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目的への抵抗―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

感じたこと

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内容

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引用メモ

自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由が
オレンジ色のハイライト | 位置: 159 そもそもは「俺は哲学をやるぞ!」なんて思っていたわけじゃないんです。「自分がやっているのは哲学なんだろうな。じゃあ自分なりに哲学というものを引き受けようかな」と思ったのは三〇歳ぐらいの時のこと
オレンジ色のハイライト | 位置: 180 つまり、ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする。なぜこんな話をするのかというと、その間にある中間的な領域のことはなかなか思い通りにならないんですね。どんな大学に行きたいとか、どんな会社に行きたいとか、そういったことはなかなか思い通りにはなりません。ですからそこに目標を置いてしまうととても苦しいことになる。でも、来週の定期試験の勉強はできますよね。また、「何でもいいんだけど、何か世の中をよくすることをしたいな」とかボンヤリ考えることもでき
オレンジ色のハイライト | 位置: 190 僕自身もそうだったように思うんです。僕にとっての、ものすごく遠くにある大切なものというのは、「ものごとを本質的に考えたい」みたいなことだったと思います。こんなにボンヤリしているわけですから、それがどういう形で具体化できるのかはよく分からなかっ
オレンジ色のハイライト | 位置: 280 アガンベンはこの概念についてこれまで様々な角度から研究を積み重ねてきた哲学者です。権力は「例外状態」あるいは「緊急事態」というものを巧妙に利用して、民主主義をないがしろにしたり、人々の権利を侵害していくことが
オレンジ色のハイライト | 位置: 285 このような論法に対するアガンベンの問題提起は極めてシンプルです。自由を守るために自由を制限しなければならない──そんな矛盾が受け入れられるだろうか、というもの
オレンジ色のハイライト | 位置: 371 何よりも生存することが最優先であるから、生存のためであったら何を放棄してもいい──そうした社会的傾向の中で、人間は、単に生存しているのではなく生きているのだと言えるために必要な何かを失いつつあるのではないか。その何かの中でアガンベンが強調しているものの一つが死者に対する敬意です。先の引用文では、死者が葬儀の権利をもたないと指摘されています。これは、コロナ危機の中で死者が葬儀を経ることなく埋葬されていった事態を指してい
オレンジ色のハイライト | 位置: 396 だからこそアガンベンは現状に対して沈黙したままの教会に対して批判を述べているわけです。教会こそは、単なる生存には還元できない、人間が人間として歴史の中で培ってきた文化の価値の守り手ではなかったのか、というわけ
オレンジ色のハイライト | 位置: 474 僕はベルリンの壁崩壊を描いたドキュメンタリー映像で、検問所が開くのを今か今かと待っている東ベルリンの市民の一人が発した言葉が忘れられません。「私は別にこの国を立ち去りたいわけではない。ベルリンの西側にすこし散歩をしに行きたいだけだ。夜には戻ってくる」。過激でも特別でもない、ありきたりの願いです。しかしこの移動を願う気持ちは人を強く動かすのです。なぜならば、移動の自由を制限されることは、人間にとって極めて重大な帰結をもたらすから
オレンジ色のハイライト | 位置: 595 旅行および移動の自由がどれほど貴重な権利であるかを骨身にしみて分かっているメルケルは、スピーチの中でこの権利を「民主主義社会」と結びつけた。この「民主主義社会」という言葉にも、我々が日常的に耳にするそれとは全く異なる強い意味が込められていると考えねばなりませ
オレンジ色のハイライト | 位置: 605 メルケルは政治家としての役割を果たした。アガンベンは哲学者としての役割を果たした。ここには、自分の役割を確信を持って果たしている二人の立派な大人がいると僕はそう感じ
オレンジ色のハイライト | 位置: 631 教会は人間の尊厳の見張り番であるはずなのに、「いまや現代の真の宗教となった科学に侍女として仕え」ていると述べられます(同書、八四ページ)。感染症について語る「科学」は、現代においてむしろ宗教のようになっているのではないかという指摘が印象的です。つまり、疑いを挟んではいけない最高の規範を作り出すのが、現代では科学になってしまっているということなのでしょ
オレンジ色のハイライト | 位置: 722 これは日本においても顕著です。日本でも国民が例外状態に慣れきってしまっている。最も分かりやすい例は、「閣議決定」の当然視です。「これこれのことが閣議決定された」と報道されることがよくありますが、あれは政府の閣僚が集まって方針が決められたにすぎません。閣議決定に法的根拠はない。ところが、マスコミは既にそれによって何か重大な案件が決定されたかのように報道している。そのことに慣れきってしまっているから
