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会社という迷宮 経営者の眠れぬ夜のために

感じたこと

  • 改めて再読。開発、信義の章が心に残る。

内容

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引用メモ

「わかりやすく」「具体的で」「役に立つ」のが世間的に信じられているコンサルタント像なのかもしれないが、私が自身の経験を通して辿り着いたこの仕事の実質は、そうした単純さとは無縁で、むしろ真逆のものだった。 コンサルティングとは、クライアントとの対話である
青色のハイライト | 位置: 20 人は、自分で「わかる」ことによってしか、本当の意味で「わかる」ことができない。ましてや、行動に移すことなどできない。逆に「わかれ」ば、ほとんどの場合行動できる。答えのない難題に直面したクライアントに対してコンサルタントができることは、自分もしくは自社がどう行動すべきかを、自分で「わかる」過程を手助けすることでしかない。
青色のハイライト | 位置: 24 もとよりそれは、そのクライアント固有の、どこまで行っても明快な答えなどない難題なのである。コンサルタントの側も、その答えなど、最初からわかっているわけはない。コンサルティングは、完全な答えなど望むべくもない不確実な環境の中で、それでも「どうすることが最も善いことなのか」を、クライアントとコンサルタントが一緒になってなんとか探り当てる(「わかる」) ための対話なのである。
青色のハイライト | 位置: 28 コンサルタントが追い求める「わかりやすさ」とは、こうして固有の難題の闇の中にいる目の前のクライアントが、「確かなものがない中でどう考え行動するのがよいか」を自ら「わかる」ための「わかりやすさ」である。それは誰にでもわかる「わかりやすさ」とはまったく異質のものであり、あえて言えば、それはわかる人にしかわからない「わかりやすさ」だといえよう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 33 むしろ、その固有の「具体的」課題をどう理解し、どのような次元でどう解決に挑むのかを探る思考は、課題の本質を考えるという意味で、むしろ「抽象化」に向かう。「写実の究極は、抽象である」とある高名な画家は言ったが、人が「わかる」ということも、まさにそういうことなのである。
青色のハイライト | 位置: 57 クライアントとコンサルタントの真剣勝負の対話では、最終的にはいつもそのバックボーンとなる「会社」観や「経営」観のせめぎ合いだった。それは見ている世界の懐の広さの勝負といってもよい。こちらに見えている世界が狭ければ、論理的にはどれほど正しいことを言っていても、それはコンサルタントの「机上の空論」なのだった。逆にもし、クライアントには見えていない次元の世界を、コンサルタントが垣間見ることができていれば、クライアントはそれに鋭敏に感応した。
オレンジ色のハイライト | 位置: 64 今でもまだ「会社というのは、そんな単純なもんじゃないよ」と苦笑いされるのかもしれないが、一方で今ならば、迷いを抱えて深夜の床に就いたクライアント経営者の心の内奥に、痛みとともに明日に向かって視界を広げ、決断と行動の背中を押す、励ましのひと言を響かせることができるかもしれないという思いもある。
青色のハイライト | 位置: 69 「会社」観や「経営」観というものが酷く陳腐に矮小化されてしまいつつある現代においては、経営者自身の脳内において、自ら自分のあり方を委縮させているように、私には見えて仕方がない。しからば、私がクライアントから学ばせていただいてきた「会社」という存在の人間的・社会的な重さと肥沃な可能性、「経営」の地に足が着いた奥行きの深さを伝えることは、現代そしてこれからの経営者の方々にとって、意味なきことではないだろう。悩みと迷いに沈んだとき、決断をする自分の姿勢を正すヒントを、たとえひと言でも本書の中で拾っていただけることがあれば幸いに思う。
青色のハイライト | 位置: 91 経営コンサルタントは、どこか胡散臭い存在である。 それを頼る経営者も多いかもしれないが、おそらくはそれを大きく上回る数の経営者が、怪しく、信用ならぬ人種だと疑いの目を向けていると思われる。 普通に考えれば、それが「常識」というものである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 127 無意識のうちに、「商売」は「事業」、「会社」は「企業」という競争戦略論で概念化された存在として扱われる。
青色のハイライト | 位置: 141 「会社」が自らの競争力を客観的に知り、どのようにすれば競争相手に勝ち、生き残れるかを戦略的に考えることは、人間が健康診断を受けて生活習慣を改めたり、治療をしたり、あるいは学力試験を受けて自らの進路を決めたりするのと同様、自然なことである。また、コンサルタントがスポーツ・チームのコーチのように、チームがどのようにすれば実力を上げ、勝ちに近づけるかをアドバイスすることも、その限りにおいては、まったく自然なことである。 ところが、コンサルタントは、無造作に次なる一歩を踏み出してしまう。 「競争に勝てなければ死ぬ、勝てなければやる意味もない」という存在否定である。
青色のハイライト | 位置: 152 こうしてもたらされた倒錯は、実に恐るべきものだ。 「会社」は、自らのビッグバンから営々とつながる命脈を断たれ、なぜその「会社」が誕生したか、何を追い求めてその歴史を積み重ねてきたのか……つまり、何を成し遂げるために生まれてきたかということよりも、なんでもよいから「勝てることをやる」ことこそ第一と考えなくてはならなくなってしまったからである。
青色のハイライト | 位置: 194 「経営者」の掌中からは、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように大切な何かが失われていくことになった。そしてそれが、まさに「経営」そのものであったのではないかと思われてならないのである。
青色のハイライト | 位置: 202 そしてバブルの崩壊から「失われた数十年」を経た現在、日本の「経営」や「経営者」はますます、世間からダメを押される事態に至っている。残念なことに、そのダメなことには、異論・反論の余地がない。グローバルな「競争の世界観」に晒されれば晒されるほど、筋肉が硬直し、貝のように固く閉じ 籠る様子をいやというほど見せられてきた。 厳しい「競争」状況に置かれれば置かれるほど、縮こまって「守り」を固める。 新事業の創出やイノベーションといいながら、隣は何をしているのかがまずは気になる。 成果を問われるようになれば、視野は狭まり、目先のことだけに追われ始める。 透明な企業統治を求められれば、実質よりも手続きに拘り、外形的対応に終始する。 リスクを避けて皆で決める、つまり誰も何も決めない傾向ばかりがますます強まる。
青色のハイライト | 位置: 215 こうした状況を 目の当たりにすると、精神医学者の木村 敏 氏が、客観的現実としてのrealityと、主体者の現実感としてのactualityとは、人が非常事態に置かれて自己を喪失しかけたときにしばしば乖離すると述べていたことを想起せずにはいられない。前者が自らが目の当たりにし認知した現実だとすれば、後者はそれを主体として身を以て感じる「実質感」「手触り感」のようなものである。それは決して目の前で起こっていることを認知できない、理解できない、ということではない。認知はしていても、そうした現実に置かれた自分が、何か宙に浮いているような感覚といえばよいだろうか。新たな環境に直面して 顕れる、日本の「会社」の反射的ともいえる硬直反応を見ると、まさにその両者が乖離しているように映じる。
青色のハイライト | 位置: 238 た。「形から入る」というのならまだマシだが、「形だけ入る」ということになった。それでは、せっかくの取り組みも逆効果にさえなる。内発的な「行き先」を欠いたまま、もしくは手放したまま、時代に課された外形的条件を満たすことが「会社」の変革であって、その枠内で求められる実績を上げるのが自らの仕事であると思い込まされた「経営者」は実に多いように思われる。そしてこのプロセスでも、経営コンサルタントは「あるべき論」を説く伝道師のように振舞った。その教えに従い「形だけ入る」ことの副作用によって、さらに「会社」が自信を失い混迷の度合いを深めた結果、逆にコンサルタントの仕事はますます増えることとなり、種族として一層繁栄を謳歌するようになった。何も知らない前途有望な若い人たちまでがこれを見て、自ら事業に携わるよりも、競ってこのコンサル族になりたがる世の中というのは、なんとも異様な事態である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 251 利害を束ねるとは、単に平均値を取ったり、最大公約数を見出すというような利害調整のことではない。その意味では、民主主義的な考え方で、文字通り合議制や多数決で経営ができるなどというのは幻想に過ぎない。国家の政治ならばそこで主権の奪い合いということになるのだろうが、国家と異なり「会社」の場合には、社員にも株主にも取引先にも参入・退出の自由がある。してみれば、利害関係者が自由意思で凝集できるような求心力ある太く力強い柱を建てることこそ、利害を束ねるための唯一の方法なのである。「この指とまれ」の主宰人物となるということである。
青色のハイライト | 位置: 259 にもかかわらず、その「経営者」までもが「会社」の利害関係者の一人、つまりは束の中の一本の 藁 に過ぎなくなり、ただ「会社」との間で「貢献度」を取り引きするだけの人間と化してしまっているのだとしたら、それは何を意味するだろう。人間的営為としての「会社」の芯にはぽっかりと穴が空き、空洞になってしまうのは実に自明のことである。
青色のハイライト | 位置: 274 「会社」と「経営者」が切り裂かれるプロセスは、まさにこのようにして進行してきた。そもそも停滞と混迷の時代に直面した「会社」を蘇生しようという触れ込みで始めた手術のはずが、気がつけば「会社」はこうして血を抜かれ、骨抜きにされただけになっているのである。その芯には人間がいなくなり、空洞だけが残った。
青色のハイライト | 位置: 277 改めて原点に立ち返れば、「会社」とは競争をするために生まれてきたものではない。せいぜい言うとしても、込められた夢や志を体現するために、競争しなければならなくなった、というだけの話なのである。その逆ではない。たとえ、日々どれだけ競争に翻弄され、敗北すれば死の危険に晒されている現実があったとしても、それはめざすものがあるからである。それを、気づかぬうちにそっと本末転倒させてしまったのは、まさに悪魔の所業であった。 「経営者」はもう一度、悪魔から「経営」をその手に取り戻さなければならないのだ。
