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言語が消滅する前に

感じたこと

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内容

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引用メモ

これを具体的であろうとすることと言い換えてもよいかもしれないが、私たち二人はしばしば抽象的である。なぜならば、二人とも、極度に抽象的であることによってこそ、個別的な事例の現場に届くことがありうると信じているからである。その意味で私たちは事例ごとに、事例に則して抽象的な話をして
オレンジ色のハイライト | 位置: 137 切断なんです。そう考えると、意志の概念には決定的な矛盾がある。「周囲」や「過去」と意識を通じてつながっていると見なされていると同時に、まわりから切断された純粋な出発点とも見なされている。意志は、このどうにも解消できない矛盾を抱えているんです
オレンジ色のハイライト | 位置: 149  恋い慕う気持ちを持つなど、自分が場所になって一つのプロセスが進んでいく場合には中動態が使われる。それに対して、ものをあげるとか、何かを切るとか、行為が自分の外側で終わるときには、能動態が使われるんですね。能動・受動とはまったく別の切り分け方
オレンジ色のハイライト | 位置: 176 たとえば、上岡さんは、「回復とは回復し続けることだ」と言います。回復というと病気の状態から健康という状態に移行することのように思ってしまうんだけど、そうではなくて、ただ回復していくというプロセスだけがあるんだ、と。ところがこれがうまく理解され
オレンジ色のハイライト | 位置: 330 また、本にも書いているように、われわれが社会を動かしていくときに利用してきたのは法律だけじゃない。法律は現在、社会を最も包括的に規制している規則ですけれども、僕らが従ってきた規則はそれだけじゃない。宗教もそうだし、文法もその一つでしょ
オレンジ色のハイライト | 位置: 349 スピノザに対して、デカルトを尋問する哲学者と位置づけていましたね。二人を対照させて、デカルト的なやり方ではない考え方を提示する、というのがあの本でした。だから、尋問的になってしまった時代にどう対抗するかということが、一貫して國分さんの課題なんです
オレンジ色のハイライト | 位置: 369 國分  ただ、さっき「エビデンス」という言葉を出したけれども、エビデンスだけを信じるという傾向が強くなりすぎているという現状もあります。最近、千葉君はエビデンス中心主義批判をしてるよね。 千葉  何事にもエビデンスの「体裁」が必要だという風潮が嫌なんです。 國分  その気持ちは僕も共有します。ただ、エビデンス中心主義に対して別の方向性を示すのは意外と大変なんですね。『スピノザの方法』のときは、スピノザを通じて別の方向を示そうとした。『中動態の世界』では、かつて存在した文法に依拠しながら尋問する言語に挑戦するという仕方で同じことをやっているのかもしれ
オレンジ色のハイライト | 位置: 504 だから、イエスの奇跡も、水の上を歩いたとか、五個のパンをたくさんに増やしたとか、そういうことじゃなくて、いままで起こっていた物事の流れを中断して、流れを変えるという点で、イエスは奇跡を起こしたんだと。  僕はそこはピンと来るんです。その意味での奇跡はいろんな人に起こせることだし、実際、起こっている。 千葉  流れを変える、空気を変えるということです
オレンジ色のハイライト | 位置: 533  何かがガラッと変わるということじゃなくて、中断が重なって少しずつ変化が訪れる。複数の中断がレイヤーをなしている、そういうイメージかな。だとすると、千葉君が言ったような中断の思想は、決して中動態の哲学と矛盾し
オレンジ色のハイライト | 位置: 580 最初からこうするべきだという、完成品としての目的を提示するんじゃなくて、考えることへの勢いをつける。向かう先はみんな違っていていい。態勢であり、傾きである「ディスポジション」ですね。 國分  意見や世論はできあがったものとしては存在していないんだよね。意見も世論も作り上げていくものです。でもアレントの政治って、できあがった意見をもっている立派な大人が集まって成立するというイメージでしょ
オレンジ色のハイライト | 位置: 615 國分  「人生の真理、究めちゃってるんですか?」みたいに言われることもあるんですが、全然そうじゃない。哲学って真理を究めることじゃないんですね。何か問題があって、その問題に応えようとして悪戦苦闘する中で何か新しい概念を作る。あるいは既存の概念を利用する。哲学というのは問題の発見に始まるこのプロセスだと思うのね。これはドゥルーズも言っていることですね。哲学において大切なのは真理じゃなくて、問題とそれに応える概念だ
オレンジ色のハイライト | 位置: 622 千葉  うん、基礎力ですよ。ビジネスをするのにも役立つことです。問題を立てるのは、すごく基礎的なことですからね。というか、人ってなかなか問題を立てようとしない。問題を立ててしまうと気持ち悪いから、みんな問題を見ないようにしている。 國分  それ自体が問題ですね(笑)。 千葉  まず問題を立てることの気持ち悪さというか、ある種のマゾヒズムに引き込む必要がある。哲学教育はそこが難しいんじゃないです
