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会社という迷宮 経営者の眠れぬ夜のために

感じたこと

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内容

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引用メモ

「わかりやすく」「具体的で」「役に立つ」のが世間的に信じられているコンサルタント像なのかもしれないが、私が自身の経験を通して辿り着いたこの仕事の実質は、そうした単純さとは無縁で、むしろ真逆のものだった。 コンサルティングとは、クライアントとの対話で
青色のハイライト | 位置: 20 人は、自分で「わかる」ことによってしか、本当の意味で「わかる」ことができない。ましてや、行動に移すことなどできない。逆に「わかれ」ば、ほとんどの場合行動できる。答えのない難題に直面したクライアントに対してコンサルタントができることは、自分もしくは自社がどう行動すべきかを、自分で「わかる」過程を手助けすることでしか
青色のハイライト | 位置: 24 もとよりそれは、そのクライアント固有の、どこまで行っても明快な答えなどない難題なのである。コンサルタントの側も、その答えなど、最初からわかっているわけはない。コンサルティングは、完全な答えなど望むべくもない不確実な環境の中で、それでも「どうすることが最も善いことなのか」を、クライアントとコンサルタントが一緒になってなんとか探り当てる(「わかる」) ための対話なので
青色のハイライト | 位置: 28 コンサルタントが追い求める「わかりやすさ」とは、こうして固有の難題の闇の中にいる目の前のクライアントが、「確かなものがない中でどう考え行動するのがよいか」を自ら「わかる」ための「わかりやすさ」である。それは誰にでもわかる「わかりやすさ」とはまったく異質のものであり、あえて言えば、それはわかる人にしかわからない「わかりやすさ」だといえよ
青色のハイライト | 位置: 57 クライアントとコンサルタントの真剣勝負の対話では、最終的にはいつもそのバックボーンとなる「会社」観や「経営」観のせめぎ合いだった。それは見ている世界の懐の広さの勝負といってもよい。こちらに見えている世界が狭ければ、論理的にはどれほど正しいことを言っていても、それはコンサルタントの「机上の空論」なのだった。逆にもし、クライアントには見えていない次元の世界を、コンサルタントが垣間見ることができていれば、クライアントはそれに鋭敏に感応し
青色のハイライト | 位置: 69 「会社」観や「経営」観というものが酷く陳腐に矮小化されてしまいつつある現代においては、経営者自身の脳内において、自ら自分のあり方を委縮させているように、私には見えて仕方がない。しからば、私がクライアントから学ばせていただいてきた「会社」という存在の人間的・社会的な重さと肥沃な可能性、「経営」の地に足が着いた奥行きの深さを伝えることは、現代そしてこれからの経営者の方々にとって、意味なきことではないだろう。悩みと迷いに沈んだとき、決断をする自分の姿勢を正すヒントを、たとえひと言でも本書の中で拾っていただけることがあれば幸いに
青色のハイライト | 位置: 91 経営コンサルタントは、どこか胡散臭い存在である。 それを頼る経営者も多いかもしれないが、おそらくはそれを大きく上回る数の経営者が、怪しく、信用ならぬ人種だと疑いの目を向けていると思われる。 普通に考えれば、それが「常識」というもので
青色のハイライト | 位置: 141 「会社」が自らの競争力を客観的に知り、どのようにすれば競争相手に勝ち、生き残れるかを戦略的に考えることは、人間が健康診断を受けて生活習慣を改めたり、治療をしたり、あるいは学力試験を受けて自らの進路を決めたりするのと同様、自然なことである。また、コンサルタントがスポーツ・チームのコーチのように、チームがどのようにすれば実力を上げ、勝ちに近づけるかをアドバイスすることも、その限りにおいては、まったく自然なことである。 ところが、コンサルタントは、無造作に次なる一歩を踏み出してしまう。 「競争に勝てなければ死ぬ、勝てなければやる意味もない」という存在否定で
青色のハイライト | 位置: 152 こうしてもたらされた倒錯は、実に恐るべきものだ。 「会社」は、自らのビッグバンから営々とつながる命脈を断たれ、なぜその「会社」が誕生したか、何を追い求めてその歴史を積み重ねてきたのか……つまり、何を成し遂げるために生まれてきたかということよりも、なんでもよいから「勝てることをやる」ことこそ第一と考えなくてはならなくなってしまったからで
