数学のテストを行う実験では次のような結果が出ている。テスト前に「女性は数学が男性ほど得意でないということがよく言われるが、このテストにはそれは当てはまらない」と言われたときは、女子学生の成績は男子学生と同等か上だっ た。一方、テスト前に「アジア人は他の民族より数学の能力がすぐれていると言われる。今回のテストはそれを確かめるためのテストである」と言われると、大学進学適性試験(SAT)の数学で高得点をとった数学・工学専攻のアメリカ人男子学生の成績はひどくお粗末になってしまっ た。同様の実験が異なる状況で繰り返し行われており、さまざまなタイプの自己差別的な先入観が報告されて
  • 三つの興味深い傾向が確認された。第一に、被験者はちゃんとニュースに反応することだ。ニュースを読むと、報道内容に基づいて自分の考えを修正していることがわかった。第二に、自分で配信元を選んだ被験者は、おおむね自分の党派的な傾向に近いソースを選んだ。しかし第三に、自分の党派的な傾向に近いソースを選んだ被験者は、その傾向自体を修正し、実験が終わる頃には中道に近づいていたのである。これは、エコー・チェンバー効果と正反対の結果である。全体として、偏向したソースを選ぶ選択肢を与えられると、ユーザーは党派色が 薄れる 傾向がある。自分が選んだソースにバイアスがかかっていることを承知しているので、それを薄めようとする意識が働くからだろう。これに対して選ばれたニュースを受け取るだけだったユーザーは、バイアスをとくに認識しないため、そうはならない
  • 偏見あるいはその根っこにある好み(社会的選好)は、現代の病理の原因である以上に症状なのだ。いまの世の中はまちがっている、自分は不当に不利益を被っている、自分は尊重されず見捨てられている──そう感じさせる多くのことに対する防衛反応が、差別や偏見の形で表現される
  • 第一に、差別的な感情を露にする人、人種差別に共感する人、あるいはそうした人に投票する人を軽蔑したり見下したりする(「嘆かわしい」など)のは、感情を逆撫でするだけである。差別的な感情は、この世界で自分は尊重されていないのではないかという疑いに根ざしていることを忘れてはいけない
  • 差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことではない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ。大きなことを公約し、大掛かりな政策を打ち出す政治家は、往々にして竜頭蛇尾に終わる。大きなことをやり遂げるのは容易ではない。私たちは政策論議に対する信頼を取り戻し、無能力を大言壮語でごまかすばかりが政治ではないのだと証明しなければならない。そして言うまでもなく、多くの人がいま感じている怒りや喪失感をいくらかでも和らげるためにできることを試みなければならない。ただしそれは容易ではなく時間もかかると認識
  • 私たちは成長理論を裏付ける証拠をがんばって探したが、勇気づけられる結果が得られたとは言いがたい。そもそも成長を計測するのはむずかしいが、成長を牽引する要因をこれとはっきり特定するのはもっとむずかしい。だから、成長を促す政策とはこういうものだと自信を持って言うこともできない。となれば、いまはもう経済学者は成長に取り憑かれるのをやめるべきではないだろうか。すくなくとも富裕国で答を探すべき問いは、どうすればもっと成長しもっと富裕になるかということではなくて、どうすれば平均的な市民の生活の質を向上できるか、ということではないだろうか。そのほうがずっと有益である。たしかに発展途上国では、経済理論のとんでもない誤解や誤用によって成長が阻害されているケースがままある。それについては経済学者に何か役に立つアドバイスができるかもしれない。しかし後段で述べるように、それすらも限られている
  • それは、長期的なスパンで変動を見る限りにおいて、税率と成長の間に因果関係が存在するとは結論できない、ということである。何らかの関係性はあるとしても、同時期にさまざまな出来事が起きているため、その関係性を明らかにすることは困難だ。そのうえ各国の税率の変化を調査すると、成長率と税率の間には相関関係すら存在しないことがわかった。一国における一九六〇年代~二〇〇〇年代の減税幅と成長率の変化の間には、何の関係も見受けられなかったのである
