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感じて、ゆるす仏教

感じたこと

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内容

  • 現代の多種多様な仏教思想のそれぞれが、ゴータマ・ブッダの仏教とどのような距離感を有しており、それをどのようにアップデートして語り直しているのかということを、特に仏教と実践的な形で関わりたいと志している人達に向けて、忌憚なく語り、また互いの意見も率直に交換できるような文脈(つまり、相手の立場を貶めて、自身の立場の高さを主張するための論争ではなく、それぞれにとって正しく有益である仏教の思想や実践は、いかなるものであるのかを、互いに明確にしていくための対話がオープンにできるような文脈)を、なんとか設定できないものだろうかと、切に希望しているわけです。
  • このmindfulnessという言葉によって仏教の瞑想を理解しようとする英語圏の人たちは、そのように「マインドを行き渡らせること」、たとえば、私達が無意識でやってしまっているような動作も含めて、全てをマインドの統制下に置くというようなヴィジョンによって、座禅もウィパッサナーも実践してしまいがちになると思うんですよ。
  • でないと、意識的な自分が、意識の対象に向かって、意識的に注意を向け、それができたかできないかを意識で判断する、という意識の内側に閉じた営みに終始してしまいます。それを有心のマインドフルネスというわけです。しかし、その有心から生まれてくる人生上の諸問題を、同じ有心のマインドフルネスで解決しようというのは、あまり効果がないのではないか。アインシュタインが言ったそうですが、「いかなる問題も、それを作り出したのと同じ意識によっては解決できない」のだとしたら、どうでしょうか?解決法が既に問題の一部になっていることになりませんかね。
  • 意識主導から仏主導、このシフトについては、聞と思のレベルでの理解を深めてもらうためにいろんな言い方をしているんですけど、たとえば強為から云為へとか、テクネー(ギリシア語。自然が家に秘めているものを人間が狡知や挑発を駆使して外に取り出し利用する営み)からポイエーシス(ギリシア語。自然が家に秘めているものを一方的に人間に与え、人間がそれを受け取って生活を豊かにしていく営み)へとか、とにかくそういうシフト、切り替えを今ここで自覚的に行うことができるようにと意図的に働きかけているのが僕のやり方
  • ただ、その狭間、あわいのところであせって簡単にけりをつけず、踏みとどまって苦労するということが、やあ理事用になるんだと思います。それをはっきりどちらかに片寄せて、簡単にけりをつけてしまうと、非常に大事な「求めたら得られないが、求めなかったら何も変わらない。さあ、お前はどうする?」といういわば基本的公案を回避してしまうことになります。
  • 「よりよい状態を理想として掲げて、そこに自分を合わせていく」ための方法として実践したならば、それは既に瞑想や座禅の本義からは離れてしまうという機微がある。
  • 座禅はヒトを熟成させる触媒、人生の醸造反応過程をスピードアップする
  • 虚構を虚構として指摘しつつ、それが私たちの現実に作用して、有用性を発揮することは否定しない

引用メモ