オレンジ色のハイライト | 位置: 782  ここから分かるのは、三権といっても一つ一つ性質が全く違うということです。教科書などではよく立法、行政、司法がそれぞれ同じサイズの丸で図示されますが、これは正確な理解を妨げるものかもしれません。本当は各権力は大きさも形も違います。  現在は行政権が非常に強くなっている時代です。コロナ危機でそれはより顕著となりました。アガンベンはそのことに危機感を抱いています。コロナ危機から随分と話が大きく広がったと思われるかもしれませんが、アガンベンのような哲学者の発言の背景には、これだけ話してもまだ話し足りない歴史と概念と思想があるのです。アガンベンの発言に同意するしないとは別に、そうした歴史や概念や思想について知り、自分で考えるということをしてもらえたらうれしく思い
オレンジ色のハイライト | 位置: 859 ヴァイマル期におけるナチスの台頭については、古い本ですが、林健太郎『ワイマル共和国──ヒトラーを出現させたもの』(中公新書、一九六三年) がお勧めです。林健太郎は東京大学総長も務めた保守派の知識人ですね。これを読めば、ヴァイマル期ドイツにどういうことが起きて、ナチスが台頭してきたのか、その概略が分かり
オレンジ色のハイライト | 位置: 917 大切なことを考えるにあたっては、たいてい、同時に二つのことを考えなければいけないんです
オレンジ色のハイライト | 位置: 947 あと、哲学のことは今日話したから別の論点を付け加えると、日本はマスコミが弱いと思います。新聞を読んでいても、日本の問題を他人事みたいに書いていることが少なくない。この状況を作ってしまっているのが自分たちなのだという思いが感じられない。政治家の記者会見でもきちんと問い詰めるということをしませんね。学者も頑張らなきゃいけないけれども、マスコミにももっと頑張ってほしいなと思い
オレンジ色のハイライト | 位置: 971 は『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、二〇二二年) という本を出しているのですが、この本はおそらく、今指摘してくれた問題への僕なりの取り組みです。人は自由を求めているようでいて、自由になると暇になり、暇になると退屈するから暇を嫌う、したがって自由を拒否するというこの矛盾した人間的事実が
オレンジ色のハイライト | 位置: 985 つまり価値観という確たるものを何も持っていないから、プロパガンダもどんどん信じてしまう。でも、そもそも信念がないから、騙されても平気なのです。  僕はこの分析を読んだ時に、まさしく現代の日本社会だと思いました。信じるということが徹底的に根こそぎにされている社会。別に信じるといっても信仰ということではないんです。たとえば、「俺たちは国からこれぐらいの扱いは受けるべきだ」とか、そういう信念みたいなもののことを言ってい
オレンジ色のハイライト | 位置: 992 もう少しだけ付け足すと、かつて福田恆存という英文学者・劇作家がいました。保守派の論客です。福田恆存は、人間は自由なんか求めていない、演じるための役割を求めているんだと言った(『人間・この劇的なるもの』新潮文庫、二〇〇八年改版、一七
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,017 なぜ人は死んだ人と交流するのでしょうか。おそらく、今生きているという感覚は、死んでしまった人がいるという感覚と切り離せないからではないでしょう
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,026 また死者に対する敬意が人間の文化を支えてきた。そういう非常にプリミティヴな感覚をアガンベンはこの言葉に込めているように思います。人間にとってプリミティヴな感覚に関わっているからこそ、埋葬されるという「死者の権利」がなくなったら、人間社会が根底から崩れてしまうのではないかとアガンベンは危惧しているのでしょ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,104  よく思い出すマハトマ・ガンジーの言葉があります。「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。自分が何かをしてもすぐに社会は変わりませ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,190 二時間半の授業の中で、ある話題にはある学生たちが、別の話題には別の学生たちが反応し、だんだんとオーディエンスの「テクスチャー」ができてくる。全てに興味を持たせることなんかできない。それよりどこに反応するかが大事だ、と。僕もそう思い
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,208 今日はこれをもっと早い時間に言えばよかったな。大学というのは本当にすばらしいところですよ。僕はあまりにも大学が好きだったから、大学の先生になってしまったん
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,212 「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、 それが目的の定義にほかならない」 (ハンナ・アレント『人間の