青色のハイライト | 位置: 286 人間的営為である「会社」が、その社会、その時代において生み出そうとする独自の「価値」を提示し、体現すること……端的に言えば、何が「価値」であるのか、を決めるのが「経営者」の仕事なのであって、他人に決められた「価値」を追求するのが仕事ではないのである。
青色のハイライト | 位置: 294 そして何より「会社」とは、社会に対して何かこれまでにない新しい「価値」を創り出すことを企図して生まれたものであり、成立の由来からして社会的な存在であった。その意味で「会社」とは、広く関与する人々の「価値」の束なのである。「経営者」はいつでもそれらの異なる「価値」軸を束ね、その全体に目配りし、何が善いことなのかを統合的に肌感覚を以て価値判断し、実践するという創造的営為の主体者であるはずだった。
青色のハイライト | 位置: 310 巷のコンサルタントがするような、「競争的世界観」の観点からの診断が明らかにする「会社」像は、「競争力があるか」「収益力があるか」といった一定の眼鏡で標準化された診断であり、設定された共通の尺度での横一列の成績比較に過ぎない。資本市場で投資家から突きつけられることの多くも、まさに同じである。そこには当然のことながら、個別的・個性的な存在としての「会社」は、映し出されない。人の健康診断同様、むしろ、そうした要素は排除されなければならない。診断とはそういうものだからだ。
青色のハイライト | 位置: 315 診断を受け取る側が「常識的感覚common sense」を持ち合わせておらず、何が重要なことであるか、何を大事にすべきなのか、何が自身の「価値」であるのかが揺らいでいては、診断をどう受け取ればよいかの判断もおぼつかない。結局、診断の尺度だけに従って、診断評価を上げることだけが、唯一最大の行動指針となり、それに血道を上げるようになってしまう。あたかも「学校でよい成績を取り、進学校から有名大学に進めば、善い人生が開ける」と信じて疑わない子どもとその親のように。あるいは「中身はなんでもいいが、有名になりたい、社会にインパクトを与えたい」と正気かどうかわからないことを言う若者のように。もしくは「健康は命より大事」と冗談のようなことを本気で考えている大人たちのように。
青色のハイライト | 位置: 342 巷間の経営コンサルタントという種族は、結果的にその悪魔の手先のような役割を演じることとなり、それによって繁殖してきた。表に現れる彼らの論理展開は、多くの場合、シンプルでわかりやすく明快であるが、その論理は医者の多くと同様、人生を生きる論理ではなく、命を延ばすための論理である。
青色のハイライト | 位置: 348 合理性とは、常に目的に対する合理性、つまり目的合理性を意味するはずだが、彼らはその目的のほうに対しては極めて無頓着に、自分が想定する目的の絶対的普遍性を信じて疑うことがないのである。そして、その思考回路が転移してしまった「経営者」の脳内では、「自らが志と信念を以て取り組む事業を、儲かるようにすること」ではなく、「なんでもよいので儲かる事業を選んできて取り組むこと」こそが経営なのだと思い込むことになり、それに疑問を持つことさえ、今や理解の範疇外となってしまったようである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 353 麻痺した「常識的感覚common sense」を蘇生させ、「経営」をその手に取り戻すために、悪魔が忍び込んだ「会社」という迷宮の言葉を、一つひとつ丁寧に解きほぐし、そのもっともらしいベールを丹念に剥がす作業を始めていくよりない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 376 そういう意味では、「戦略」的に思考することの実践的な利点は、必勝の絶対的「戦略」をつくるというよりもむしろ、考えの甘いところを正す、負けるとわかっている戦いをしない、という点に活かされてきたかもしれない。 松浦静山 の言うところの、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」である。
青色のハイライト | 位置: 401 実際、多くの企業が「戦略」と名づけて公表しているものは、戦いの前に対外発表しているというその行為自体において、「戦略」とは呼べる代物ではありませんと自ら告白しているようなものである。その中を覗いてみるとすぐにわかることであるが、そこで語られていることのほとんどすべては、わが社はこんなことをやりたいという希望、こんなことをめざしていますという意向表明、このくらいの目標値には届くだろうという希望的観測に過ぎない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 417 普及したのは「戦略」という概念ではなく、「戦略」という言葉だけだった、ということだ。
青色のハイライト | 位置: 420 あるいは、日頃から「戦略」がないとの批判を浴びている経営者は、いったい何がないといわれていることになるのだろうか。
オレンジ色のハイライト | 位置: 440 先ほどの言葉通り、(戦略的に思考された)「構想」と言い換えてもよい。「仮説構築力」などというとスタッフ次元の話に聞こえてしまうので、経営者の場合にはまさに「構想力」と呼んだほうが的確であろう。そしてそれは「確信」と「意志」に支えられたものでなければならない。
青色のハイライト | 位置: 443 事後的に分析し説明される「戦略」と、現実の時間の中で事前に「構想」される「戦略」との根本的な違いは、前者は広く共有されるべくわかりやすく論理立てて説明されるものであるのに対して、後者は未知で複雑な可能性を持つ将来に向けた仮説であって本源的にわかりにくいものであるという、当たり前のことである。しかし、この当たり前についての認識の溝は、思いの外、深い。
青色のハイライト | 位置: 453 そう、極論すれば「戦略」とは、そもそも説明できないものなのである。説明できないからこそ(わかりにくいからこそ)「戦略」であるといってもよい。わかりやすい「戦略」などというのは、言語矛盾なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 455 説明するために「戦略」の取りまとめに追われている、などという状況がもしあるとすれば、それこそ滑稽であると言わねばならない。経営者の仕事は、説明することではないのである。説明は、必要ならあとからいくらでもついてくる。
青色のハイライト | 位置: 458 それは極論過ぎると言われるかもしれないが、しかし、説明しようとすることが、もしくは説明できるようにしようとすることが、いかに思考を眼前のことに限定することにつながるか、いかに「戦略」を短期的で確実な世界のものに押し込めてしまうことになるかを想起してみれば、その意味するところが理解できるであろう。今や発表される「戦略」と称されるもののほとんどが、眼前の情報データの分析、足下の課題の整理、明日の行動計画など、疑いを差し挟みようのない単純な事象・項目の列挙に堕してしまった。しかし、説明できるということは、わざわざ説明を要しない(自明) ということと… エクスポートの制限に達したため、一部のハイライトが非表示になっているか、省略されています。
オレンジ色のハイライト | 位置: 465 しかし、そうして説明するということから切り離してみたとき、果たしてどれだけの戦略的な(戦略的に思考された)「構想」が、経営者の頭の中に深々と描かれているのかということが、改めて問われることになる。経営者は、誰よりも、その会社の戦略的な「構想」の深みを覗き見ている人間でなければならない。場合によっては、それは誰からも理解されないかもしれないが、理解されないのがその深さの証左であってみれば、それでよいのである。それでも、わかる人には、わかる。何が、わかるのか。それは、「構想」の内容の逐一の仔細ではない。それが、本当に深く考え抜かれたものなのか、それとも思いつきに過ぎないのか(はっきり言えば、何も考えていないのか)、… エクスポートの制限に達したため、一部のハイライトが非表示になっているか、省略されています。
ピンク色のハイライト | 位置: 477 「戦略」は深みを覗いた人間が、そこに見出した何かに挑もうとする強靭な「意志」と「信念」の産物である。「意志」のないところに「戦略」はなく、その人間の「信念」に深さがなければ、そこに優れた「戦略」は生まれない。
青色のハイライト | 位置: 516 新しい発見と出会いは、そこに新しい経済価値を生み出す。「企業の目的は、顧客の創造(“Create a customer”) である」というP・F・ドラッカーの言葉を借りるならば、企業活動のまさに原点とでもいうべきものの舞台が、そこにはあった。企業側から見れば、まだ知らぬ顧客と出会い、その求めるところを知り、それに応えることで、そこにまだなかった新しい取り引きを創り出すという創造の場であるということだ。それが「いちば」という機構が本来、果たしてきた役割である。
青色のハイライト | 位置: 547 「市場」的思考の悪癖は、何よりもまず、すべてを単一化・同一化するところからスタートし、そこから思考を始めることであるが、一方でそれと引き換えに脳裏からさっぱり捨象されてしまったのが、そもそも「いちば」にあった豊饒な多様さや複雑さだったといえよう。「いちば」とは、未知のものに出合う豊饒な可能性の森ともいうべき場所であった。経営者にとっての新しい発想や思考の泉は、むしろこうして捨象された「いちば」の豊饒な多様さや複雑さのほうにこそ、実は多く眠っているに違いないであろう。
青色のハイライト | 位置: 551 そう、「市場」とは本来、そこに閉じ籠るものでなくて、実在の「いちば」がそうであるように、縦横に歩き回るもの、もしくは渉猟する場だったのである。それは、言葉の正しい意味での「マーケティング」といってもよかろう。檻の中での競争の一々を考えるのは分析家や実務家の仕事であって、極端に言えば、経営スタッフ(か、お雇いコンサルタント) に任せておけばよいのである。よい経営者とはたいがい、自らの五感をフル稼働させて「市場」を歩き回っているものである。