  • 富裕国の成長要因がわからないのと同じく、貧困国についても誰もが納得する決定的な成長の処方箋は見当たらない。今日では、専門家もこの事実を認めている。二〇〇六年に世界銀行が、ノーベル経済学賞を受賞したマイケル・スペンスに成長開発委員会の委員長を引き受けてほしいと要請した。スペンスは最初断ったが、高名な学者ぞろいのメンバーの中にあのロバート・ソローも含まれると知って引き受ける。だが彼らの報告書は、要するに成長を導く一般原則といったものは存在しない、という結論に終わっている。過去の成長事例には二つとして似通っているものはないというのである。イースタリーはこの結論について、あまり思いやりがあるとは言えない口調で、しかしきわめて正確にこう論評した。「二一人の世界一流の専門家で構成される委員会、三〇〇人もの研究者が参加した一一の作業部会、一二のワークショップ、一三の外部からの助言、そして四〇〇万ドルの予算を投じて二年におよぶ検討を重ねた末、高度成長をどのように実現するかという問いに対する専門家の答は、わからないというものだった。しかも、専門家がいつか答を見つけることを信じろという。
  • 本章でこれまで論じてきたことを総合すると、経済成長について何がわかったと言えるだろうか。まず、ロバート・ソローは正しかった。一国の一人当たり所得が一定の水準に達すると、たしかに成長は減速するように見える。技術の最先端にいる国、これは主に富裕国だが、これらの国々における全要素生産性(TFP)の伸びは、謎である。どうすればTFPを押し上げられるかはわかっていない。 そして、ロバート・ルーカスもポール・ローマーも正しかった。貧困国にとって、ソローの言う収束は自動的には起きない。これはおそらく、スピルオーバー効果が期待できないからだけではあるまい。貧困国のTFPの伸びが先進国より大幅に低いのは、市場の失敗が最大の原因だと考えられる。裏を返せば、事業経営に適した環境が整っていれば市場の失敗を是正できる限りにおいて、アセモグル、ジョンソン、ロビンソンも正しかったことになる。 それでもなお、彼らはみなまちがっていた。一国の経済成長も一国のリソースも総和として捉え(労働力人口、資本、GDPなど)、その結果として重要なことを見逃してしまったからである。非効率なリソース配分についてわかったことを踏まえると、私たちがすべきなのはモデルで考えることではなく、現実にリソースが どう使われているかを見ることだ。ある国がスタート時点ではリソース配分がひどくお粗末だとしよう。たとえば共産主義経済だった頃の中国や極端な経済統制を行っていた時期のインドがそうだ。このような国では、リソースを最適の用途に再配分するだけで大きなメリットが得られる。中国のような国があれほど長期にわたって高度成長を続けられたのは、彼らが人材や資源をまったく活用できていない状態からスタートし、それを最適活用できるようになったからだと考え
  • 本章の結論は、こうだ。経済学者が何世代にもわたって努力してきたにもかかわらず、経済成長を促すメカニズムが何なのかということはまだわかっていない。富裕国で再び成長率が上向きになるのか、どうすれば上向くのか、ということははっきり言ってわからないのである。それでも、できることはある。富裕国でも貧困国でも、現在の甚だしいリソースの無駄遣いを断ち切ることは十分に可能だ。それをしたからといって恒久的な高度成長が始まるとは言えないが、市民の幸福を劇的に改善することはできる。さらに、いつ成長という機関車が走り出すのか、いやほんとうに走り出すのかさえわからないにしても、貧困国の人々は健康で読み書きができ多少なりとも先見の明がありさえすれば、列車に飛び乗れるチャンスは大きい。グローバル化で勝ち組になった国の多くがかつて共産圏に属していたのはけっして偶然ではなかろう。共産主義だった国は教育や医療など人的資源に精力的に投資した(中国、ベトナムがそうだ)。また共産主義の脅威にさらされていた国も、それに対抗すべく同様の政策を実行した(台湾、韓国が好例である)。したがってインドのような国にとって最善の政策は、手元にあるリソースで市民の生活の質を改善することである。教育、医療の質的向上を図り、裁判所や銀行の機能不全を解消し、インフラを整備する(道路建設、都市部の生活環境の改善
