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目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙

感じたこと

「なぜ、もっとちゃんと〇〇のようにできないの?」

〇〇には様々なものがあります。お兄ちゃん、お姉ちゃんという言葉を入れ込んで末っ子に対して投げかけられたり、優れた同僚の名前を入れて職場で提示されたり。

この言葉が口にされるとき、あるいはこの問いを頭に持った人から厳しい言葉が投げかけられるとき、その受け手は〇〇に対して複雑な感情を抱くことになるでしょう。〇〇がいなければ、こんなことを言われることもなかったのにと。

この本は、視覚障害を持ちながら「なぜ、もっとちゃんとヘレン・ケラーのようにできないの?」というメッセージを受け続けてきた筆者が、その感情を、序盤には怒りと少しの同情、最後には愛を伝える本でした。いずれも、深く、強い感情です。それらを手紙の形で(返信は返ってきませんが)本人に伝えていきます。

何か出来ないことがあれば「ヘレン・ケラーはこんな努力をして...」という言葉が投げかけられる世界。一方で、たとえ何かを達成したとしても「それを独力で達成したの?そうじゃないでしょ」「盲目の目や聞こえない耳の背後には知力などない」という目が乱暴に向けられる世界。私なら、全く耐えられる気がしません。筆者の経験から生まれる怒りは、「あなたはでっち上げであり、偽物であり、ペテンだったのではないですか?」という第1章での問いかけに繋がります。

11歳のときの盗作疑惑と学校内裁判、共同生活の中にみえるヘレン・ケラーの性生活、サリヴァン女史による会話歪曲、それらの事実を"Creative Nonfiction(創作的ノンフィクション)"の形式で丁寧に追っていき、少しずつ、怒りは愛情へと変わっていきます。自分が怒っているのはヘレン・ケラー本人ではなく彼女を神格化・モデル化すると同時に「盲人にこんなことができるはずがない」というステレオタイプが固着した周囲・環境であり、 ヘレン・ケラーもそれに対して怒りを感じていたはずだ、という確信を通じて。

果たして私たちは、手のひらに文字を書かれたときに「指が固く、敵意がある」と感じることができるだろうか。話す相手の吐息を鼻で感じることで、その人の体調や具合を知ることができるだろうか。それができる人を盲目的に称賛することも、「それがなんだ」と言って突き放すことも、ヘレン・ケラーや筆者のジョージナは軽蔑するだろう。

怒ろう。わかりやすい不正義だけではなく、

不公正をもたらすあらゆる神話に。

あとがきで伊藤亜紗さんが書かれているように、怒りとは、希望へと続く扉を開ける力なのかもしれないから。