ピンク色のハイライト | 位置: 562 既存事業の殻を破るのであれ、新規事業を生み出すのであれ、原点は常に、そこに新たな価値があるのではないか、こうすればうまくいくのではないか、という確固たる手触りを持った発見的直観である。それは、新たな買い手との出会いの機会の発見であり、文字通り「顧客の創造」、あるいは大袈裟に言えば「市場の創造」と呼んで差し支えないものだ。
オレンジ色のハイライト | 位置: 570 順序が逆なのである。「市場」があるから事業をするのではない。事業機会に対する独自の洞察が、無辺の「いちば」の中から新たに自社の「市場」を括り出すのである。 すでにある「市場」に後発参入するように見える場合でも、あるいは自社の既存事業を刷新する場合でも、新商品開発の場合であっても、その本質に変わりはない。それが成功するということは常に、そこに新しい「市場」を「再定義」し、創り出したということである。
ピンク色のハイライト | 位置: 592 「市場」とは、本来、その会社の独創なのである。 その独自の「市場」観が、その会社がその会社たる所以である。
青色のハイライト | 位置: 597 が、「価値」は出すものではない。認められるものだ。「価値」という言葉は、その意味とは裏腹に、本当に軽くなってしまった。
青色のハイライト | 位置: 636 繰り返すが「価値」とは本来、主観的なものである。客観的にできるのは「計測」だけだ。「価値」が「価格」にすり替えられたのと同じように、誰かによって決められた尺度に拠る客観的な「計測」値が、「客観的で絶対的な価値の評価」なる謎のものに、巧みにすり替えられてしまっているのだ。企業経営も偏差値教育の延長のようになってしまった。
青色のハイライト | 位置: 640 この錯覚は、経営者にとって深刻で重大な意味を持つ。 経営はただ「計測」される対象となり、その尺度たる「価値」判断のモノサシは外部から与えられるものとなったことを意味するからだ。それは、主観を手放した、ということに他ならない。「自らが考える善い会社、善い経営」という「価値観」を宿す主観を手放して、「他者に示されたよい会社の尺度」に従ってひたすらよい点数を取るべく努力し、その結果を「計測」されて通信簿をつけられる存在になり下がった。もしそれを以てコーポレート・ガバナンスと称するならば、それはなんと茶番めいた話だろうか。そもそも経営者はただの使用人ではない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 665 右がいいと言われれば右に行き、左がいいと言われれば左に行く。世の中の潮に流されて浮遊する。潮流に乗るといえば聞こえはいいが、要するに「私は誰である」というアンカーがないのである。その挙句の果てが「わが社の事業選別基準は、儲かるか儲からないかである」「わが社の使命は、成長するということである」と本気で(?) 宣うことになる。そこ
青色のハイライト | 位置: 670 こうして今や、独自の「価値観」を感じさせる、骨のある会社は稀少になった。 摩擦なく理解を得ようとすれば、誰もが疑わない既定の「価値観」にすり寄るのが楽に違いない。極力、主観的「価値」は排して誰もが首肯する「価値」に従うということは、現代のように「説明責任」などという言葉が濫用される時代にあっては、経営者にとって実に好都合でもあった。世間の「価値」尺度に従っていれば、自分(自社) らしくある理由をあえて説明する必要もなく、「市場」に求められるがまま、あとは達成責任だけを背負ってただひたすら会社を駆り立てればよい。そして、達成すれば、褒められる。
青色のハイライト | 位置: 676 しかし会社とは、あるいは事業とは、そもそも、世の中に対して自分の信じる新しい「価値」自体を問うものであるのではなかったか……。事業とは未来に向けた創造の挑戦であり、革新の試みであるのだ。儲かるのはその結果である。世間の「価値」尺度が求めるまま「結果として儲かることをやろう」という発想は、創造や革新という企業活動の歴史的時間の時計の針を、仮想的に巻き戻してみるような倒錯と言わねばならない。そうした発想に自ら陥ることで、企業家として新しい「価値」を提示する主観(主体) であること、すなわち自分が自分である権利を、自分の手からそっと剥奪されていることに、気づくべきなのだ。
青色のハイライト | 位置: 693 世に問うということは、自らの考える「価値」を提示することを通じて、逆に外部の、あるいは世間の側の「価値」を問い直すということを意味する。会社は、一列に並ばされて受け身で世間から成績評価されるだけの矮小な存在なのではない。社会的存在として、自ら提示する独自の「価値」を世間に問いかけることで、賛同者を主体的に募る存在なのである。
青色のハイライト | 位置: 707 その意味で、経営者の仕事は、なにも新奇な「価値」をひねり出すことではなく、むしろ自らが正統と考える「価値」のアンカーたることだといってもよいであろう。それが、会社を主観なき漂流から守る。 ビジョンのない経営者ほど、他者から決められた数値基準ばかりを頼りに「企業価値」などということを言っているものである。しかしそれだけでは、めざす行き先も持たず、潮の流れと風向きを見るに敏なだけの、雇われ船長の如きものである。「風潮の向かうところが、われわれの行き先」では、経営になるはずもない。
青色のハイライト | 位置: 734 会社を事後的に論評する分析家は、結果の「利益」額を見て、これを増やすために「売上」をもっと伸ばせないか、「費用」をもっと削れないか……という思考を進めていくかもしれない。しかし実際の事業の成り立ちが「利益」から始まることはない。まずは「売上」が立たないことには話が始まらないというのは、当たり前の話である。その会社が世の中に提供し貢献する「価値」とは、まずはその会社の製品・サービスであり、それを創り出そうとする意志が会社の原点であり、それが認められること、つまり「売上」が立つことが会社の第一義的「価値」であって、その事業の存在意義である。売上
青色のハイライト | 位置: 741 いくら売れても採算を無視しては慈善事業になる、と揶揄する言い方がよくされるが、儲かるならなんでもやる、というのではその慈善事業以下である。「売上」とはまず、会社が志す「価値」の代名詞なのである。
青色のハイライト | 位置: 769 問題になるのは、自ら定めた目標との距離ではなく、競争相手との相対的な距離である。もし、会社が自ら航海の行き先と定める独自の「価値」を持たないならば、航海の羅針盤は競争相手との相対的位置関係だけになる。その位置関係だけが、「利益」の有無もしくは多寡を決定づける要因として、経営が評価を受けるための、唯一最大の関心事とならざるを得ない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 779 会社にとって、あるいは経営者にとって、結局のところ「利益」とはなんだろうか? 「売上-費用」と表現された「利益」とは、所詮「帳尻」であって、「売上」から「費用」を差し引いた帳簿尻の数字という意味でしかない。「帳尻」はもちろん合わさなければならないが、その「帳尻」にどういう意味を観るか、というのが本来の経営の問題なのである。
青色のハイライト | 位置: 799 「利益」は結果なのである。 経営者は、思うように結果が出ないことに右往左往する前に、自社がただの利益創出装置になっていないか、正確には自分自身がそういう見方をして自縄自縛に陥っていないか、つまり自社固有の「価値」を創り出すための自身の意志と構想が空虚になっていないかを自問しなければならない。それをすっ飛ばしてしまっては、一時的「利得」は得られても、「利益」がもたらされることはない。もちろん、その意志と構想が完全無欠であることなどあり得ない。しかし、それを確かなものとしようとする日々の格闘には、信念を持って取り組まなければならない。その格闘こそが経営者の仕事だからである。
青色のハイライト | 位置: 805 「帳尻」としての「利益」数値から逆算・調整して装置を運転するだけの経営が、長い目で見て成功した例はないし、それ以前に、そのような会社は社会的にその存在意義もない。
青色のハイライト | 位置: 875 「成長」というのは、会社という有機体の生涯にとってみれば、人生において何度か訪れるであろう「季節」なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 878 は、子孫に美田を残す
オレンジ色のハイライト | 位置: 894 経営者は、さまざまな時間軸上の要請に目を配りながら、時間的に開かれた未来に向けて、何が今自分の会社にとって善いことなのか、今はどういう時期なのかを判断し続けなければならないのである。
青色のハイライト | 位置: 901 それを最も知り得るのは、経営者自身に他ならないであろう。もちろん、その経営者自身の目が曇っていたり、偏ったり歪んでいてはいけないが、かといってそれは、他所から与えられるものではあり得ない。特定の立場を超えて、すべての時間軸を通覧して判断できる立場の存在は、経営者自身以外にないからである。
青色のハイライト | 位置: 911 胸にSDGsバッジをつけながら、従来となんの変哲もない「成長」戦略の説明をする光景を目の当たりにすると、こうした時代における自社の真の「成長」ということに対して、本当に見識と発想の転換がなされているのか、懐疑的にならざるを得ない。
青色のハイライト | 位置: 958 逆の言い方をすれば、「その会社がやるべき理由のないことは、やらない」というのが「変わる」ときの原理原則で、それが「貫く」ということの意味である。それは「不易流行」という観念にも通ずるのかもしれない。
青色のハイライト | 位置: 974 「人間の業務には盛衰が常とはいうけれど、その盛衰を生じさせる原因は、事物に正しい道理によって対処するか、それともこれに反するかの違いにある。したがって一人で事業を独裁する場合は、誤りを犯して正当を失っても、他からこれを批判したり正したりすることができない。このために危害が生じるのである。同志が会社を結成し、互いに助け合い互いに是正し合い、これによって正しい道理から外れないよう努めれば、自ら転覆する患いを防ぐことができる。今、同志数人とはかって元金を出し、あるいはその労働を提供して一商店を開き、「丸屋商社」と名づける。その元金を出した人を「元金社中」(株主) と名づけ、その労働を提供する 人を「働社中」(社員) と名づける。」(明治二年一月「丸屋商社之記」〈『丸善百年史』所収の現代語訳、一部筆者改訳〉)