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,273  今日、これから必要について指摘してみたいのは、それが何らかの目的と結びついているということです。必要と言われるものは何かの ために 必要なのであって、必要が言われる時には常に目的が想定されている。目的とは、それの「ために」と言い得る何かを指しています。必要であるものは何かのために必要であるのだから、その意味で、必要の概念は目的の概念と切り離せませ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,300 人類はずっと浪費を楽しんできた。ところが、二〇世紀になって人類は突然全く新しいことを始めた、とボードリヤールは言います。それが「消費」です。つまりここで消費は浪費と区別されて用いられています。浪費は生存のための必要を超えた支出の享受を意味しました。それは言い換えれば、限界を超えて物を受け取ることです。限界を超えて物を受け取るわけですから、浪費は満足をもたらします。そして満足すれば浪費は止まります。たとえば、十二分に食事をして満足したら、お腹がいっぱいになって食事は終わる。つまり浪費には終わりがある。  ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするのだとボードリヤールは指摘します。たとえばグルメブームのようなものを考えてみると分かりやすいでしょう。あるお店が流行しているからという理由で人はそこに赴く。そして一定の時間が経つと、今度は別のお店が流行しているからという理由で別の店に赴く。どうして人がこのような行動を繰り返すのかと言えば、それは「その店に行ったことあるよ」と人に言うため
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,311 なぜならば、そこで人が受け取っているのは物そのものではなくて、「あのお店に行った」という観念だからです。記号とか情報と言っても
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,313 消費において人は物そのものを受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。そのような性質を名指して、ボードリヤールは消費を観念論的な行為とも呼んでい
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,341 です。消費社会は僕らに何の贅沢も提供していない。「次はこれだ、その次はこれだ」と僕らを消費者になるように駆り立てている消費社会は、僕らを焦らせているだけで、すこしも贅沢など提供していない。つまり消費社会の中で僕らは浪費できていない。僕らは 浪費家 になって贅沢を楽しめるはずなのに、 消費者 にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている。  だとすれば、むしろ贅沢を求め、物そのものを受け取って浪費することこそが大切ではないのか。それは人間に充実感や豊かさをもたらす。そして何より、浪費は満足によって止まる。物の受け取りには限界があるからです。それに対して消費には限界がない。だとすると、消費社会がもたらす贅沢を退けて「清貧」に生きるべきだという主張は、消費社会の根本的な特徴のみならず、人間にとっての豊かさの大切さをも捉え損ねている。これが『暇と退屈の倫理学』の大きな主張の一つでし
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,375 贅沢と目的の関係です。贅沢の本質には、目的なるものからの逸脱があるのではないでしょうか。たとえば、食事をするのは栄養を取るためであり、栄養摂取が食事の目的であると考えることはできます。確かに栄養摂取は食事にとっての欠かせない要素
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,398 つまり資本は、現状に対して疑問を抱き、何事かに気づき始めた人間を、これまで通りの消費社会の論理に連れ戻そうとするのです。だとすると、すべてを目的に還元する論理、目的をはみ出るものを許さない論理は、 消費社会の論理を継続するために、現在、この社会でその支配を広げつつあるのだと言うことができるのではないでしょう
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,447 アーレントによれば、「必ずしもすべての手段が許されるわけではない」などという限定条件にはほとんど意味がありません(同書、三六〇ページ)。そんな限定条件を付けたところで、目的を立てたならば人間はその目的による手段の正当化に至るほかない。なぜならアーレントによれば、手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならないから
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,454 目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。アーレントはそう指摘しているわけ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,481 全体主義においては、「チェスのためにチェスをする」ことが許されない。全体主義が求める人間は、いかなる場合でも、「それ自体のために或る事柄を行なう」ことの絶対にない人間である。だから芸術のための芸術も許されない。もちろん、食事のための食事も許されない。  衝撃的なのは、〈いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間〉という言い回しは、「ヒムラー」や「SS隊員」への言及を取り除いてしまったら、現代ではむしろ肯定的に受け止められる言い回しではないかということです。どんな無駄も排し、常に目的を意識して行動する。チェスのためにチェスをすることも、食事のために食事をすることもない。あらゆることを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。必要を超え出ること、目的からはみ出ることを許さない。不要不急と名指されたものを排除するのを厭わ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,632 植民地は支配する側と支配される側という単純な二項対立で成り立っているのではない。必ずその支配には中間層があって、たとえばイギリス人だがインドで育ったキムのような存在がある。植民地を成立させているのは、むしろそうしたボーダーラインにいる人たちで
