感じたこと
- 結論、お金があっても幸せにはなれない。ただし不幸せを減らす(障害を減らすことはできる)ということ。
- 自分が強く影響を受けている仏教・ストア派哲学が近い考え方を持ってもっていると整理されたのが収穫の一つ
- 引用の最後に書いた、人生を愛することが幸せへの王道、という文章が好き。正しく理解し、受け入れること。変えるべきことを見極め、自己と世界を変革すること。
- エピローグに出てくるスーフィーの寓話がとてもわかり易い。人は自分というフィルターを通じて世界を見る。不幸に見る人は、どの環境も不幸に見える。幸福に見る人は、どの環境も幸福に見える。そこには自分がいるから。
- ちょっと前にTHE GUILDの深津さんがnoteに書いていた[幸せと充足を求めるためのあれこれ」と合わせて読むと良さそう
内容
- 幸福=「主観的幸福感」(本人の主観をもとに測った、幸せで満ち足りた気持ち)として哲学・心理学では取り扱う
- 瞬間的な喜びや快楽とは異なる、様々な感情体験を経た後の複合的な感情
- 一定期間に渡って、総合的に見た心の状態
- 欲求や願望が満たされたときに感じる「快感情・快情動」は幸福の一要素であるが本質となりえない
- 喜びは、ホルモン分泌と脳の神経伝達部室のバランス回復という効果がある
- 一方で快感情はあくまで一時的なものでありすぐに移ろってしまう
- 快感情の追求がその後の失望や虚しさにつながる
- 単なる喜びではなく、自分の人生に対する意味を見出し、それに基づいた方向を自覚できることも幸福に欠かせない要素
- ヴィクトール・フランクル「人間を突き動かしているのは、生きる意味の追求である」
- 喜びにも意味にも方向にも、それらは正しい理解と智慧に立脚しているべき。その意味で幸福は「真実に立脚した意味のある人生において、総合的かつ持続的に満ち足りた状態を自覚すること」と言えそう。
- 一方で、その内容はひとりひとりの主観や完成、希求するもの・こと、人生の段階でも異なる
- かつ、そのような幸福は壊れやすく、予測不能であることにも注意
- 塵世に意味を見出すためには、まず自分の奥深い本性に従って生きること。自分本来の個性と豊かな感性を活かすことにより、与えられた人生と世界を心から楽しめること。
- 今に集中し”気付く”ことと、気ままに"夢想する"を行き来することで、幸福を自覚する瞬間を持つべし
- さらに、幸福は伝染する。幸福な友人がひとり増えるごとに自身が幸せになる確率は9%ずつ上がり、反対に不幸せな友人がひとり増えるごとに、蓄積した幸福量は7%ずつ減少する(ハーバード大学、ニコラス・クリスタキス教授の研究)
- 人間の生存本能が幸福実感の妨げになることも。以下3つの要素が存在
- 周囲の環境に適用するための順応性を高めたことで、くり返し起きる辛く苦しいことにも耐えられてしまう。それにより、不幸が当たり前になる
- ポジティブな出来事よりもネガティブな出来事に意識を向けやすい
- 現状に満足しない、常に状況を改善しようとする
- クルレティウス「人間は欲望の充足を求めて駆けずり回る永遠に満たされない存在」
- 欲望とどう向き合うべきか、仏教とストアは哲学のあいだにある共通性
- 欲望の転換:深い喜びは心の平安、静けさ、安らぎにある。そのために正しい認識と自助努力を通じて自己を変革する
- 流れに逆らわない柔軟な生き方:快楽と苦難の中間にある、調和の取れた生き方を追求する
- 円環的な時間感覚・すべてのものの流動性/非恒常性
- 自己制御と解脱により、個人を自由と自律に導こうとしている
- しかし戎の厳しさなどを「実現不可」として、より自然の流れを意識したモンテーニュや老壮の思想が生まれた
- 各人の身の丈にあった生き方や素朴な喜びに大きな価値をおく
- 生きること以上に尊いことはなく、人生を愛し、自分の本性に従い、程々の柔軟さをもって人生と向き合う
- ストア派しかり仏教しかり、理論に固執し普遍的原理を追求する姿勢を批判
- モンテーニュ「喜びを拡大させ、悲しみはできる限り取り除く」の基本方針に基づき、2つのことを大切にする
- 自分自身の幸福を自覚し、それを味わう時間を作り、できる限り強くその喜びを噛みしめること
- 「私は、ダンスをするときにはダンスをし、眠るときには眠る」というように、一つ一つの自分の体験に意識を集中させる
- 幸福と向き合ったスピノザの哲学
- 物事の不完全な理解から正しい理解へ、
- 行き過ぎた欲望から程よい欲望へ、
- 限られた喜びから私服と呼ばれるこの上ない喜びへ、
- 正しい認識によっていたろうとする取り組み。
- その取組の一歩一歩で喜びが得られ、自分の力能の増大に伴って、常により大きくなっていく
引用メモ
原罪の教義に賛同できない私は、マチウ・リカールのこの見解に深い共感を覚える。それは、人間の本性の根底にあるのは善(=仏性)であり、人間の心は他社を慈しみ、惜しみなく与えることで開花するという、仏教に基づいた考え方である。憎しみ、怒り、恐怖などに駆られてネガティブな行動に走るとき、私たちはしばしば自分を見失い、自分が別人になったような気がする。人が激怒すると、「我を忘れる」「逆上する」「血迷う」などと表現するのもそのためだと思われる。反対に、善意、利他心、共感などを同期としてポジティブな行動をとったとき私たちは本来の自分らしい自分になれたように感じる。人間は利他的であることを、本心では望んでいるからだろう。
真人は踵で呼吸をする
わたしが信じているのはスピノザの神だ。つまり、存在するものの調和の中に顕現する神であって、人間たちの運命や行為を気にかけるような神ではない(アインシュタイン)
明日の自分を待ち受けているのは、喜びなのか悲しみなのか、楽しい出来事なのか不快な出来事なのか、予測できないのが人生である。それは絶えず浮き沈みし、光の部分もあれば闇の部分もあり、楽しみもあれば苦しみもある。幸せであるとは、そういう人生を丸ごと愛せるということである。移りゆく人生のあらゆる季節を、幼年期の無邪気さも老年期の便りなさも、青年期の夢と苦悩も、壮年期の充実感と挫折感も、全てをひっくるめて愛するということだ。誕生を愛するとともに、死をも愛することであり、人生に訪れる幸せなひとときを、思う存分に楽しむとともに、悲しみが湧いてきたら、それをとことん味わうことだ。そして自分に近しい人たちを、心を全開にして愛することであり、人生の瞬間瞬間を、強烈に生きることである。