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,021 その「法人」が「死んでお詫びをする」ことで、残された負の遺産は社会が背負うことになる。死んだ人間の責任を問えないのと同じである。こうして「法人」に肩代わりさせることによって、それに関わった「自然人」のほうは無罪放免で生き残り、別に法的な瑕疵がない限り、出したものを失う以上の責任は負わない。「株式会社」制度とは、社会の総員によるリスク負担は覚悟した上で、世の進歩発展のための挑戦を、社会を挙げて促進しようとする社会的合意なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,063 あらゆるものに神は宿る……したがって、神は「会社」にも宿ると考えてきたのが、日本の伝統的な思考であった。外部からのルールづけや強制によってではなく、内在的・内発的に責任ある主体であらんとする思想である。だから、語源的にも見ても、「会社」は「社(やしろ)」なのである。「会社」の真ん中には、個々の人間に還元できない何かが、意識的に置かれてきた。仲間(人間) が集まってできただけの「カンパニー(Company)」という概念とは明らかに異質である。
青色のハイライト | 位置: 1,119 ところが、人の場合とは異なり、「会社」の場合には過去の歴史なんぞどうあれ関係なく、とにかく現在、どこに花園があるか、その果実は美味しいか、敵は誰か、どこにいるか、その敵を出し抜けるか……だけが唯一最大の関心事であるとして、過去の「記憶」などというものは済んだ話として片付けることに、疑問を差し挟むこともなくなってしまったのが現代である。「記憶」を喪失して何が悪いのだ、というのである。経営の意思決定とは、現在の事実だけに基づいて科学的・客観的に判断するものであるという思い込みの、無自覚で野放図な敷衍の行き着いた果てだといえよう。現在の視点からは、過去の歴史など、正しい思考の足枷ともなり得るので、意識的に断ち切るべきものとさえ、疑いなく考えるに至ってしまったのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,148 そうなれば、「会社」は現在そこに置かれた経営資源の塊に過ぎなくなる。「今そこにある道具でどんな果実をどうやって採るのが最適か」ということを考え、明日は明日でまた同じように考え、それをひたすら繰り返す。繰り返した果てに、どこに辿り着くかは、あずかり知るところではない。そこには主体的意志も倫理も内発的には生まれない。
青色のハイライト | 位置: 1,171 歴史を通して刻まれた「会社」の「記憶」の地層とは、おのずから、その「会社」固有の「記憶」であって、他の誰のものでもない唯一無二なものであり、その「会社」をその「会社」たらしめているものである。「会社」が続いていく限り、それは経営者や社員という自然人の時間軸を超えて、世代間で引き継がれてきたし、またこれからも引き継がれていく「記憶」である。それはもはや、特定の個人の記憶ではない。経営者は、その「記憶」を預かり、そして受け渡していく担い手でなければならないということである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,177 伝統とは 灯 を守ることであって、灰を崇拝することではない」と、西洋音楽に革新をもたらしたある大作曲家は言ったが、ここでいう「伝統」とは、音楽史の紆余曲折した連なりの「記憶」に他ならない。その「記憶」の集積のないところに、新たな「創造」はポッと生まれるものではない。それは、「会社」でいえば「わが社とは、何を追い求めて何を考えどう苦闘してきた会社なのか」という自己認識に刻み込まれた「記憶」の集積であるとともに、そこから未来へとつながる主体的意志を宿した「社格」である。それは、「会社」そのものの、自社に対する自覚(“Who am I ?”)であるといってよい。
青色のハイライト | 位置: 1,191 二十一世紀の経済と企業活動がどのようなものに変質していくのか、それはまだ誰にもわからない。しかし、最初の二十年が一つはっきりさせたことは、「善いことをやっていれば、それは結果に表れるはずである」という常識的命題が、「結果を出せていることが、善いことである」というとんでもない命題へと転倒・倒錯してしまったということである。
青色のハイライト | 位置: 1,214 「会社」は単に経済的存在ではなく、社会的存在なのである。
青色のハイライト | 位置: 1,286 「日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存し得る可能性をもつのである。つまり、矛盾し対立するもののいずれかが、中心部を占めるときは、確かにその片方は場所を失い抹殺されることになろう。しかし、あくまで中心に空を保つとき、両者は適当な位置においてバランスを得て共存することになるのである。」(
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,299 その意味で、日本の経営者によくいわれる「リーダーシップの欠如」という問題は、決して個別の経営者の個人的資質にのみ帰すことのできる問題ではなくて、元を辿れば「リーダーシップの在り処そのものの不在」という組織の深層構造に根を発しているということである。組織のリーダーシップとは、特定の人の固有の資質に依拠するのではなく、誰がトップに立つにせよ、その者が目に見えない組織の中心の「空」を表象する存在であるということ、つまり「錦の御旗」が今その人の手にある(と認められる) ということを意味してきたのである。
青色のハイライト | 位置: 1,312 言い換えれば、「会社」はその中心にあるアイデンティティとしての「空」と、それをめぐって相互に牽制し合い、「空」の分身たる地位を奪い合ってきた人間という、二層の「統治」構造によって成り立ってきたと考えることができるだろう。その二層の構造においては、トップに立った人間固有の個人的な資質と思念が、直接的に組織を支配する中心となるわけではない。トップに立つ人は、その中心に「仕えている」のだといってよい。
青色のハイライト | 位置: 1,326 ところが巷間の「企業統治」論とは、あたかも騎手が馬を制御するかの如く、「会社」が思い通りに走るように、あるいは思わぬ方向に行かぬように、外部から制御することを、専ら念頭に置いて語られているのである。そこで想定されていることは、内部的な「統治」のあり方の話ではなく、文字通り外部からの「制御」もしくは「統御」であるといったほうが、本来なら正確である。にもかかわらず、あえて「統治」論という体裁を取ることで、「会社」が外部者の意図を自ら進んで汲み取り、それに従った意思決定と行動選択をあたかも主体的に行うかのように仕組むことが、企てられているということである。
青色のハイライト | 位置: 1,358 株主であっても、その意図、意見、見識を「会社」の意思決定に反映して「会社」を動かそうとするならば、外部者という立場からではなく、内部者の立場からということでなければならないのである。その意味するところは、「会社」の中心にある「空」をめぐる「統治」の仕組みの内部に自ら入るということであり、「この『会社』にとって何が善いことか」という思考の地平に立つことに他ならない。「会社」を動かせるのは、その中心に置かれた「空」に限りなく近づき、それを背負ったときだけであるからだ。「錦の御旗」が自らの手中にあることを、説得力を以て示せるときだけであると言い換えてもよかろう。それは誰よりもその「会社」のことを考えていると、他の主権者から認められ、賛同を集めるということである。
青色のハイライト | 位置: 1,402 経営者は、自身の「会社」の中心にある「空」を最も意識し、それを力強く体現していなければならない人間である。経営者が究極的には「空」に従う、ということは、逆に言えば「空」によって裁かれるということでもあるのである。
青色のハイライト | 位置: 1,419 肉は塊のまま焼いてもなかなか火が通らないので、五つに切り分けてから焼く」
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,420 彼が変えようとしたものは、事業に向き合う組織の姿勢、人の姿勢だった。組織と人の主体性、自律性を引き出すということである。その意味で、「組織改革」は常に、「意識改革」でもある。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,470 ある。「組織」の精髄とは結局のところ、「組織は戦略に従う」という理屈での二元論では到底捉えられるものではないというのが、経営者の肌感覚なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,493 かつて私が駆け出しのコンサルタントであった頃、所属していた米国系ファームのドイツ人のコンサルタントが、「組織の直観 “Organizational Intuition”」という概念でものを語っていて、英米流のものの考え方が支配的な中での、その異色な感覚に不思議な共感を抱いたことを印象深く憶えている。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,503 そのあと私自身は、自分が経営に携わることになったコンサルティング・ファームでも、長年、ファームと一人ひとりのコンサルタントとの関係は、「漬物と糠床」「おでん屋の具材と出汁」のような関係だと考えてきた。当然のことながら、所属するコンサルタントは入れ替わっていくが、新たに加わったコンサルタントは、あたかも新たな具材のように組織の糠床や出汁の中で味わいを増し、やがては糠床や出汁の中に次代のための豊かさを加え残していく。コンサルティング・ファームという「組織」の経営者は、その糠床や出汁という「何か」見えないものを管理する責任者だともいえる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,596 しかし見渡してみて、果たしてどれだけの経営者が、社員の「心の中にできあがった塔」の連鎖を引き出す、最初の種を蒔くことができているだろうか。 「激動」の時代に「激動」を語る、評論家のような役割が経営者の仕事なのではない。「これからはこんな時代だ」「これから業界はどうなる」「これからは〜が大事だ」と、どこからか借りてきた言葉でいくら語っても、そこには何一つ、凝集力を持つ「共感」など生まれないであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,608 しかし、この一点においてだけは、代わりになる「人」はいない。このときばかりは調整役であってはならず、生身の「自我」でなければならないのだ。「組織」の中で「人」の「共感」が凝集する最初の粒となり、「何か」が生まれる渦を創り出せるとすれば、そこからでしかないからである。それができる人を経営者と呼ぶ、といってもよい、原点の仕事である。