オレンジ色のハイライト | 位置: 651 國分  授業もそういう意味では中動態ということだよね。つまり、教師が能動で、生徒が受動じゃダメで、そこに中動態的なプロセスがなければいけない。 千葉  そう。だから、最近流行りのアクティブラーニングとか言って、学生にアクティブに課題か何かやらせて、それに対して教師がアドバイザー的に関わるなんていうのは、能動・受動の二項対立の枠組みに囚われたまま反転しているだけだから、まったくダメ。アクティブラーニングより、これからはミドルボイスラーニングをやっていかなきゃいかんと思うわけです
オレンジ色のハイライト | 位置: 658 もう一つ、哲学の重要なところは、極めて抽象的だからこそ最も現場に近い話ができるという逆説なんですよ。よく抽象論だから役に立たない、ダメと言われるのは、僕に言わせたら、抽象性の度合いが低いからなんですよね。徹底的に抽象的なものは、徹底的に現場的になる。これは本当に一つの真理だと思っているん
オレンジ色のハイライト | 位置: 713 話を大袈裟なほうにもっていきますけど、これは現代世界において言葉に与えられている地位の問題と関係があるのではないか。これはアガンベンという哲学者が『身体の使用』(みすず書房、二〇一六年) という本の中で指摘していることなんですが、われわれはもはや言葉によって規定される存在でなくなりつつあるのではないかというの
オレンジ色のハイライト | 位置: 726 あれが何を意味しているかというと、言葉を使わないコミュニケーションでも十分だということです。ある種の情動の伝達だけをやっている。そして日常的なコミュニケーションはそれで十分だったことが
オレンジ色のハイライト | 位置: 768 千葉  言語は物質ですからね。だから、詩を読める、読めないという言い方はあてはまらなくて、詩は意味を理解するものじゃない。オブジェクトなん
オレンジ色のハイライト | 位置: 771 だから僕は、逆に、言葉を意味を伝えるために最大限効率的に使うというのが苦手なんです。僕には常に、文字の物質的な配置とか、パッとページを見たときに漢字がどのぐらい黒く見えるかとか、そういう次元のことが最初に来るん
オレンジ色のハイライト | 位置: 796 僕の書くものは形式的には確かに推理小説に近いかもしれないし、そう言われるのはうれしい。作家の大西巨人はどんな小説にも推理小説的な要素があると言ってた。なぜかというと、小説とはすべて人生の謎を解こうとしているから、その点においていかなる小説も推理小説的になるんだと。本人の口から直接聞いたことだから、文章としては書いてないかもしれない
オレンジ色のハイライト | 位置: 868 プロジェクトと言えば、何と言ってもハイデガーですね。ハイデガーは「投企」という言葉を使って、人間をプロジェクトする存在として捉えました。人は決断して未来に向かって自分を投げ込むことによって生きているし、生きるべきであるというわけです。僕は『暇と退屈の倫理学』でそれを批判しました。今日の意志の話と直結しますが、決断はゼロを求めることになるから
オレンジ色のハイライト | 位置: 902 批評的な仕事の目の付け方なんですが、みんなが見くびっているものをどれだけ面白く読解するかが、批評の大事な仕事だと思っているから
オレンジ色のハイライト | 位置: 984 國分  勉強の主体という問題に絡んで、もう一つ議論したいと思ったのが「キモい」というキーワードです。千葉君は、深く勉強することは、キモくなることだと言っていますね。僕はこの「キモい」に引っかかっている。どういうことかというと、キモいと判断するのは誰なのか、という問題です。人はキモい時、自分で自分のことをキモいと判断することができるのだろうか?  たとえば、僕自身は大学生のとき、超キモかったですよ。 千葉  いつ頃がいちばんキモかったです
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,007 話のちゃぶ台をひっくり返すようなことを言うのがアイロニーで、話を転々とさせていくのがユーモア。その二つが、周りのノリからズレてキモくなることだと説明しているわけです。ということは、完全にキモい人が読んだら「あ、自分はこれをやってる」と気づくんじゃない
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,016 千葉  そう、意識的に共同体の規範から離れていいんです。しかも、それは操作可能だということ。確かに、ズレっぱなしになる時期はどうしてもある。だけど、そのことに対してメタな意識を持てれば、ある程度は、場に合わせる社交もできるようになる。だから、恐れずにまずはズレてみようよ、と言いたかったん