青色のハイライト | 位置: 194 「経営者」の掌中からは、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように大切な何かが失われていくことになった。そしてそれが、まさに「経営」そのものであったのではないかと思われてならないので
青色のハイライト | 位置: 202 そしてバブルの崩壊から「失われた数十年」を経た現在、日本の「経営」や「経営者」はますます、世間からダメを押される事態に至っている。残念なことに、そのダメなことには、異論・反論の余地がない。グローバルな「競争の世界観」に晒されれば晒されるほど、筋肉が硬直し、貝のように固く閉じ 籠る様子をいやというほど見せられてきた。 厳しい「競争」状況に置かれれば置かれるほど、縮こまって「守り」を固める。 新事業の創出やイノベーションといいながら、隣は何をしているのかがまずは気になる。 成果を問われるようになれば、視野は狭まり、目先のことだけに追われ始める。 透明な企業統治を求められれば、実質よりも手続きに拘り、外形的対応に終始する。 リスクを避けて皆で決める、つまり誰も何も決めない傾向ばかりがますます
青色のハイライト | 位置: 215 こうした状況を 目の当たりにすると、精神医学者の木村 敏 氏が、客観的現実としてのrealityと、主体者の現実感としてのactualityとは、人が非常事態に置かれて自己を喪失しかけたときにしばしば乖離すると述べていたことを想起せずにはいられない。前者が自らが目の当たりにし認知した現実だとすれば、後者はそれを主体として身を以て感じる「実質感」「手触り感」のようなものである。それは決して目の前で起こっていることを認知できない、理解できない、ということではない。認知はしていても、そうした現実に置かれた自分が、何か宙に浮いているような感覚といえばよいだろうか。新たな環境に直面して 顕れる、日本の「会社」の反射的ともいえる硬直反応を見ると、まさにその両者が乖離しているように
青色のハイライト | 位置: 238 た。「形から入る」というのならまだマシだが、「形だけ入る」ということになった。それでは、せっかくの取り組みも逆効果にさえなる。内発的な「行き先」を欠いたまま、もしくは手放したまま、時代に課された外形的条件を満たすことが「会社」の変革であって、その枠内で求められる実績を上げるのが自らの仕事であると思い込まされた「経営者」は実に多いように思われる。そしてこのプロセスでも、経営コンサルタントは「あるべき論」を説く伝道師のように振舞った。その教えに従い「形だけ入る」ことの副作用によって、さらに「会社」が自信を失い混迷の度合いを深めた結果、逆にコンサルタントの仕事はますます増えることとなり、種族として一層繁栄を謳歌するようになった。何も知らない前途有望な若い人たちまでがこれを見て、自ら事業に携わるよりも、競ってこのコンサル族になりたがる世の中というのは、なんとも異様な事態で
青色のハイライト | 位置: 251 利害を束ねるとは、単に平均値を取ったり、最大公約数を見出すというような利害調整のことではない。その意味では、民主主義的な考え方で、文字通り合議制や多数決で経営ができるなどというのは幻想に過ぎない。国家の政治ならばそこで主権の奪い合いということになるのだろうが、国家と異なり「会社」の場合には、社員にも株主にも取引先にも参入・退出の自由がある。してみれば、利害関係者が自由意思で凝集できるような求心力ある太く力強い柱を建てることこそ、利害を束ねるための唯一の方法なので
青色のハイライト | 位置: 259 にもかかわらず、その「経営者」までもが「会社」の利害関係者の一人、つまりは束の中の一本の 藁 に過ぎなくなり、ただ「会社」との間で「貢献度」を取り引きするだけの人間と化してしまっているのだとしたら、それは何を意味するだろう。人間的営為としての「会社」の芯にはぽっかりと穴が空き、空洞になってしまうのは実に自明のことで
青色のハイライト | 位置: 274 「会社」と「経営者」が切り裂かれるプロセスは、まさにこのようにして進行してきた。そもそも停滞と混迷の時代に直面した「会社」を蘇生しようという触れ込みで始めた手術のはずが、気がつけば「会社」はこうして血を抜かれ、骨抜きにされただけになっているのである。その芯には人間がいなくなり、空洞だけが残っ
