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問いの立て方

感じたこと

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内容

  • しかし、私はそのやり方にてほんとうのところでの「いい問い」を摑めるようになるとは思えません。ロジカルをよしとするのも、ロジカルがよいという考えがあってのこと。なぜロジカルであったりエビデンスベースであったりすれば我々は正しいと思ったり、納得できると思ったりするのか。ほんとうの「いい問い」を考えるにあたっては、そもそも論の果てまで考える必要があると思う
  • 気の利いたアイデア的な何かしらコロッとした答えめいたものを望まれる方には本書は向いてないかもしれません。課題は分割して考えなさい、こういう問題にはこういう別視点を入れてみなさい、テーマにちょっとした矛盾を含めなさい、解決策に物語性を入れなさい……といった「私(著者) は答えをもっている」というスタンスの本ではありません。そのような内容は、私からすると、どうも「こうだからこう」というようにインプットとアウトプットを直接的、物理的にとらえすぎのように思える
  • そもそもなぜ人は問いあるいは考えを持つのか、の答えがこれです。そもそもそういうものなのです。そして、考えとは言葉のことです。なぜなら言葉なしにはいっさい考えられませんから。つまり言葉をもった時点で人であるということです。そしていっそう恐ろしいのはその言葉は自分自身で発明したものではないということ。気の遠くなるほどの時間、人の生き死に、それらを経て在る言葉というもの。それを人なら誰でも持って使っている。それは有史以来の人の歴史そのものを誰しもが持ち歩いているということです、自覚するにせよしないにせよ。この世は自分の見方でしか見られないけれど、「言葉」として「考えている」ということはそのちっぽけな自分を軽々しく超えている
  • 「こうだからこう、と言い切るような断定的な意見は、インプットとアウトプットを物的に扱いすぎており、それは結果で結果をどうにかしようとしている」の 謂 です。考えや意見は問いがあるからあるので、その問いがあることについて考えることがより元にあるという論理は言うまでもない当たり前のこと
  • やはり、問いや意見、考え単独ではなく、前提とされるその根拠こそを見ようとする仕方、つまり、その考えの前提を踏まえたもう一つ深い次元で考えることが、いい問い、すなわち本質的な問いに接近することになる
  • 自分の手の届く範囲、自分が理解できる範疇において、不都合をただ不都合だと指摘するという機械的な応答には、社会とはいかなるものか、という思索の痕跡を感じることができません。そして、あらゆる意見もその場面ごとの境界条件や背景があって生じたのだとの想いを馳せることができないため、限界や矛盾を感じさせない単色的な意見となるのでしょう。結果、意見や考えの瞬発的な視点や切り口勝負となっているのが現代のメディアの在り様なのだ
  • 私は私の歴史に埋め込まれており「私なりに」しか考えることはできない
  • 念のためですが、なぜ枝葉から脱するほうがいいのかを考えるなら、第一に、枝葉は枝葉ゆえ多数かつ多種であり、それぞれに対応できるほど人生は長くないから。第二に、問いや意見を発するということは、たとえそれが愚痴や小言、あるいは反社会的な内容であろうと、何かしらの変化という希望を意図するものだからです。どのような変化であれそれが目的であるなら、より事象に対して効果的な影響力を与えられるほうがよく、であれば、枝葉一つ一つではなくそれが束になって存在する幹のほう、つまり(文字通り) 根本に作用させるほうがよいから
  • 究極的に考えてこの世に無駄というものはありませんが、できるなら「解くべき問い」、「問いに値する問い」に人生を集中させたいのは、有限な時間を生きる我々誰しもがそうでしょう。なお、枝葉は枝葉なりの自負があって当然ですので「些末な問いであることはわかってる。でもそれが自分なんだ」という場合、そのような覚悟があれば大変に立派なことです。ただその場合、世間から見たら枝葉でも、ご本人にとってそれは紛れもない幹となっているのでしょう
  • 影響力があったほうがいいというのは、社会を変えるためではなく、自分を変えるためです。社会を変えようとする人ほど社会は変えられません。それは社会を自分と別のなにか物的なものと捉えているから