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,033 そこそこノリにも合わせられるようになる第三段階に抜けていくことが大事なんですね。ある場面ではズレる発言を操作的にできるけど、場合によってはズレないで黙っておくこともできる操作可能性を手に入れる段階、それが本の副題にある「来たるべきバカ」なわけ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,045 ズレるということに関して違う観点から話すと、僕はいま「孤独」がすごく必要だと考えています。ハンナ・アレントが、 孤独 と 寂しさの違いについて書いているんですね。  孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ、と。孤独の中で、私は私自身と対話するのだとアレントはいう。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます。「誰か私と一緒にいてください」という状態が寂しさなんですね。だから、人は孤独になったからといって必ずしも寂しくなるわけじゃない。 千葉  それはいい区別ですね。 國分  ところがいまの世の中を見ると、孤独がなくなっている。孤独な経験がないから、人はすぐに寂しさを感じてしまう。そして、孤独はズレているときに起こるんです。世の中からズレているとき、なぜ自分が考えていることと感じていることを周りの人はわからないんだろう、と思う。それはまさしく自分自身と対話するということです。  つまり、勉強することがズレることだとすれば、それは最終的に、孤独をきちんと享受できるようになることだと思うん
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,062 千葉  僕のイメージでは、孤独な人ってものを作る人なんですよ。僕はもともと美術をやっていて、そこから言語のほうの仕事に移ったという経験もあるんですけど、僕がこの本でイメージしている勉強は、ある種のものづくりなんです。ノートに書きためていくとか、独特の仕方で知識を自分の中で組み合わせていくというのも、自分の中に言語彫刻を作っていくようなイメージで書いている。それは孤独な作業
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,070 目の前に現れたそういう存在に影響されて、自分も孤独な作業を始める。そのとき教師は、あるシステムを自分を飲み込むようにインストールしてくる他者ではなく、こちらから離れた自己充足的な存在としてあるわけです。 國分  なるほど。ドゥルーズも『アベセデール』でそういうことを言っていましたね。教師のとても大事な機能というのは、孤独な時間がなければ人は何かを成し遂げることはできないと教えることだ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,084 です。興味深いのは権威で、これは説得と暴力のあいだにある。人が自由を保持しつつ服従するというのがアレントによる権威の定義です。つまり、自分で判断できる余地があり、自由に振る舞えるんだけど、そのうえで「これはすごい」と思って服従する。 千葉  選択の余地があるけれども、服従
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,118 比較し続けている人とは、「こう決めちゃえばいい」という単純な決断を逃れている人。そして、そういう比較し続けている人同士が信頼に基づいて、知の共同体を形作っている。われわれが読むべき本も、まずそのような人が書いた本
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,126 つまり、権威とはそういう「知的な相互信頼の空間」を形作っていくプロセスの中にあるのであって、それは悪い権威主義に対する批判として読めると、倉下さんは言ってくれたんです。  僕がソフトな権威主義という言い方で問いたいのは、そういった絶えず再編成され続けるような、歴史的な信頼関係をどう引き受けるかという問題です。ところが現実には、乱暴に断言したり、単なる経験的な直感で決断する人がウケたりするわけじゃないですか。やはりそれではいけない。一定の蓄積のもとで考える、ある種の保守主義が僕は必要だと
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,134 歴史とは、僕らがどうにもできない地層のようなものであって、僕らの上に重しとしてのしかかっているものです。その重しみたいなものは、勉強を続けないと認識できない。勉強を続けていないから、物語をどう自分たちに都合がいいように改変するかという話になって
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,149 スピノザは「何か確実な物事を知っている人でなければ、確実さとは何かわからない」と言っている。つまり、歴史が重たいものであることを経験したことがなければ、いくら「歴史の重々しさ」と言ってもわから
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,156 僕自身『勉強の哲学』で、勉強の本質は別の言葉遣いを覚えることだと言い切っている。まさにその時、自分が崩壊する経験をする。いま、自分が持っているボキャブラリーとまったく違うボキャブラリーの中に入っていく。ボキャブラリーが変わるとは、考え方が根底から変わることであり、それが変身なんだという、かなり言語偏重な見方をしているわけ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,328 言い換えるなら、「心の闇」というのは不合理ですね。完全に光に照らして理性的に説明することはできないような不合理性が、他人を「一応は信じておく」ためにどうしても必要なんでしょう。完全なる信頼を目指してすべてをエビデントに説明させようとすると、人間社会は根本的に崩壊して