青色のハイライト | 位置: 277 改めて原点に立ち返れば、「会社」とは競争をするために生まれてきたものではない。せいぜい言うとしても、込められた夢や志を体現するために、競争しなければならなくなった、というだけの話なのである。その逆ではない。たとえ、日々どれだけ競争に翻弄され、敗北すれば死の危険に晒されている現実があったとしても、それはめざすものがあるからである。それを、気づかぬうちにそっと本末転倒させてしまったのは、まさに悪魔の所業であった。 「経営者」はもう一度、悪魔から「経営」をその手に取り戻さなければならないの
青色のハイライト | 位置: 286 人間的営為である「会社」が、その社会、その時代において生み出そうとする独自の「価値」を提示し、体現すること……端的に言えば、何が「価値」であるのか、を決めるのが「経営者」の仕事なのであって、他人に決められた「価値」を追求するのが仕事ではないので
青色のハイライト | 位置: 294 そして何より「会社」とは、社会に対して何かこれまでにない新しい「価値」を創り出すことを企図して生まれたものであり、成立の由来からして社会的な存在であった。その意味で「会社」とは、広く関与する人々の「価値」の束なのである。「経営者」はいつでもそれらの異なる「価値」軸を束ね、その全体に目配りし、何が善いことなのかを統合的に肌感覚を以て価値判断し、実践するという創造的営為の主体者であるはずだっ
青色のハイライト | 位置: 310 巷のコンサルタントがするような、「競争的世界観」の観点からの診断が明らかにする「会社」像は、「競争力があるか」「収益力があるか」といった一定の眼鏡で標準化された診断であり、設定された共通の尺度での横一列の成績比較に過ぎない。資本市場で投資家から突きつけられることの多くも、まさに同じである。そこには当然のことながら、個別的・個性的な存在としての「会社」は、映し出されない。人の健康診断同様、むしろ、そうした要素は排除されなければならない。診断とはそういうものだから
青色のハイライト | 位置: 315 診断を受け取る側が「常識的感覚common sense」を持ち合わせておらず、何が重要なことであるか、何を大事にすべきなのか、何が自身の「価値」であるのかが揺らいでいては、診断をどう受け取ればよいかの判断もおぼつかない。結局、診断の尺度だけに従って、診断評価を上げることだけが、唯一最大の行動指針となり、それに血道を上げるようになってしまう。あたかも「学校でよい成績を取り、進学校から有名大学に進めば、善い人生が開ける」と信じて疑わない子どもとその親のように。あるいは「中身はなんでもいいが、有名になりたい、社会にインパクトを与えたい」と正気かどうかわからないことを言う若者のように。もしくは「健康は命より大事」と冗談のようなことを本気で考えている大人たちのよう
青色のハイライト | 位置: 342 巷間の経営コンサルタントという種族は、結果的にその悪魔の手先のような役割を演じることとなり、それによって繁殖してきた。表に現れる彼らの論理展開は、多くの場合、シンプルでわかりやすく明快であるが、その論理は医者の多くと同様、人生を生きる論理ではなく、命を延ばすための論理で
青色のハイライト | 位置: 348 合理性とは、常に目的に対する合理性、つまり目的合理性を意味するはずだが、彼らはその目的のほうに対しては極めて無頓着に、自分が想定する目的の絶対的普遍性を信じて疑うことがないのである。そして、その思考回路が転移してしまった「経営者」の脳内では、「自らが志と信念を以て取り組む事業を、儲かるようにすること」ではなく、「なんでもよいので儲かる事業を選んできて取り組むこと」こそが経営なのだと思い込むことになり、それに疑問を持つことさえ、今や理解の範疇外となってしまったようで
青色のハイライト | 位置: 401 実際、多くの企業が「戦略」と名づけて公表しているものは、戦いの前に対外発表しているというその行為自体において、「戦略」とは呼べる代物ではありませんと自ら告白しているようなものである。その中を覗いてみるとすぐにわかることであるが、そこで語られていることのほとんどすべては、わが社はこんなことをやりたいという希望、こんなことをめざしていますという意向表明、このくらいの目標値には届くだろうという希望的観測に過ぎ
青色のハイライト | 位置: 420 あるいは、日頃から「戦略」がないとの批判を浴びている経営者は、いったい何がないといわれていることになるのだろう
青色のハイライト | 位置: 443 事後的に分析し説明される「戦略」と、現実の時間の中で事前に「構想」される「戦略」との根本的な違いは、前者は広く共有されるべくわかりやすく論理立てて説明されるものであるのに対して、後者は未知で複雑な可能性を持つ将来に向けた仮説であって本源的にわかりにくいものであるという、当たり前のことである。しかし、この当たり前についての認識の溝は、思いの外、
