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ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力

感じたこと

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内容

  • ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。 あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します
  • 詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。神の衝動の産物である太陽や月、海、男と女などは詩的であり、変えられない属性を持っている。ところが、詩人は何も持たない。アイデンティティがない。確かに、神のあらゆる創造物の中で最も詩的でない。自己というものがないのだ
  • 〈問題〉を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。 なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。 目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ちつかず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのは、そのためです
  • 経済的な困窮の中で、詩作の苦しみから、キーツが導き出した概念が、「受身的能力(passive capacity)」です。キーツはこれを言い換えて、共感的あるいは「客観的」想像力と言います。これが「エーテルのような化学物質」で、想像力によって錬金術的な変容と純化をもたらして、個別性を打ち消してくれるのです。この「屈服の能力(capability of submission)」こそが、個別性を消し去って、詩人は対象の真実を把握できると考えました。
  • ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ、治療者と患者の出会いを支え続けることによって、人と人との素朴な、生身の交流が生じるのだとビオンは説きました。精神分析に限らず、人と人の出会いによって悩みを軽減していく精神療法の場において、ネガティブ・ケイパビリティは必須の要素だと、ビオンは考えたの
  • つまり、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度です。 そしてこの章の末尾で、ビオンは衝撃的な文章を刻みつけます。ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表わしようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけました
  • そのブランショの言葉は次のとおりです。 ──La réponse est le malheur de la question. (答えは質問の不幸である) つまりビオンに言わせると、ブランショの指摘のとおり、答えは好奇心にとって不幸であり、病気なのです。 ──The answer is the misfortune or disease of curiosity──it kills it. (答えは好奇心を殺す) ビオンはそうとまで言い切ります。黒井千次氏の随筆に描かれた、大作家と少壮気鋭の学者のやりとりの本質を、見事に突いているとは思いません
  • 目の前の事象に、拙速に理解の帳尻りを合わせず、宙ぶらりんの解決できない状況を、不思議だと思う気持を忘れずに、持ちこたえていく力がここで要請されます。 言い換えると生まれたばかりの手つかずの心、赤子の心で、死にゆく患者と対峙するのです。そうすれば、主治医と患者さんの間で交わされる言葉の一言片句が千鈞の重みを持ってきます。 誰でもひとりで苦しむのは、耐えられません。誰かその苦しみを分かってくれる、見ていてくれる人がいると、案外耐えられます。
  • Humanities are the hormones of medicine
  • ギャンブル障害の本質は、「同じ行為を繰り返しながら、違う結果を期待する」
  • この結果から導かれた結論は、「治療を受けているという実感が、症状に改善をもたらす」でした。言い換えると、治療という「儀式」が治療上、強力な力を持つのです
  • プラセボ効果を生じさせる必要条件は、「意味づけ」と「期待」です。治療を受けているのだと患者さんが感じ、病気が軽減されると期待を持ったとき、脳が希望を見出して、生体を治癒の方向に導くのだと考えられます。意味づけと期待に対して最も活動性が高まるのは前頭前野でしょう。希望する脳がプラセボによって点火され、トップダウン式に、脳の深部、ひいては体内の自然治癒の仕組みによい影響を与えるのです
  • 問題解決が余りに強調されると、まず問題設定のときに、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。単純な問題なら解決も早いからです。このときの問題は、複雑さをそぎ落としているので、現実の世界から遊離したものになりがちです。言い換えると、問題を設定した土俵自体、現実を踏まえていないケースが出てきます。こうなると解答は、そもそも机上の空論になります
  • こうした教育の現場に働いているのは、教える側の思惑です。もっと端的に言えば「欲望」です。教える側が、一定の物差しを用いて教え、生徒を導くのです。物差しが基準ですから、そこから逸したさまざまな事柄は、切り捨てられます。何よりも、教える側が、問題を狭く設定してしまっています。そのほうが「解答」を手早く教えられるから
  • 学習と言えば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点してしまいがちです。世の中には、もっと他に学ぶべきものがあるのに、親はそれを子供に伝えるのさえも忘れてしまいます。 星の美しさ、朝日や夕日の荘厳さ、木々の芽ぶきの季節のすこやかさ、花々の名前や木々を飛び交う鳥の姿と鳴き声も、まず大人の感受性はとらえられなくなっています。子供に伝えられるはずがありません。 美術館で、ひとつの絵や彫刻を前にしたときの感動も、大人が関心を持っていなければ、子供が感動を覚えるはずがありません
  • 研究に必要なのは「運・鈍・根」と言われると、私は深く納得します。「運」が舞い降りてくるまでには、辛抱強く待たねばなりません。「鈍」は文字どおり、浅薄な知識で表面的な解決を図ることを戒めています。まさしく、敏速な解決を探る態度とは正反対の心構えです。最後の「根」は根気です。結果が出ない実験、出口が見えない研究をやり続ける根気に欠けていれば、ゴールに近づくのは不可能
  • 解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。 どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。 「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実は能力のひとつなんだよ」ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います。
  • つまり、ヒトは生物として共感の土台には恵まれているものの、それを深く強いものにするためには、不断の教育と努力が必要になるのです。 この共感が成熟していく過程に、常に寄り添っている伴走者こそが、ネガティブ・ケイパビリティなのです。ネガティブ・ケイパビリティがないところに、共感は育たないと言い換えてもいいます

引用メモ