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,335 千葉  動機を言語化できなくてはならない、説明できなければ動機ではない。しかしそれこそが、信頼を崩壊させる。だから「心の闇」が大事だということですよね。 國分  大事ですね。心に「闇」を持たないといけない。 千葉  「心の闇」をいかに育むか。それがコミュニケーションの根本でしょ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,395 國分  僕にとって貴族的なものというのはずっとテーマとしてあって、『暇と退屈の倫理学』も一言で言うと、全員で貴族になろうという本だったんですね。楽しみ方を知っていて、暇になっても困らない人間になろう、というのがその根本的主張だった。 千葉  言葉で信じる、言葉で納得するというのは誰の目にも平等に明らかな、エビデントな事態なのではないわけです。信頼や納得にはどうしても偏った判断が働くわけで、その偏りについて煎じ詰めて考えるならば、人における貴族的なものを考えざるをえなく
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,419 どうして現代の若い人たちがこれほど承認をめぐる争いに巻き込まれ、とにかくネット上で「いいね」を押してもらいたくてしょうがないということになっているかと言えば、ピアの目だけになってしまった、規範が空席になってしまったからだと言われますね。それはある程度、当たっていると思います。規範が厳然とあった時代には、規範との距離をどうするかが第一だった。 國分  その規範というのはいろいろ言い換えられると思います。先ほど言った内なる声でもいいし、超越的なものでもいいし。もちろん、精神における貴族的なものもそうでしょう。言葉は必ず他者の言葉である、つまり生まれた後に誰かから強制されたものであるということを考えれば、言葉の力もそれにつながる面を持って
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,433 生きていると「何となく退屈だ」の声はどうしても聞こえてくる。だからこの声を聞かなくて済むように忙しくしようとすると第一形式が発生します。「仕事」がないと耐えられないというワーカホリックな人が経験する退屈ですね。これに対し、第二形式とは最初からパーティーという暇つぶしが行われていて、その中でボンヤリと生じる退屈です。第二形式のポイントはなぜ最初から暇つぶしが行われていたのかということです。これは言うまでもなく、第三形式に対する応答なんですね。僕らは生活していると必ず「何となく退屈だ」の声を聞く。だからパーティーのような楽しみを、暇つぶしとして生活の中にいくつも配置しているわけ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,547 千葉  別個の主体間のコミュニケーションというイメージが強いのは、自分の実存の私的所有が非常に強まっている時代だからだと思います。その時代状況からすれば、國分さんが言われた自他がシンクロしていくような世界観は、いささか「侵襲的」だと思う人も出てくるんじゃないか。現代の資本制下に生きている人たちは、ますます、自分を他人によって変えられたくないし、自分の身体は自分の私的所有物、プロパティ(不動産)だから一切の余計な影響を被りたくない、という価値観になっている感じがします。だから、硬い殻のあいだで信号を飛ばし合い、いかにそのテクニックを洗練させるかということになっている。  僕も教育や創造のプロセスは硬い殻から出て中動態な状態に至ることだと思います。が、現代的な意識はそういうことから距離を取り、私有地に閉じこもるような傾向にあるのではないかと懸念している。それをどうしたらいい
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,588 ただ、繰り返しになるけど、この種のエビデンス主義は、ある意味で民主主義の徹底なんですね。誰にでも理解できる基準で物事を決めるということですから。だから簡単には否定できないのだけれども、何でもかんでも、わかりやすい公正な原理で進めればいいというわけではないでしょ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,602 國分  たとえば人事を決めるときに、「この人はいい」という判断は絶対に大切です。それなしで点数だけで決めていると必ず失敗する。確かにこれを悪用して、自分のための利益誘導を行ってきた輩は数限りなくいたのだろう。しかし、物事の判断基準をそういった悪い底辺に合わせてしまったら、とんでもないことになる。 千葉  そうですね。ちょっとトリッキーな言い方をすると、原理なき判断の再発明が必要だという感じですね。原理なき判断というのは、既得権益的な押しつけでもあったわけですが、それがいったん崩壊した後で、あらためて原理なき判断というものを発明する必要がある。ポスト・デモクラシーの問題として。特異性に反応する、原理なき