青色のハイライト | 位置: 1,617 結局のところ、「組織」を「組織」たらしめている「何か」とは、まさに経営者自身の「自我」が発火点となって生まれるものなのである。他からは、生まれることはない。 「経営者」のリーダーシップとは、このことを意味する。 カリスマでなくてもよい。凡人には凡人なりの、全身全霊を懸けたリーダーシップがあり得ると言いたい。その熱量さえあれば、そのあとの足りないもの、空白を埋めてくれるものとして、「組織」があるのである。
青色のハイライト | 位置: 1,641 同時に、それをけし掛けなければ商売にならないメディアや評論家や学者やコンサルタントの思いも、色濃く滲んでいる。「変化」に対する会社の強迫観念を 食んで生きている種族である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,668 会社を有機体と考えれば、ある箇所に症状が表れるのは複雑な構造体全体の不具合の結果である。問題の根源を押さえて全体を組み直さなければ、部分だけを変えても、「改革」の熱が冷めれば、形状記憶合金のように会社はまたすぐに元に戻る。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,680 しかしそこに原因の根っこがあることは、経営者自身も含め、いくら目を背けていたとしても、多くの社員が実は無意識に(もしくは、直感で) 知っていることなのである。逆に言えば、そこに本当にメスを入れようとするかどうかで、「改革」の覚悟と本気度を、社員全員が初めて自分のこととして知るようになるのである。そうなって初めて、「改革」は動き始める。 それは、痛い。場合によっては、激痛である。しかし、痛くなければ「改革」にならない。摩擦のない「改革」などあり得ず、その痛みが大きければ大きいほど、「改革」の持つ意味も大きいものとなる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,702 そう考えると、「悪くもなさそうに思えるのに、自ら現状否定する」というところにこそ、「改革」実践の壁があることがわかる。「改革」のマネジメントの要諦は、「否定」のマネジメントなのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,715 コンサルタントは目先を変えながら、繰り返しめざすべき姿としてのBを売り込みにやってくるが、本当の難題はどうやったらAからBに変われるかであり、もっと言えば、どうしたらAから離れられるかである。行き先としてのBは、たいがい、頭のいい人が少し考えればわかっているものである。Bがよいことには、総論として、誰も反対はしない。 したがって「改革」には常に、現在に対する「否定文」が必要となる。将来に向けた「肯定文」だけでは、ものは進まない。ところが、多くの会社で結果的に合意され文書化された「改革」綱領は、「肯定文」ばかりが溢れている。
青色のハイライト | 位置: 1,754 改革」の場面でコンサルタントの一番大事な仕事になるのも、「あなたが変わらなければ、会社は変わらない」と経営者に直言することである。
青色のハイライト | 位置: 1,761 そのとき、経営者の覚悟と勇気を支えるものは何かと問われれば、謙虚な「懐疑心」、純粋な「向上心」、豊かな「想像力」と答えるよりない。 それは、たとえ順風満帆に思える時期にあってさえ、自身と「会社」に向けて「本当に今のままでいいのか」と真摯さと純粋な好奇心を以て深く問い続け、未然の危機をエネルギーに変換することができる力である。 それはおそらく、経営者の資質の中でも最も、人としての「器量」と呼ぶよりないものではないかと思う。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,849 異なる「自我」の融合を、強い意志と速度感を持って成し遂げることに成功している例をつぶさに観察すれば、まさに「文化は高いところから低いところに流れる」と形容せざるを得ないような「自我」の位置エネルギーの差を、そこに見出すことができるというのが、コンサルタントとして現場に立ち会ってきた経験からの実感である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,859 買い手側の経営者にとって、M&Aとは、「戦略」構想から出発しながら、最後は生身の「会社」の異なる「社格」の融合に至らしめるまでの、一連の、挑戦的な課題なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,882 こうして眠りから醒めたのは大変結構なことだったが、問題は、資本に対する意識が芽生え、財務にいきなり覚醒させられた経営者の自己認識そのものが、オーバーシュートして向こう岸に渡ってしまったことだ。川岸まで近寄り、川を挟んで投資家と対話するはずが、無意識に自分も川を渡ってしまったのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,895 経営者にとってのポートフォリオというものがあるとすれば、「戦略」的意図(糸) によって結び合わされ、編み上げられたポートフォリオでなければならないはずである。経営者は、経営者である以上、その強い「糸」を編み上げる仕事から逃げるわけにはいかない。一つのバスケットになんらかの親和性のある二つの事業を放り込んでおけば、自然にシナジーが生まれるなどということはあり得ない。経営者が持たねばならない洞察は、シナジーの可能性なのではなくて、その創造的な実現の構想なのである。
青色のハイライト | 位置: 1,915 それもそのはずで、「会社」の持てる可能性を掘り起こし、知恵を結集し、奥義を尽くし、資源を総動員して、事業に新しい道を拓くという営みを「開発」だと定義すれば、それは「会社」の事業発展の原動力そのものであるということになる。その本質は、リスクを取って未知に挑む創造作業そのものに他ならない。「会社」とは、自ら信じる「価値」の実現に向けてリスクを取って事業に挑む存在なのだとすれば、「開発」こそは「会社」の本義であり、存在意義そのものであるともいえるだろう。 その意味で本来、そこは「会社」という迷宮の、奥の院である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,932 しかし、「開発」そのものには、答えがない。答えがないどころか、ある意味では、答えらしきものに向かう確かな道筋すらない。未知に挑む創造作業であってみれば、それは当然のことである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,943 経営者が「開発」という接尾語を付したくなる気持ちになったとき、改めて自覚しなければならないことは、「開発」とは意志と論理とがぎりぎりでせめぎ合う、「会社」の意思決定の境界面での営為であるということである。未知と既知、可能と不可能など、「会社」がその本義として向き合わねばならぬ異界の境界面、と言い換えてもよい。論理的にどれだけ詰めようが、所詮確かなことはわかりようのない、神のみぞ成否を知る領域へと足を踏み入れるのが「開発」である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,959 「開発」への着想を生むのは、論理であるよりも、意志なのである。「一念、岩をも通す」と言ってしまうと精神論になるが、少なくともその念がないところで跳躍などかなうはずもない、というのは真実であろう。深い谷をなんとか跳躍しようとする意志が、「できそうにもないことをなんとかする」知恵をひねり出し、発想に灯をともす力の源となる。それが先立たないことには、論理的に検証し追求してみようにも、検証すべき着想(仮説) 自体を得ることができないであろう。殻を破るようなアイディア(仮説) は、確実な論理の積み上げからは、生まれない。論理による検証は、そのあと、の話である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,964 経営者の仕事は、意志と論理のこのせめぎ合いにおいて、その境界面を、ふさわしい位置に維持することに他ならない。それは実際には、目に見える確実なことに判断を押し込めようとする論理の力に対して、それに抗するだけの意志の力の盾となって支えることだといえよう。その意味からすれば、「開発」の入り口から、担当者に向かって「よく調べろ」「よく検証しろ」と言っている経営者がいるとすれば、そもそも、やっていることが真逆だということだ。もし検証できる確実なことだけに取り組むのが「会社」なのであれば、もともと、経営者など要らぬであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,970 「開発」の持つこうした性格ゆえに、社運を賭けた「開発」の担当部門や責任者は常に、孤独であり、不遇である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,997 結局のところ「開発」とは、「会社」経営の中で最も多数決や大衆討議になじまない営為だということだ。だからこそ、この支えるという仕事は、経営トップにのみ許された大仕事なのである。経営者が、周囲の制止を振り切ってでも進まなければならないときが、もしあるとすれば、まさにこのときである。経営トップの権限は、最終的にはすべてそのときのためにあるといってもよい。裏を返せば、経営トップがその進退を賭けなければならないのもまた、ここにおいてである。経営者は孤独である、という言葉は、このときのためにある。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,007 昨今は、すべての意思決定が透明であることが良い、という言説を誰もが信じて疑うことがなくなってしまったが、少し考えてみれば、すべてを透明にしてしまったところに主体的意思決定などというものがあろうはずはないことは自明である。人間とて同じであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,036 ある。それは「会社」という場がいかに、創造への挑戦を懐に抱く器量を失い、逆に自由な挑戦を縛る足枷の巣窟になっているかを示す証左として、受け止めなければならないであろう。「会社」という場が、創意に富んだ進取の「開発」の観点からは、ゼロどころかマイナスの環境になってしまったということである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,059 起業するというのは、本来の意味からすれば自動詞ではなく他動詞であり、目的語がなければならない。もし向き合う対象(目的語) が「なんでもよい」のだとすると、それはいったい、何に向き合うということを意味するのだろうか。それは、「儲かること」というだけなのか……。しかし、こうして始める前から目玉を$マークにし、密室に秘めたるもののない起業家なる人には、結局のところ、長い目で見れば「会社」たる「会社」を成すことはないだろうと言わざるを得ない。早晩、そのことに気づいて、慄然としなければならないときが訪れよう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,071 結局、日本の「会社」から外部流出したように見えた「開発」の精神は、実は流出したというよりも、蒸発してしまったというほうが正しいのかもしれない。