  • あなた自身であって、やっぱりどう考えても我々は本来的に「自由」です。したがって、極論するなら……などという修飾語をつけるまでもなく、すべては自らが選択した結果であり、この世のすべてにおいて誰かや何かのせいにできることなど何一つとしてない、というのは、あまりにも当たり前の事実です。これは小賢しい責任論などではなく、全宇宙の認識についての話であることに注意してください。そう、ほんとうの「自由」とは「孤独」という意味に近いのです
  • ビジネス界においてバイアスを取り除くことが大事とはよく言われるところですが、論理で考えれば言うまでもなくそもそもすべてがバイアスなのです。バイアスとは取って付けられるようなものだと考えている限り、その場その場での対処の域を超えず、絶えず「バイアス狩り」の作業に追われることになるでしょう
  • 伴って付け加えなければならないのは、本分とは、何か自分の使命めいた仕事や目標を持つことに限らないということです。有限の時間、つまり有限の身体を持つ我々において、願うようにことが進まないのは、──例えば欲望は尽きないという言葉を持ち出すまでもなく──なぜこうなのか全くわからないけどその有限なる身体の内側に無限なる精神が合一されているからにほかならず、自分はほんとうはあれがしたいのだができなかったという人生がそもそも普通のことだからです。したがって、このような未達や未完も含めて感受し、受容し、納得することが「本分」の在り方となります
  • 何をやろうが、どうしようが、すべてあなたの世界です。逆境も順境も、幸運も不運も、すべてが、です。このように考えることが本章で丁寧に考えを追ってたどり着いた事実であり、このいかんともしがたい原理の認識を持ってでも踏み出す一歩に、人は本分を感じるのだと思います。なお、この地点においては、我々が通常使用している「気分的」の意味合いが移ろいやすく感情的なものという意味合いから、自分が自分であることの確固たる根拠に変わります。なぜなら、考えて、考えて、考えて、考えた先にあったのは自分が無くなること、つまり「考えが無くなる」ということ、だったのですから。考え果てた後に残る心身の感じ、情動は何よりも本分の道標となります
  • 世の本では、成功者によるその体験記的な叙述や、ハウツー的方法論が大半を占めるように思え、洋物のビジネス本でも問いをテーマにしたものは数多くあり、大抵はウーバーやアマゾン、一昔前ならコダックやデルなどの企業調査から「いい問い」が生まれるルールを探し出そうとするものです。事実、そこから学ぶことも多く、わかった気になり、うまくいく気になります。しかし、そればかりになってはいないか、というのが本書の動機でもあったわけです。深く考え、認識することで、間違いなく結果も変わる。それは上手くいくとか上手くいかないとかを超えた域で、必ず自分に還ってくる何かとなる……。その考えの形式を本章で追ってきたつもりです
  • 研究者に限ったことではなく、無私とは消極的に何かを手放すということでは断じてなく、あてがわれた個性と対峙して積極的に自分と戦い、結局なんなのかと問うた徹底の先にある生き 様 のことですから。そうして結果的にそれがその人物の思想と呼ばれる類のものになるのでしょう。歴史を見れば明らかなように、「学者」は研究対象になりますが「研究者」は(ほぼ) ならないのもこの理由によります
  • 実験や調査は、あえて暴言を吐くならそれは一番簡単なことです。もちろん実施の苦労も伴いますし、その実験や調査をするためにまた実験や調査といった研究が必要にもなるわけですが、とにもかくにも必死に頑張って「やればいい」のですから。そしてそこから得られた結果を分析し「説明」すればいいのですから。 他方、実験や調査に先立ってその根底にあるような、何をやるか、なぜやるか、やったら何なのか、そしてそれは何をやっていることになるのか、といった考え、いうならこの世界そしてこの人生への「解釈」を突き詰める行為は、そこに虚無と対峙する自分の全存在がかかっており、何よりも一番辛く難しい。しかも、それを研ぐために世にさらけ出すというのはよほど勇気と覚悟のいること。決して実験や調査を軽んじているわけではありませんが、この「解釈」の苦労と研鑽も同時に併せ持たないと「学問」にはなり得ず、各学術分野における「論文や研究のお作法」に則っているかどうかばかりが論点となり、結果、現在のように学術界において説明は溢れるが解釈はめったにお目にかかれない状態となります。もちろん、「説明」は何らかの課題を解決したり、何らかの便利や何かの原因究明には役立ちますが、そればかりでは思想、すなわち人間の精神のほうはいっこうに研鑽されません。