  • ここから、二つの結論を引き出すことができる。一つ目は、取り憑かれたように成長をめざすのはやめるべきだということだ。レーガン=サッチャー時代の成長信仰以来、その後の大統領も成長の必要性をつゆ疑わなかった。成長優先の姿勢が経済に残した傷跡は大きい。成長の収穫を一握りのエリートが刈り取ってしまうとすれば、成長はむしろ社会の災厄を招くだけである(現にいま私たちはそれを経験している)。すでに述べたように、成長の名を借りた政策はどれも疑ってかかるほうがいい。成長の恩恵がいずれ貧困層にも回ってくるといった偽りの政策である可能性が高いからだ。成長は少数の幸運な人々に恩恵をもたらすだけだとすれば、そのような政策がうまくいくと考えることのほうを恐れるべきである。 二つ目は、この不平等な世界で人々が単に生き延びるだけでなく尊厳を持って生きて行けるような政策をいますぐ設計しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう、ということだ。そのような効果的な社会政策を設計し、必要な予算を確保することこそ、現在の喫緊の課題で
  • どの国でも政府に無駄が多いことはたしかだ。インド、インドネシア、メキシコ、ウガンダなどさまざまな国で行われた研究は、どれも、政府のやり方をすこし変えるだけで大きな成果が上がると指摘する。たとえばインドネシアでは、政府プログラムの受給資格があることを明記したカードを対象者に送付するという一手間だけで、補助金の受給率が二六%上昇した。自分に資格があるとわかると、人々はちゃんとしかるべき役所に出向いて補助金を受け取る手続きをしたのである。その一方で、第五章でも指摘したとおり、民間企業にも膨大な無駄が存在する。思うに、リソースの効率的なマネジメントは口で言うほどたやすくはないということだろう。
  • 「上から見下す」姿勢から「敬意を払う」姿勢への転換は、シカゴのインナーシティで始まったBAM[ Becoming A Man] と呼ばれるプログラムにも現れている。このプログラムは地域のNPOがシカゴ市と連携して行っているもので、シカゴ大学犯罪研究所の協力を得て未成年の暴力抑制に取り組んでいる。ただし、暴力はいけないと頭ごなしに決めつけるのではない。まず、荒廃した地区で暮らす一〇代の若者にとって暴力は規範であり、弱虫のカモという評判を立てられることを避けるには攻撃的でなければならず、ときには闘うことも必要だと認める。このような環境にいたら、挑発に反射的に応じなければやっていけない。だから、暴力は悪いとは決めつけず、プログラム参加者が暴力を振るっても罰したりはしない。プログラムでは認知療法を参考にした一連のアクティビティを行い、どの場面では闘うことが適切な選択肢か、どの場面ではそうではないか、冷静に判断し感情をコントロールする方法を学ぶ。具体的には一分間で状況を把握し適切な行動を選べるようにする。プログラムの効果は大きく、期間中の逮捕件数は約三分の一にまで減り、暴力犯罪による逮捕件数は半分になった。また高校卒業率は一五%向上
  • これらの政策の多くは、よい経済学と悪い経済学(広くは社会科学)の助けを借りて策定された。社会科学者は多くの人々が気づくよりはるか前から、ソ連型統制経済のばかげた野心を批判し、インドや中国には自由企業制を導入すべきだと主張し、環境破壊の危険性を訴え、ネットワークの威力を見抜いていた。抗レトロウィルス薬を発展途上国に提供して何百万人もの命を救った賢明な篤志家は、よい社会科学を実践したと言えるだろう。よい経済学は無知とイデオロギーに打ち克ち、防虫剤処理を施した蚊帳をアフリカで売るのではなく無償で配布させることに成功し、マラリアで死ぬ子供の数を半分に減らした。一方、悪い経済学は富裕層への減税を支持し、福祉予算を削らせ、政府は無能なうえに腐敗しているから何事にも介入すべきでないと主張し、貧乏人は怠け者だと断じて、現在の爆発的な不平等の拡大と怒りと無気力の蔓延を招いた。視野の狭い経済学によれば、貿易は万人にとってよいことで、あらゆる国で成長が加速するという。あとは個人のがんばりの問題であり、多少の痛みはやむを得ないらしい。世界中に広がった不平等とそれに伴う社会の分断、そして差し迫る環境危機を放置していたら、取り返しのつかない地点を越えかねないことを見落としているので

引用メモ