青色のハイライト | 位置: 2,086 このように考えてみると、日本の「会社」は、企業活動の本義ともいえる「開発」という営為を内部に宿して抱えることで、その社会的な役割を果たしてきたことに、改めて思い当たる。「開発」に挑む人間の側から見れば、その創造への挑戦の価値を認め、叱咤激励し、風雪から庇護してくれる宿であり家であったということである。それは、カネやらモノやら情報やら、個々の経営資源に分解して、それぞれその対価を計算するような方法で行われる支援ではない。挑もうとしていること自体に価値を認める、ということである。その価値を認めることのできる主観が、「会社」にはたしかにあった。この「会社」がやるべきだと考えることをやる、という「会社」の主観である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,092 「価値がある(と信じる) ものを売る」というその事業の信念が、知らぬ間に「売れるものが価値あるものである」という論理に転倒し、「売れるものをつくれ」という指示に堕したとき、「開発」は心棒を失い、ただ目に見える結果の数字で判断されるものとなり、その命を失う。いったい何を「開発」しようとしているのか、定かではなくなるということである。「何をつくればいいんですか?」と問われれば、「売れるものだ」と答えるよりない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,113 ここでいう信念とは、未知に向かって挑む際の、澄み切った、ほどよい自信と言い換えてもよいものであろう。優れた経営者に対面すると、その覚悟が静かに漲っているものである。 それは経営者自身の中で、意志と論理という二つの異界の境界面のバランスが程よく取れているときに、自然に生まれてくるものであるように思われる。それが自然に生まれるまで、深く静かに考えを尽くすことこそが、経営者が自身に課すべき務めであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,115 それは経営者自身の中で、意志と論理という二つの異界の境界面のバランスが程よく取れているときに、自然に生まれてくるものであるように思われる。それが自然に生まれるまで、深く静かに考えを尽くすことこそが、経営者が自身に課すべき務めであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,171 に、「人材」の価値を決めるのが特定の「会社」「組織」と「人材」の固有の関係であるとすれば、それは本来、個別的で、相互依存的なものである。その「組織」におけるその「人材」の価値、しか定義することはできないのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,177 モノであれば、そこに価値を認めるのは「会社」側の一方的認識である。しかしヒトの場合には、当たり前だが、ヒトの側がもう一方の主体(客体、ではない) であり、その間に価値が成立するのは一方通行ではなくて、双方向の認識と意志の結果であり、その意味で相互依存的であるということなのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,180 そう考えると、ヒト自体に固有の価値を想定してそれを育てるという発想そのものに、根本的な錯覚があることに気づく。育てるという言い方をするのであれば、それは「会社」と「人材」の関係を育てるということでなければならないのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,267 まずはそこに「分」の認識があっての話である。その「分」とは何かといえば、そもそもは、集団の中での自分の役割や責任を自覚的に認識するポジティブな概念であったはずである。何より、社会においては、人間は単に「自己」ではなくて「自分」なのである。「分」とは、社会や集団や組織の中で、自分はどのような位置を占めるか、何者であるか、を自覚・他覚し共有するための表象なのである。そして職業や仕事の世界においては、自らの職業人としての責任や 矜持 を表象するものが、「職分」であった。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,278 ヒトが「組織」の中で自分ならではの場所を見出すということは、期待を背負って果たすべき自らの「職分」を、「組織」の中で自覚できるということに他ならない。同時にそれを経営者や上司・同僚との相互認識として取り交わして共有できるということである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,295 トップバッターからラストバッターまで、あるいはエースピッチャーから控え投手に至るまで、監督(経営者) と選手(幹部、社員) の間で、それぞれの「職分」を多彩に繊細に握り分けられている「会社」が、果たしてどれだけあるだろうか。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,301 「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら、それは棲み分けるニッチの多様豊富という点で際立った文明であった。」「
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,322 多様なヒトを採るから多様性が増すのではないということを、改めて肝に銘じなければならない。ヒトはそもそも多様である。そもそも多様なものを、一色に染めようとしてきただけなのである。「会社」という空間をそうやって統一して塗り潰してしまうことが、社員を教育し、組織を堅固にし、会社を目標に向かって走らせることなのだと、いつからか、錯覚するようになってしまった。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,335 そこで最も好ましい研究環境を一口で言えば〝組織化された混沌〟とでも表現せねばならない。部分的にみれば研究者は自由奔放に仕事を進めているので混沌としているが、研究所全体としてはバランスがとれ、秩序ある状態をいう。同じようなことが企業にも通用する。管理され過ぎの企業は融通がきかないので沈滞する。各社員が自主的に能力を存分に発揮できる職場がよい。この場合も部分的には混沌、全体的には筋の通った体制が保持されればよい。オクシモロン(oxymoron・撞着語法) を知ってほしい。それは〝組織化された混沌〟 〝公然の秘密〟 〝急がば回れ〟など対立する語句を並べて新しい深い意味を主張する語法である。」(
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,348 二十一世紀に入り、多くの「会社」にとって「人材」は、「資本」よりも遥かに稀少な経営資源となることが明瞭になってきた。本来ならば、「人材」不足という課題の今日的意味は、ここにこそあると言わねばならない。資本主義というシステムにとっての供給制約(最稀少資源) が、金銭もしくは物的財産としての資本ではなくて、「人材」という意味での人的資本になるということである。これは、従来の資本主義の経済システムそのもののあり方やその力学を、根底から覆す力さえ秘めていよう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,375 こうして、主観的判断に拠って「やるべきだから、やる」ことを仕事にできる「人材」が、将来において果たしてどれほどいるかというのが、「人材」の稀少性の問題なのである。言うまでもなく、機能の性能を誇り、それを切り売りするだけのヒトには、それがかなうことはあるまい。自身が主観的判断の担い手となれるヒトだけに、その仕事はできる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,380 個々バラバラのままでは一人ひとりが心に秘める思念に過ぎなかった価値を、「職分」によって編み上げられた「組織」で共有し、事業活動という形あるものにする。まさにそのときにヒトは、わけもなく命令につき従う駒ではなく、共有された主観的価値に拠ってものごとを判断する「人材」となっているはずである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,388 「人材」が稀少な資源になるということの含意は、優秀な「人材」の確保が競争上重要になるという次元の話ではなく、ヒトを「人材」にするというその役割が、「会社」の社会的使命として、その重みを増していくに違いないということだ。ヒトを人間ならではの仕事に活かすことで「人材」にすることができる「会社」だけが、将来においても「会社」たる資格があるということになる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,392 日本の「会社」の基底に流れていた「組織は人なり」「会社は人なり」という思想の実質を、将来に向けて蘇生させていくことこそ、必要なことなのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,395 コンサルタントとは何者か、いったい何をする人なのかというのは、大抵の場合、やっている当人さえよくわかっていない。 