感じたこと
内容
引用メモ
- 同時に、こうした人身取引の形態の多様化は、「被害」と「自己責任」の境界をより曖昧なものにしたといえる。フランスで社会福祉を研究する安發明子氏は、フランスでは「誰もが常に考えうる限りの最善の選択をしている」という考えがあり、「問題」行動もその人にとっては「生き延びるための戦略」なのだと述べる。それぞれの「最善の選択」は、自らの意志で行われるが、構造的な制約のもとでは選びうる選択肢、実現し得る選択は限られている。けれども自己責任論が蔓延する社会では、その限られた選択すら「自業自得」とされ、人身取引は不可視化される。タイの一二歳の少女は、自己責任を問いようのない「完全なる被害者」だった。だが今も、どこかで人身取引の被害者は自らの自己責任を問い続け、加害者はそれに乗じて利益を得続けているかもしれない。被害は、労働と奴隷、合法と「不法」の連続体のなかで発生する。人身取引の仕組みを理解し、被害者を生み出さない社会をつくる、私たち一人ひとりに課された責任である。 p101
- 彼と別れて帰宅してから、「FuropaFuropa」という快画について検索した。一九九〇年の映画だ。俳優たちの顔に見覚えがあり、邦題が『僕を愛したふたつの国」だとわかってはっとした。見たことがあると思ったからだ。あらすじを読んで内容も思い出した。それはドイツ人を装ってしトラーユーゲントに入るユダヤ人の少年の話だった。息子の友達らしい、ダークなユーモアだと思った。が、わたしには笑えなかった。England Englandという言葉が浮かんだ。英国人のイングランドと移民のイングランド。自分のルーツを誇るための愛国主義と、自分のルーツから自分を守るための愛国主義。そのはざまで、聖ジョージの旗が揺れている。 p126
- 科学否定論に向き合い続けているリー・マッキンタイアはその著書『ポストトゥルース』において、「地球の気温が上昇しているのかどうか、そしてその主要な原因は人間にあるのかどうかという問題をめぐる科学的な議論が実質上存在していないにもかかわらず、大衆は目隠しされたままでこの問題についての科学的な大論争があると考え続けている」(マッキンタイア 二•二〇:三九1四〇頁)と述べる。気候変動否定論が科学的な議論になりえないにもかかわらず、あたかも科学的な論争があるかのように捉えられてしまう。それはなぜか。マッキンタイアは、「自分の立場を支える事実を選択して使用することと、そうでない事実を完全に拒絶することが、新たなポストトゥルース的現実を生み出す本質的な要素であるように思える。・・・・・・・まさしく事実は意見に従属するかもしれない」(マッキンタイア 二〇二〇:五四頁)とまとめる。ふつう、まず事実があってそこから意見が見いだされる。
- ここでは、対話という形式のもつ危うさが指摘されている。この二人は議論など始めなければおおよそ意見の一致した仲間であり続けられたのに、対話を通してささいな違いを互いに誇張し合うことで、まったく相容れない二つの陣営の代表者のようになってしまった。こうしたことは対面の場でも起こりうるとはいえ、互いの顔の見えないSNS、特にX(旧ツイッター)では毎日毎時の光景だ。あのプラットフォームで衝突している人びとの多くは、別の場所で出会うなら、穏やかに言葉を交わし合えるのに違いない。p233