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,689 行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない。行為の一つ一つの局面において 動機づけや目的が重要な要因でないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因であるが、 こうした要因を超越しうるかぎりでのみ 行為は自由なのである(アーレント「自由とは何か」『過去と未来の間──政治思想への8試論』引田隆也+齋藤純一訳、みすず書房、一九九四年、二〇四ページ[傍点は引用
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,701 人間がこの世界で生きているとは、必ず複数の他者とともに生きているということであり、複数の他者とともに生きているとはそこに広い意味での政治があるということです。あるいは、政治とは複数の人間が一緒に生きている時に生じる営みである。  だから、自由について考えるのであれば、政治という複数性の営みの中でどう生きるか、どう振る舞うか、どう行為するかという観点からこれを定義しなければならないはずだというのがアーレントの言わんとしているところに他なりません。自由の概念には意志の自由の他に行為の自由があってアーレントはもっぱら後者を対象にしているということではないのです。自由について考えるとは、行為の自由について考えること、政治という複数性の営みのなかでどう自由に生きるかという問いに取り組むことに他なりませ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,762 とにかく重要なのは、ある目的達成のための手段ではない自由な活動が確かに存在しており、政治はそのような活動と強い親和性を持っているとするアーレントの指摘です。この指摘は少なからぬ人を当惑させるのではないかと思います。なぜならば、政治ほど目的が重要な領域はないのではないかとも思えるから
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,797 統治と政治が人間の管理に置き換えられ、人々が目的合理的な活動を達成した後でのみ、遊びが──おそらくは余暇に行われる消費として──認められるような社会です。そして、驚くべきであるのは、そのような社会が現在、ある意味で実現されてしまったのではないかということです。少なからぬ人々によって、政治は人間の合理的な管理であると考えられているでしょうし、目的合理的な活動が優先される社会の中で、遊びが認められるのはそれに抵触しない限りでのこと
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,871 目的合理性だけにとらわれ、遊びを全く失った社会運動のようなものがあったら、それは恐ろしいものではないでしょうか。それはあらゆる手段とあらゆる犠牲を正当化する運動に他なりませ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,896 なぜならば、「無駄」という言葉によって、あくまでも目的合理性が優先であって、目的のために手段と犠牲が正当化されることもやむを得ないという考えを認めた上で、その余白も認めてほしいと懇願しているのがこの言い方であるから
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,902 目的のために手段や犠牲を正当化するという論理から離れることができる限りで、人間は自由である。人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出たりすることを求める。その意味で、人間の自由は広い意味での贅沢と不可分だと言ってもよいかもしれません。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあるのだと思い
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,925 当然ながらポイントはそこに身体がないということですね。身体がないことで生じる、他者の或る種の軽さをどう捉えるか。今日は対面でお話をしていますが、その時に君たちの存在は非常に重いものです。重いというのは、強烈な責任を感じるということでして、僕も必死になる。Zoomでそのような責任を感じていないのかというと、もちろんそうではないのだけれども、具体的な身体の重みは、話をしている人に直接に責任の重みを感じさせるということはあるだろうと思い
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,985 決着はしばしば断念を伴う。それ以上考えること、それ以上書くことについての断念である。もっと何か考えられたかもしれない。もっと何か書けたかもしれない。実現しえたかもしれないし、実現しえなかったかもしれないこの過去のポテンシャルは、断念という事実を確認し続けることを著者に