当然、それを使う側も、よくわからずに使っている。 「会社」に対してなんらかのサービスをして、決して安くはない対価を受け取っている、という以上の明瞭な定義が、共通認識として共有されているとはとても思えない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,425 やってきた一人ひとりの患者を丁寧に診断して病根を探るというよりは、自分の持つクスリが効きそうな患者を探し歩いて売りつけるのが営業ということになる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,428 コンサルタントは所詮、あれこれ言うだけで結果には責任を負わない、われわれと同じ船に乗っていない、という顧客からの謗りを免れるためであるが、これは同時に第三者的視座を離れるという、コンサルティングにとっての禁忌の一線を越えることでもあった。同じ船に乗るといえば聞こえはいいが、それは特定の利害関係者になるという意味だった。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,435 このように四十年のときを経て、異質で不可解なものだったコンサルティングは、いつしか日常的に利用するサービスとなり、エイリアンのような存在だったコンサルタントは、大組織に属する会社員となんら変わらない、普通の人々となった。 では経営者は、いったい何を期待して、今や普通の人となったコンサルタントを使っているのだろうか。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,467 結局のところ、本来期待すべくもないことを期待して使っていれば、そういうことになるのである。本筋とは異なることで満足感を得るか、あるいは失望して嫌悪するか、のいずれかになるのは致し方ない。「専門家」とラベル付けされた、ある意味でコモディティ化すらした商品(サービス) を、便利に購入するかのように、コンサルを使い回しているのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,471 コンサルタントは、「使う」ものではない、ということである。医者に対して、医者を使う、という言い方(捉え方) をしないのと同じことである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,488 しかし、それは裏を返せば、コンサルタントは自ら同じ経験を有する経験者ではないということでもある。仮に多少経験があったとしても、偶さかに過ぎない。ましてや、コンサルタントがよくいわれるような〝経営のプロ〟などであるはずもない。医者が〝人生のプロ〟でないのと同じである。そもそも経営にせよ、人生にせよ、そうした人間の営為そのものに、プロなどという概念があり得るはずもないであろう。せいぜい、病気や課題の発見と対処に特化した職業(プロフェッション) であるに過ぎないのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,501 コンサルタントに手助けを求めるとすれば、それは当事者としての経験だけでは計り知れないことに関してでなければならない。それは、徹頭徹尾、第三者であり続けることによって初めて到達することができる視点と着想に他ならない。 そのような視点や着想が必要になるのは、一つひとつの「会社」が直面する未知の課題は、常にその「会社」固有の課題であるからである。固有の、というのは、他に例のない唯一無二の、という意味である。その固有の課題の解決に挑む「会社」の手助けに必要なのは、ある特定の経験の援用ではなくて、そもそもどのような経験やら知識やら思考やらが有用なのかということを、広い視野で先入観なく俯瞰する自由で冷徹な目でなければならない。それはコンサルタントにとっても、まだ答えを持たない未踏の問題の解決策を、クライアントとともに探り当てる作業なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,509 その意味で、コンサルタントにとっての仕事は、心理学者の河合隼雄氏の表現を借りるなら「常にクライアントとともに挑む処女峰の登山」のようなものである。もちろん登山に挑むのはクライアントであり、コンサルタントはそれに同伴するガイドのようなものかもしれないが、それはあらかじめ決まったルートを案内する観光ガイドのようなものではない。命懸けで未知の処女峰に挑むクライアントから、死命を制する要所の判断に際して、意見を求められるわけである。観光地のプロではなくて、同伴する相手を十分に知悉していなければならないのである。天候やルートももちろんであるが、加えて装備も食糧も、本人の技能も体力も気力も、この機会を逸することのリスクも、別の機会や資金を得るこの先の選択肢の有無も……あらゆる要素や側面を統合的に判断して、その局面における意思決定を手助けしなければならない。その固有のクライアントがどう判断すればよいかについての意見であるから、そこで欠くべからざることは、そのクライアント固有の全存在に対する行き届いた目配りと思慮に他ならない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,529 コンサルタントも今でこそ、志望者も多いエリート族のように思われているが、その仕事の本性からいえば、古い言葉にいう「渡世民」の系譜に属する職業であったであろう。歴史的には、社会や地域に根を張って定着した「常民」という言葉の対概念である。定住地を持たず日本各地を旅して一生を過ごした芸人や任侠の徒、力士、それに古くは医師などもこれに含まれていたそうである。それは終生、世間を渡り続ける「学習する旅人」といえようが、ある意味で斜に構えた特有の姿勢で世を渡り続けることを通じて、訪れる先々の「常民」の社会の常識の陰に隠されたものを明るみに出して見せていた人々である。「常民」の道から外れてしまった反骨で自由な精神のアウトサイダーであればこそ、二つの世界が邂逅する非日常的場面で、「常民」の世界の常識を転倒させる何かを、別の世界からもたらす存在たり得たに違いない。現代のコンサルタントも、本来ならこうした「渡世民」の系譜に連なる自由で縦横無尽なあり方であってこそ、事業を営む「常民」の世界に自己発見の驚きをもたらすことができるのではないかと思われる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,543 経営で何より大切なことは何か、と問われれば、それは「信義」であると答えたい。 「信義」とは、企業活動の土壌である。 土壌がよければ豊かな実りも生まれるが、それが悪ければ殺伐としたものとなる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,565 「強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きていく資格がない」とレイモンド・チャンドラーが小説の主人公に語らせているのは有名な話だが、ある意味でそれは法人としての「会社」にも通じることであろう。キレイごとでは経営はできないなどとうそぶく前に、そんなことさえわからぬようでは経営をする資格がない、と考えるのが「常識」というものである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,573 私の知る創業経営者の残された語録に、次のような言葉がある。 「経営のノウハウは、『正しい姿勢』がすべて。」 「目先の利益を追い求める人は没落が早い。公明正大、人の道に適った正統派の経営をする人が、結局は残っている。」(『正見録 藤崎眞孝のことば』) また、 「経営者は『儲けたい』『会社を大きくしたい』という我欲を起点にしがちです。しかし、本来は『人間として何が正しいか』を起点に置くべきです。自分の会社に都合がいいことばかりを選ぶのではなく、たとえ会社に不利であっても人間として正しい道を選ぶ。」(『週刊現代』二〇一六年八月二十日・二十七日合併号より) とは、稲盛和夫氏がインタビューで語られていた言葉である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,627 しかし、ここで改めて思い出さなければいけないことは、「会社」とは社会の既成の枠を「ハイ、ハイ」と受け入れてその枠内でせっせと稼ぐことに精を出します、という存在ではなく、既成の枠を超えて、そこからあえてはみ出す大いなる内発的自由があってこその「会社」であるということである。世間がどう言おうと自らが善いと考えることを貫き、そこから「益」を導くこと、つまり事業化することに拘り抜く。そのとき「自由」の核心に据えられていなければならないのは、利己ではなく、どう考え行動するのが「善い」かという自らの信念に他ならない。法律に定められた範囲のギリギリを行こうとするのも、またときにはその抜け穴を行く道を探ろうとするのであっても、それは自らの信念に基づいて、それが「善い」と考えるからである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,639 ない。「会社」が企む創造的活動の射程は、取り決められたルールの領域よりも、ずっと広い。そこで「会社」が自らの考えを信じて自由に行動するとき、それが自由であればあるほど、それが正しいかどうか、道を踏み外してはいないか、を自ら判断する拠り所を持ち合わせていなければ、「自由」である資格などないであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,684 「会社」には、社会的主体(法人格) としての見識と自負があるから、何が善いことなのか、それをすることが善いことなのかを、自ら判断する力が生まれる。他人や周囲に言われたから、そうするのではない。社会の風潮がそうであるから、でもない。それを自ら考え、強靭な意志としてそれを自身の内に持てる力である。こうして固有の意志を持つ主体であるからこそ、社会に新しい「価値」を提起し、たとえ小さくとも社会が動く契機を創り出す存在となれるのである。 こうして自ら考えるときに、利己的にではなく、社会的に考えるという約束が、「信義」なのである。「正しく考える」ということは、そういうことである。 