🖋

スピノザ 読む人の肖像

感じたこと

  • aa
  • aa

内容

  • aa
  • aa

引用メモ

哲学者とはいかなる人物であろうか。哲学者とは、部屋に閉じこもって真理の追究に勤しむ だけの世間知らずではない。真理の追究が権力による恐るべき迫害をひき起こすこと、人々は 必ずしも真理が追究されるのを望んでいないこと、そうしたことを十分に承知した上で真理の追究に取り組むのが哲学者である。いつであろうと我々は、プラトンが経験した哲学の運命を 思い起こさねばならない。
その姿勢は生活においても貫かれていた。スピノザは決して富によって誘惑されることはな かったが、常に身ぎれいで、外出時にはいつも整った服装をしていた。 身なりを気にしないこ とは学問に熱中している証拠でもなんでもない。それどころか世間に対する無関心を装い、そ のことを周囲に強く主張する自己顕示欲の現れにすぎない。
すなわち、互いに独立した因果系列の出会いとして捉えている [Courmot 1912, p.41]。 この意味での偶然が可能であるためには、その間で全く連絡の生じえない複数の 因果系列が存在できなくてはならない。 真空の概念はそれを可能にする。 あるものとあるもの 真空で隔たれているとは、定義上、その間に何らの連絡関係もないことを意味するから
だが確かに、かつて浅田彰がゆたかに記したように、 スピノザの哲学はレンプラントの闇の絵画よりも、フェルメールの光の絵画に近い。 人間の の部分から秩序を生成させようとしたホップの哲学がレンブラントに対応するとすれば、 ス ピノザの哲学の中には、レンズを通じて光そのものを布に定着させようとしたフェルメール 絵画のように、「光がある。 /光があって闇はない」「浅田 一九九二、一五四頁]。
だが、「知性改善論」には「方法序説」 と決定的に異なる点がある。それはスピノザが決意 探究はすぐに失敗してしまうという点である。 スピノザは「無限なるものに対する 愛をするために、所有欲・官能・名誉を去ることを決意するが、結局はこう告白す るに至る。 これらの歌がその本性においては不確実であることを自分は悟った。だが、「以上 のことははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかしだからといって所有歌 及び名から全く抜けきるというわけにはゆかなかった」(第一〇)。このような失敗から書 き起こされた哲学書が他にあるだろうか。 「知性改善論」は主著「エチカ」に勝るとも劣らぬ 魅力をもった著作であると言わねばならない。
いかなる知ならば確実であるのか、いかなる観念ならば真理と言えるの か、それをあらかじめ伝えることは絶対にできない。これが意味しているのは、他者に伝達可 能であり、他者と共有できる真理の基準は存在しないということだ。真理であること、確実で あることを人間が知るのは、ただ、その人が自ら、真の認識、確実な観念を得た時だけである。 言い換えれば、自分が何かを知っている時、隣にいる人に、「自分は本当にこれを知ってい るのか」と尋ねても答えを得ることはできないし、またその人に、「自分はそれを確実に知っ 「ているのだ」と証明もできないということである。 真理を公共的に共有することはできない。 真理を公共的に示すこともできない。真理とは、自分でそれを獲得した時に、真理自身によっ それが真理であることを告げられる、そのようなものでしかありえない。
スピノザは円の定義を例に挙げている。 スピノザの定義論に従うならば、円は中心から円周 へ引かれた線が等しい図形ではなく、一方の端が固定されていて他方の端が運動する線分に よって描かれた図形と定義されなければならない。スピノザの考える定義が、定義される対象 の発生を描くものになっていることに注意しよう。それは線分の運動という円の発生の原因を 含んでいる。「事物の内的本質」を明らかにする定義とは、すなわち、定義される対象の原因 を含み込むことで、その対象の発生そのものを描き出す定義のことである。
心の中に出発点などあり得るだろうか。 心には過去があり、その周囲には現 実があるにもかかわらず、過去にも周囲の現実にも全く影響されない何かがいかなる原因も 持たずに心の中に現れるそのようなことがあり得るだろうか。 もちろんあり得ない。 我々は確かに、心の中に意志のようなものがあって自由に行為を決定しているように感じる。 だから、その際に感じられているものを「自由意志」と呼ぶ。 だが、そのように感じられるの は、我々が意欲や衝動や行動はしても、それらを引き起こした原因のことは知らないから だというのがスピノザの述べていることである。
メカニズムを説明するために、「エチカ」は一つの概念を導入している。そ れが目的の概念である。 先に言及した第一部付録では、人間は原因について無知であり自らの 衝動だけを意識すると指摘された後、その指摘がさらに展開され、「目的原因 causa finalis」 な る概念が批判される。 アリストテレスに起源をもつこの概念をここで詳しく論じることはでき ないが、スピノザの言わんとするところは明快だ。目的とは、無数の原因によってもたらされ 衝動ないし行為が意識されることで生じる一つの結果である。ところが、結果であるはずの 目的が、衝動や行為の原因と取り違えられてしまうというのである。