青色のハイライト | 位置: 453 そう、極論すれば「戦略」とは、そもそも説明できないものなのである。説明できないからこそ(わかりにくいからこそ)「戦略」であるといってもよい。わかりやすい「戦略」などというのは、言語矛盾なので
青色のハイライト | 位置: 458 それは極論過ぎると言われるかもしれないが、しかし、説明しようとすることが、もしくは説明できるようにしようとすることが、いかに思考を眼前のことに限定することにつながるか、いかに「戦略」を短期的で確実な世界のものに押し込めてしまうことになるかを想起してみれば、その意味するところが理解できるであろう。今や発表される「戦略」と称されるもののほとんどが、眼前の情報データの分析、足下の課題の整理、明日の行動計画など、疑いを差し挟みようのない単純な事象・項目の列挙に堕してしまった。しかし、説明できるということは、わざわざ説明を要しない(自明) ということと、ほぼ同義なのである。経営の説明責任などという概念の、誤った理解や拡大解釈が、どれほど「戦略」を卑小なものに貶めてしまっていることであろ
青色のハイライト | 位置: 477 「戦略」は深みを覗いた人間が、そこに見出した何かに挑もうとする強靭な「意志」と「信念」の産物である。「意志」のないところに「戦略」はなく、その人間の「信念」に深さがなければ、そこに優れた「戦略」は生まれ
青色のハイライト | 位置: 516 新しい発見と出会いは、そこに新しい経済価値を生み出す。「企業の目的は、顧客の創造(“Create a customer”) である」というP・F・ドラッカーの言葉を借りるならば、企業活動のまさに原点とでもいうべきものの舞台が、そこにはあった。企業側から見れば、まだ知らぬ顧客と出会い、その求めるところを知り、それに応えることで、そこにまだなかった新しい取り引きを創り出すという創造の場であるということだ。それが「いちば」という機構が本来、果たしてきた役割で
青色のハイライト | 位置: 547 「市場」的思考の悪癖は、何よりもまず、すべてを単一化・同一化するところからスタートし、そこから思考を始めることであるが、一方でそれと引き換えに脳裏からさっぱり捨象されてしまったのが、そもそも「いちば」にあった豊饒な多様さや複雑さだったといえよう。「いちば」とは、未知のものに出合う豊饒な可能性の森ともいうべき場所であった。経営者にとっての新しい発想や思考の泉は、むしろこうして捨象された「いちば」の豊饒な多様さや複雑さのほうにこそ、実は多く眠っているに違いないであろ
青色のハイライト | 位置: 551 そう、「市場」とは本来、そこに閉じ籠るものでなくて、実在の「いちば」がそうであるように、縦横に歩き回るもの、もしくは渉猟する場だったのである。それは、言葉の正しい意味での「マーケティング」といってもよかろう。檻の中での競争の一々を考えるのは分析家や実務家の仕事であって、極端に言えば、経営スタッフ(か、お雇いコンサルタント) に任せておけばよいのである。よい経営者とはたいがい、自らの五感をフル稼働させて「市場」を歩き回っているもので
青色のハイライト | 位置: 570 順序が逆なのである。「市場」があるから事業をするのではない。事業機会に対する独自の洞察が、無辺の「いちば」の中から新たに自社の「市場」を括り出すのである。 すでにある「市場」に後発参入するように見える場合でも、あるいは自社の既存事業を刷新する場合でも、新商品開発の場合であっても、その本質に変わりはない。それが成功するということは常に、そこに新しい「市場」を「再定義」し、創り出したということで
青色のハイライト | 位置: 592 「市場」とは、本来、その会社の独創なのである。 その独自の「市場」観が、その会社がその会社たる所以で
青色のハイライト | 位置: 597 が、「価値」は出すものではない。認められるものだ。「価値」という言葉は、その意味とは裏腹に、本当に軽くなってしまっ
青色のハイライト | 位置: 636 繰り返すが「価値」とは本来、主観的なものである。客観的にできるのは「計測」だけだ。「価値」が「価格」にすり替えられたのと同じように、誰かによって決められた尺度に拠る客観的な「計測」値が、「客観的で絶対的な価値の評価」なる謎のものに、巧みにすり替えられてしまっているのだ。企業経営も偏差値教育の延長のようになってしまっ
青色のハイライト | 位置: 640 この錯覚は、経営者にとって深刻で重大な意味を持つ。 経営はただ「計測」される対象となり、その尺度たる「価値」判断のモノサシは外部から与えられるものとなったことを意味するからだ。それは、主観を手放した、ということに他ならない。「自らが考える善い会社、善い経営」という「価値観」を宿す主観を手放して、「他者に示されたよい会社の尺度」に従ってひたすらよい点数を取るべく努力し、その結果を「計測」されて通信簿をつけられる存在になり下がった。もしそれを以てコーポレート・ガバナンスと称するならば、それはなんと茶番めいた話だろうか。そもそも経営者はただの使用人では