「信義」とは、「会社」が社会的存在であることの証しである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,690 それを内的規範として宿し、体現しなければならないのが経営者であることは、言うまでもないであろう。経営者の品性は、結果として、「会社」の品行や品格となって如実に顕れる。逞しい商魂、商才も、自身を貫く「信義」を背骨にしていなければならない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,739 ない。小林秀雄は「威勢のいいものは、いつも滑稽だ」と言った。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,740 経営者とは冷めて(醒めて) いなければならないのである。そして、平静になったときに目の前に立ち現れる無辺の可能性を秘めた空虚こそ、逆に次なる事業の創造の沃野であり、経営者が本当に向き合わなければならないものだ。お祭り騒ぎのように、時代という船上での先陣争いに熱くなることではない。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,765 たしかに、企業経営に関するさまざまな知識や見識が深まり、それが蓄積され共有されることによって、経営の方法論がかつての無手勝流の域を脱し、進歩したことは大いに喜ばしいことに違いなかった。しかし、それは決して、「経営」がそれ単独で目的を持つ技芸(practice) になったことを意味しない。経営理論や経営手法をいくら寄せ集めたところで、それが経営になることなどありはしないのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,793 しかし、だからといって可視化できないものまでなんでも可視化して説明しようとする習いが行き過ぎれば、逆に対象を見える範囲に限定する視野狭窄となり、結果的にものごと自体を矮小化してしまうという 陥穽 は、「迷宮」をめぐる中で繰り返し指摘してきた通りである。ましてや、可視化できないものはおかしい、説明できないことは怪しいとみなすまでになっては、愚の骨頂であろう。そもそも経営とは、可視化できないことだらけである。だからこそ、経営、なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,806 専門家」とは、自分の立場を専門領域に限定し、その枠の外に出たときにはなんの責任も持たない(取らない) 人たちであるが、それに対して経営者が預かるのは、当たり前だが、社会的主体としての「会社」の全存在だ。 ところが、科学とは呼べない経営理論が権威あるものとして流布され、経営手法なるものがあたかも実在するかのように説かれ、それを説法して回るコンサルタントがはびこり、経営用具をソリューションともっともらしく銘打って売り歩く道具商が出入りし、一方で資本市場に出れば整列して成績評定を受けることを繰り返すうち、いつしか、経営者の脳内は、時勢を覆い尽くした抽象概念としての「経営」のあるべき論に、根っから支配されるようになってしまったのである。「戦略論」も「市場競争」も「企業価値」も「経営指標」も「成長戦略」も「組織論」も「改革手法」も「M&A戦略」も「事業開発プロセス論」も「人材育成論」も……皆、もっともらしくあるべき論の顔をしてはいるが、それを文字通りのあるべき論として受け取ったところで、所詮それは生身の「会社」を、観念上のゲーム・プレーヤーとして行動させる競走レーンに(競走馬の如く) 都合よく押し込めるためのものなのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,848 自社のめざす善い「会社」を定めるのは、法人格としての「主観」に他ならない。それが、この「会社」は何をするどんな「会社」なのか、を自らの意志として決める。経営者はその「主観」を体現する者として、やはり強靱な「主観」を抱いていなければならないのである。 「主観」とは、何を「価値」とするかということであり、つまるところ、自己の責任もしくはアイデンティティ(存在意義) そのものでもある。自身(自社) の責任において、何を善いと考えるかということであり、それは、「どうしたら成功できるか」ではなく、「どうなることを成功と考えるか」という自己定義である。そこには「会社」の法人格も、それを任された経営者の裸の人格も、剥き出しに顕わになる。そこから逃げることなど、本来はできないはずのものだ。成功したとき、失敗したとき、矢面に立たされた経営者が覗かせる姿に、それは否が応でも顕わとなる。所詮、自身の立身出世や一攫千金、それに伴う達成感や愉悦感のレベルでしかなければ、それもそれで人格として、繕いようもなく顕わに晒される。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,858 ところが、「会社」とその経営者は、その「主観」という人格の背骨を引き抜かれてしまったのである。引き抜かれた、というと受動的なことに聞こえるかもしれないが、実際のところは、安んじて逃げ込んだということでもあろう。逃げ込む先は、「客観」という名の無思想だった。「
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,891 結局、経営者自身も含めて、誰一人、方向そのものを自ら創造的に指し示す人はおらず、決められた方向に沿って事故を起こさず運転するように取り締まる人ばかりになる。決められた方向とは、外から要求されたものである。「会社」はその競技場の枠の中に閉じ込められて、責任を持たない競技場の観覧者から都合よく論評される対象となり、自らの力では、永遠にそこから抜け出すことのできない存在となっていく。 「主観」を手放してしまった「会社」とは、そういう「会社」である。 経営者にとって、本当に恥ずべきことは、最新の事情に通じていないとか、やり方が古いとかということではなくて、社会に対して、もしくは社内外に対して、信念を以てさらけ出せる自身の「主観」、ステークホルダーを糾合することができる力強い「主観」を持ち合わせていないということなのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,906 かつては、それぞれ個性豊かな独立店主が寄り合う商店会のようであった経営者団体も、今では、あたかもショッピング・センターの各売場の店長会議を連想させるようにさえなったと感じるのは、私だけであろうか……。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,915 「自由」とは、与えられた目的に沿ってどうやるか(How to) を選ぶ自由ではない。そもそも何を目的とするか(What) を選ぶ自由である。その目的を選び取る思考(Why) が自分自身のものであるということである。「会社」の経営の「自由」とは、自ら目的を設定する自由なのである。それは、どう経営するかではなく、何を経営するのかを、自ら選ぶ「自由」であり、考えてみれば、人間がやりたいことを自分で決めるのと同じく、法人として自然で常識的なことである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,958 できないことに果敢に挑むことこそが、「会社」の原点にある「自由」なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,980 「会社」の経営は、何を為すかというその根っこにおいて、本来「自由」であるはずのものである。そして、この「会社」は何を為すのか、経営者としての自分は何を経営しているのか、という原点において立っている地平は、競技場のような閉じた競争空間ではなくて、社会という無限に広がる沃野でなければならないのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 3,009 渋沢栄一の「論語と算盤」にならって言えば、論語と算盤とを長い目で見て合一させるのが事業であって、ただ算盤を弾いてやっていることに、事後的に意義を後づけするものなどであろうはずもない。だから、「算盤と論語」ではないのである。
青色のハイライト | 位置: 3,011 めざしてもいないものが、いつしかできることなど、ありはしないのである。その「会社」がめざすものというのは、借り物や飾り物としてそこに置いてあればよいというものではない。そこから、すべてが始まるのである。思考の機序は、そうでなければならない。だから、人間の営為として、めざすものを選び取る経営の「自由」が、そこになければならないのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 3,017 顕微鏡の中の微細なこと、社会の一隅を照らすに過ぎぬものであっても、それでよいのである。「会社」の自律的進化は、そこからしか、始まらない。何を措いても為したいと考えることがあるから、それとの格闘が生じ、苦闘の中から自由な創意が芽吹き、その創意から事業が生まれ、それを形にするのが「会社」という企てである。「会社」という主体としてのあり方のすべての面にわたり、あらかじめそれを縛るような、なんの制約も前提も設ける必要はない。社会的な主体として、ささやかではあっても新しい「価値」の提案を抱いた小宇宙を形づくるべく、自身の姿(あり方) を自在に変えることを試み、時代に相応しい社会の公器としての役割を模索し続けるということだと思う。
オレンジ色のハイライト | 位置: 3,048 経営者も、それを取り巻く人々も、皆こぞって、一種のポピュリズムに墜ちているということなのだ。それに無思想に加担しているのがまた、コンサル族に代表されるインテリを自認する人々だけに、一層厄介なことではある。 経営者は、ウェーバーの言う “letzte Menschen”=「世も末の人々」の悪夢から目を覚まさなければならない。 その夢から覚めた先に、人間として心底から愉快な経営を、経営者がその手に取り戻すことを願ってやまない。
青色のハイライト | 位置: 3,080 クライアントが左に寄り過ぎていると思えば私の主張は右であったし、右に寄り過ぎていると思えば私の主張は左だった。私がコンサルタントとして手助けしてきたことは、その「会社」が、あるいはその経営者の方が、より自分らしく考えて判断し、その考えを実現する正しい行動のあり方を、その個性に応じて助言するということでしかなかったと、今さらながら思う。