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,628 國分  今日は貴族的なものの話などをしましたが、ある意味では僕らはヘーゲル的な人倫みたいなもののことを言っていたのかもしれない。そういうものが持っている力を再評価するというのが課題なのかという気がしています。僕は徳や貴族的なものという言い方しかしなかったのですが、ヘーゲル的な人倫こそが実は社会を変えていくと言ってもいいのかもしれない。  いまの右派のポピュリズム的言説、「ネトウヨ」的言説というのは、人倫に対するガキの反抗のようなものです。それに対し、左派もPC的な言葉狩りのようなことばかりしている。そのどちらにも 与しない人倫を大切にする主張のほうが、最終的に社会に対してインパクトを持つ。これは今日ずっと議論してきた貴族的なものの話にもつながると思い
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,636 礼の概念に新しい息を吹き込む。過去から「礼はこうだった」というのに従わせるのではなく、可塑的なものとしての礼です。礼の発生ですね。礼の発生プロセスのただなかを生きること。それはいかに可能かという問いです。 國分  新たな人倫の発明であり、礼の発明であり……。 千葉  あるいは、貴族的なものの発明でもあるということです。 國分  しかもそれは社会を変革する力に
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,733 ドゥルーズがフーコーに宛てた手紙で欲望と快楽を対立させていますね。欲望というのは何かと何かのあいだにいることです。満たされていない状態と満たされている状態のあいだにいて、まさしく我慢しながら頑張っている状態。それに対し、快楽とは終着点であり、どこか死とも結びついている。フーコーは快楽に関心があるのだろうが、自分は欲望のほうに関心があるというのがあの手紙で言われていたことで、そこには異なる二つの哲学の方向性が示されてい
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,772 これは別に僕のオリジナルな考えではなくて、アレントが『人間の条件』の序論で言っていることです。でも、そういう貴族的なものをブルドーザーのように駆逐するのがいまのメディア環境であり、その相関項として情動的コミュニケーションの全面化があるんだとしたら、政治の観点からも強い懸念をもたざるを得
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,783 ます。情動的なものに力点を置きすぎると、言語の弱体化を加速することになってしまう。だから、左派的ポピュリズムについてもいささか疑問符を持ってい
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,812 千葉  別に「安倍辞めろ」と言ったっていいわけですが、それだけを燃料にしてファナティックになってしまうのはまずいでしょう。 國分  それはもう普通に起こっていることですよね。ただ、政治学者が理論的によしとするのは問題だろうと。 千葉  起こっていることだから、理論や方法ではないですよね。 國分  そう、むしろ現象です。あるいは社会の表情と言ってもいい。社会はいまファナティックな表情をしている。そのとき、どうやって情動と言語の間のエコノミーをうまく作るかを考えるのが学者の役割だと思うんだ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,870 千葉  僕の言い方でいうと、ナンセンスの極みがわかっているから、ナンセンスなものとして完全にバラバラになってしまった言語から、意味形成にどう向かっていくかを問題にしている感じがします。  あるいは逆に言えば、通常の言語が解体されていく途中を問題にしている。文学、特に詩はそこを主戦場にしているんだと思いますよ。 國分  なるほど。「途中」というのはいいキーワードだね。さきほど紹介した大竹さんの『公開性の根源』も結論部分ではベンヤミンを使いながら、無目的性の政治、目的から解放された政治を「遊び」という言葉で主題化してい
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,894 遊びというのは、主体が客体を操作する行為ではなく、主体と客体が関わりながら、どちらが主体でどちらが客体かわからなくなってしまうようなプロセスですね。  遊んでいるときには主体と客体が区別できなくなる。この点に注目すると、遊びという主題は、中動態を通じて、アガンベンが『身体の使用』で論じた「使用」の概念につながります。アガンベンは古代ギリシア語で「使う」を意味するクレースタイという動詞が中動態で活用することにヒントを得て、「使用」と「支配」を区別することを提案しまし