青色のハイライト | 位置: 670 こうして今や、独自の「価値観」を感じさせる、骨のある会社は稀少になった。 摩擦なく理解を得ようとすれば、誰もが疑わない既定の「価値観」にすり寄るのが楽に違いない。極力、主観的「価値」は排して誰もが首肯する「価値」に従うということは、現代のように「説明責任」などという言葉が濫用される時代にあっては、経営者にとって実に好都合でもあった。世間の「価値」尺度に従っていれば、自分(自社) らしくある理由をあえて説明する必要もなく、「市場」に求められるがまま、あとは達成責任だけを背負ってただひたすら会社を駆り立てればよい。そして、達成すれば、褒め
青色のハイライト | 位置: 676 しかし会社とは、あるいは事業とは、そもそも、世の中に対して自分の信じる新しい「価値」自体を問うものであるのではなかったか……。事業とは未来に向けた創造の挑戦であり、革新の試みであるのだ。儲かるのはその結果である。世間の「価値」尺度が求めるまま「結果として儲かることをやろう」という発想は、創造や革新という企業活動の歴史的時間の時計の針を、仮想的に巻き戻してみるような倒錯と言わねばならない。そうした発想に自ら陥ることで、企業家として新しい「価値」を提示する主観(主体) であること、すなわち自分が自分である権利を、自分の手からそっと剥奪されていることに、気づくべきなの
青色のハイライト | 位置: 693 世に問うということは、自らの考える「価値」を提示することを通じて、逆に外部の、あるいは世間の側の「価値」を問い直すということを意味する。会社は、一列に並ばされて受け身で世間から成績評価されるだけの矮小な存在なのではない。社会的存在として、自ら提示する独自の「価値」を世間に問いかけることで、賛同者を主体的に募る存在なので
青色のハイライト | 位置: 707 その意味で、経営者の仕事は、なにも新奇な「価値」をひねり出すことではなく、むしろ自らが正統と考える「価値」のアンカーたることだといってもよいであろう。それが、会社を主観なき漂流から守る。 ビジョンのない経営者ほど、他者から決められた数値基準ばかりを頼りに「企業価値」などということを言っているものである。しかしそれだけでは、めざす行き先も持たず、潮の流れと風向きを見るに敏なだけの、雇われ船長の如きものである。「風潮の向かうところが、われわれの行き先」では、経営になるはずも
青色のハイライト | 位置: 734 会社を事後的に論評する分析家は、結果の「利益」額を見て、これを増やすために「売上」をもっと伸ばせないか、「費用」をもっと削れないか……という思考を進めていくかもしれない。しかし実際の事業の成り立ちが「利益」から始まることはない。まずは「売上」が立たないことには話が始まらないというのは、当たり前の話である。その会社が世の中に提供し貢献する「価値」とは、まずはその会社の製品・サービスであり、それを創り出そうとする意志が会社の原点であり、それが認められること、つまり「売上」が立つことが会社の第一義的「価値」であって、その事業の存在意義である。
青色のハイライト | 位置: 741 いくら売れても採算を無視しては慈善事業になる、と揶揄する言い方がよくされるが、儲かるならなんでもやる、というのではその慈善事業以下である。「売上」とはまず、会社が志す「価値」の代名詞なので
青色のハイライト | 位置: 769 問題になるのは、自ら定めた目標との距離ではなく、競争相手との相対的な距離である。もし、会社が自ら航海の行き先と定める独自の「価値」を持たないならば、航海の羅針盤は競争相手との相対的位置関係だけになる。その位置関係だけが、「利益」の有無もしくは多寡を決定づける要因として、経営が評価を受けるための、唯一最大の関心事とならざるを得
青色のハイライト | 位置: 799 「利益」は結果なのである。 経営者は、思うように結果が出ないことに右往左往する前に、自社がただの利益創出装置になっていないか、正確には自分自身がそういう見方をして自縄自縛に陥っていないか、つまり自社固有の「価値」を創り出すための自身の意志と構想が空虚になっていないかを自問しなければならない。それをすっ飛ばしてしまっては、一時的「利得」は得られても、「利益」がもたらされることはない。もちろん、その意志と構想が完全無欠であることなどあり得ない。しかし、それを確かなものとしようとする日々の格闘には、信念を持って取り組まなければならない。その格闘こそが経営者の仕事だからで