  • ほんとうのところは具体的な場面の選定として、例えば「二〇二〇年の論点」や「日本のオピニオン」といった類の、既存の枠組みに沿って話を進めようかと資料を調べたのですが、あまりにも本書とは世界が違うと感じ、そっと本を閉じました。 誰それが総理大臣になるにはどうしたらいいとか、世界的スタートアップを日本からいかに生まれさせるかとか、本書でいうところの「枝葉」の問いがあまりにも多いと感じたからです。いやむしろ「幹」の問いがなかったと言ってもいいぐらいです。確かに、いかに時代性を捉えているかが勝負のオピニオン誌に対して本質的な議論を求めるほうがおかしいのはわかりますが、四六時中こういうことばかり考えていたら、どんどん忙しくなるものの一向に問題が解決しないという状態に陥るのではないかと危惧しています。
  • 関連して思い出すのは、文芸批評家・小林秀雄はこのシューマッハーの言うところの上部構造を「団体問題」と呼びました。それは、人間があれやこれやと自ら作り出しておいて、それについてやいのやいのと騒いでいるような問題、ということです。それらは確かに重大で重要ではあるが、同時にどうしようもない問題でもあるのでいずれ落ち着くところに落ち着くだけの問題なのだ、と。おそらくは、そういう問題もさることながらより切実なる根本問題、言うならそういう問題を作る人間、その本性についてもっと取り扱ってはどうかと言いたかったのだろうと思います。
  • 現時点でのアイデアや仮説を「これは本質的か?」と自問自答を繰り返して深掘りさせ、本分または本分に通じる具体的な「いい問い」にまで昇華させればいい
  • 今日、書店に立ち寄れば「課題解決」や「創造的」、「未来」という単語を多く目にしますが 、それがポジティブとされるのも、極めて時代的背景に依存することでしょう。例えば、ほんの数百年前の欧州では現在より過去のほうが優れていたとされ、現在はその劣化であるという通念が広まっていました。「ギリシャ時代のあの荘厳な芸術をとてもとても現代の私達は作れない……」そういう感覚で生きる当時の人々にとって、未来などという言葉は特に前向きな意味を持ち得ません
  • 先にも書いたように、「これぞ私の本分」という核心は、一生得られないかもしれません。絶えず自身の感情と向き合い疑いながらも、今の自分にはこれしかないといえる仕事をしたい。ある著名な大御所の作家が「あなたの著作の中で一番はどれか?」と尋ねられ、「それは次に書く本だ」と答えたのは象徴的なエピソードでしょう。
  • チラチラと横を見ながらオリジナリティを出そうというのはマーケティングであってアートではない。創作動機がパトロンのためであろうが、愛しい人ただ一人のためであろうが、時を超えて歴史そのものとなった芸術作品は例外なく大勢に響いたゆえであり、それは個別が全体でもある事実そのものでしょう。無私によって得られる個性こそが真。「いい問い」と本気で向きあうなら、この恐ろしい矛盾とともに在る覚悟がいります
  • 自分のアイデアなどきっとどこかで誰かが既に考えていることだと思って行動するほうが間違いは少ない気がします。「調べは尽くした、それでもやる」。いい仕事とはそういう覚悟とともにあるのでしょう
  • 生きるとは白色の世界を塗る営みだと認めるなら、それは、自分の問いの深さ、懐疑がいかほどのものか、それがそのままその人の人生、生き様となります。その問いが十分深ければ、すなわち本質的であるなら、それは常識的に生きる人を深く納得させることとなり、あるいは納得されなくても何かを感じさせるものになるでしょう。人の生き方に正しいも間違いもないのは、そして勝ちも負けもないのは、あまりに常識。先に、本分であるなら偏りも然りと書きましたが、それはこの理由によります
  • 我々は大丈夫です。なるようにしかならず、ならないようになったことは全歴史のうちでたったの一度もありませんから。荻生徂徠の言うように、何もかもが全部人間のすることです。同じ人間のすることです、過去も現在も、そして未来においても。 「大丈夫」というのはそういう意味です。持続可能とか、エネルギー枯渇とか、そういう次元ではなく、きっとこれまで同様、今もそしてこれからも人間として在る、そういう意味です。いや、もはや「人間」という主語すら煩わしい。「在る」。それだけで事足ります。
  • 自分で自分を問うこと。考えを考える。この営みがほんとうの「考える」ということであり、この本で終始述べているのは結局この一文のみです。最終章では、その「考える」について深めることを狙いつつ、「問いの見つけ方」について考えます
  • 誰も意識は払わないし証明しようともおもわないが、誰もがそうだとわかっていることを書いただけで、別に書かなくてもいいことをくどくど書いたなあという気持ちです。でも、それなりに一生懸命必死でやったのでもう同じものは書けません。いや、むしろ次にどのようなお題を頂いても同じようなことを書くと思います。

引用メモ