青色のハイライト | 位置: 1,899 支配というのは主体が客体を自らの思うがままにすることですね。能動と受動の対立に基づいた、主語による目的語の支配です。それに対し、使用では能動と受動、主語と目的語、主体と客体という対立が無効になる。というのも、人は何かを使うときには使われる物に自らを合わせないといけないからです。使用においては、使用する者が使用される物に合わせて生成変化しなければならない。たとえば自転車を使う、つまり自転車に乗るためには、自分が〈自転車を使用する者〉に変化しないといけ
青色のハイライト | 位置: 1,947 國分  非常に面白いですね。主権を求める人たちの声がなぜレイシズムに引っ張られてしまうかというと、主体化のモデルが敵に基づいているからだろうと思うんです。 千葉  そうです、そうです。 國分  敵をやっつけることで主体化するというモデルしかないから、主体化への要求が敵を打ち立てるレイシズムに結びついて
青色のハイライト | 位置: 2,004  でも、人間が思考するときには、必ずその素材なり何なりをどこかよそから持ってきている。常に他者依存的に動いている。これはラカンを持ち出すまでもなく、何らかの他者のイメージとか他者の言語を参照しないことには、主体化できないわけですよね。にもかかわらず、まるで自分が自分一人で存在しているような勘違いをしている人たちが多数いるのが現在の状況です。  われわれが「権威主義なき権威」と言うことで何を呼び起こそうとしているかというと、われわれは常に何か、他なるものを参照してきているんだということ。根本はこれだと思います。  そのうえで、われわれ人文学者は、そのことを「歴史性」という言葉で言っている。常に何かのテクストを参照して考える。それを絶対視するわけではないけれど、さしあたり、あるテクストに依拠して語るということをやっているわけですよ。  僕が『勉強の哲学』で広めようとしたのも、自分は他者によっかかっているということです。それはある種の謙虚さを導入するということです
青色のハイライト | 位置: 2,033 ない。あらかじめ存在している主体が何かを使うのではなくて、使用の中で主体化が行われるという哲学が生まれたかもしれ
青色のハイライト | 位置: 2,043  グローバル資本主義に対するバックラッシュとして生じている、レイシズムとセットになったナショナリズムも、自分は自分なんだということをなんとかして言おうとしている症状だと思うん
青色のハイライト | 位置: 2,151 問うことは大事だけど、問うこと以前に何があるのかを考えないといけないという話をしていて。これなんて外側を思考するわかりやすい例だと思ったん
青色のハイライト | 位置: 2,179 それは組織論にも言えることで、たとえばカリスマ的な経営者に属人的に依存しているような組織はダメで、そういう人がいなくなっても回るシステムを作ることが優先されます。でも、全面的にその方向に行くのは問題だと思うんです。魅力がない人の組織なんてろくなもんじゃないでしょう。次の天才を見つけてくることはやはり大事なんです
青色のハイライト | 位置: 2,213  今日の議論で言えば、いまはインピュタビリティが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から湧き起こってくる余裕がないという状態ではないか。レスポンシビリティはまさに中動態的なもので、「俺が悪かった」とか、「俺がこれをなんとかしなきゃ」とか、ある状況にレスポンドしようという気持ちですね。  ところがレスポンスを待つ雰囲気がいまの社会にはない。とにかく誰かが俺にインピュートしてくるのではないか、俺のせいにしてくるかもしれないということばかり考えているから、責任回避が過剰になる。  千葉君の話と結びつければ、日常生活でレスポンシビリティを待つことができていれば、インピュタビリティが過剰になったりしないと言えるのではないか。さらに言えば、レスポンシビリティは法外なものと関わっている。自分の気持ちだ
青色のハイライト | 位置: 2,227 ポイントは時間にあって、ジャスティスのほうは時間がかかる。いまはむしろコレクトネスばかりで、それは瞬時に判断できる。判断の物差しがあるから。社会がそういう瞬時的なコレクトネスによって支配されているから、時間がかかるジャスティスやレスポンシビリティが入り込む余地がなくなってきている感じがし
青色のハイライト | 位置: 2,239 て、不可入性の原理で話をすっきりさせることが民主化という話になっている。それがエビデンス主義のポリティカルな対応物だと思うん
青色のハイライト | 位置: 2,279 情報や数字は認識は与えるけれど、欲望を作り出すには言葉が必要なのではないか。政治というのは基本的に言葉でやるものだというハンナ・アレントの主張も、情報や数字ではなくて言葉でやるのだというふうに理解しなければならない。人を動かすのは言葉なのだということ
青色のハイライト | 位置: 2,409 多元論である。こうした哲学観を批判し、議論を通して何か普遍的な「世界のOS」みたいなものを追究するのが哲学だ、というような、科学的と言えるだろう哲学観もあるのだとは思うが、少なくとも僕はそういうタイプではない。世界の本質をいろんな角度から捉える。そのそれぞれが面白い。それでいいじゃないかと思うし、それはすこぶる倫理的なことで