青色のハイライト | 位置: 805 「帳尻」としての「利益」数値から逆算・調整して装置を運転するだけの経営が、長い目で見て成功した例はないし、それ以前に、そのような会社は社会的にその存在意義も
青色のハイライト | 位置: 875 「成長」というのは、会社という有機体の生涯にとってみれば、人生において何度か訪れるであろう「季節」なので
青色のハイライト | 位置: 901 それを最も知り得るのは、経営者自身に他ならないであろう。もちろん、その経営者自身の目が曇っていたり、偏ったり歪んでいてはいけないが、かといってそれは、他所から与えられるものではあり得ない。特定の立場を超えて、すべての時間軸を通覧して判断できる立場の存在は、経営者自身以外にないからで
青色のハイライト | 位置: 911 胸にSDGsバッジをつけながら、従来となんの変哲もない「成長」戦略の説明をする光景を目の当たりにすると、こうした時代における自社の真の「成長」ということに対して、本当に見識と発想の転換がなされているのか、懐疑的にならざるを得
青色のハイライト | 位置: 958 逆の言い方をすれば、「その会社がやるべき理由のないことは、やらない」というのが「変わる」ときの原理原則で、それが「貫く」ということの意味である。それは「不易流行」という観念にも通ずるのかもしれ
青色のハイライト | 位置: 974 「人間の業務には盛衰が常とはいうけれど、その盛衰を生じさせる原因は、事物に正しい道理によって対処するか、それともこれに反するかの違いにある。したがって一人で事業を独裁する場合は、誤りを犯して正当を失っても、他からこれを批判したり正したりすることができない。このために危害が生じるのである。同志が会社を結成し、互いに助け合い互いに是正し合い、これによって正しい道理から外れないよう努めれば、自ら転覆する患いを防ぐことができる。今、同志数人とはかって元金を出し、あるいはその労働を提供して一商店を開き、「丸屋商社」と名づける。その元金を出した人を「元金社中」(株主) と名づけ、その労働を提供する 人を「働社中」(社員) と名づける。」(明治二年一月「丸屋商社之記」〈『丸善百年史』所収の現代語訳、一部筆者
青色のハイライト | 位置: 1,119 ところが、人の場合とは異なり、「会社」の場合には過去の歴史なんぞどうあれ関係なく、とにかく現在、どこに花園があるか、その果実は美味しいか、敵は誰か、どこにいるか、その敵を出し抜けるか……だけが唯一最大の関心事であるとして、過去の「記憶」などというものは済んだ話として片付けることに、疑問を差し挟むこともなくなってしまったのが現代である。「記憶」を喪失して何が悪いのだ、というのである。経営の意思決定とは、現在の事実だけに基づいて科学的・客観的に判断するものであるという思い込みの、無自覚で野放図な敷衍の行き着いた果てだといえよう。現在の視点からは、過去の歴史など、正しい思考の足枷ともなり得るので、意識的に断ち切るべきものとさえ、疑いなく考えるに至ってしまったので
青色のハイライト | 位置: 1,171 歴史を通して刻まれた「会社」の「記憶」の地層とは、おのずから、その「会社」固有の「記憶」であって、他の誰のものでもない唯一無二なものであり、その「会社」をその「会社」たらしめているものである。「会社」が続いていく限り、それは経営者や社員という自然人の時間軸を超えて、世代間で引き継がれてきたし、またこれからも引き継がれていく「記憶」である。それはもはや、特定の個人の記憶ではない。経営者は、その「記憶」を預かり、そして受け渡していく担い手でなければならないということで
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,177 伝統とは 灯 を守ることであって、灰を崇拝することでは
青色のハイライト | 位置: 1,191 二十一世紀の経済と企業活動がどのようなものに変質していくのか、それはまだ誰にもわからない。しかし、最初の二十年が一つはっきりさせたことは、「善いことをやっていれば、それは結果に表れるはずである」という常識的命題が、「結果を出せていることが、善いことである」というとんでもない命題へと転倒・倒錯してしまったということで
青色のハイライト | 位置: 1,214 「会社」は単に経済的存在ではなく、社会的存在なので
青色のハイライト | 位置: 1,286 「日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存し得る可能性をもつのである。つまり、矛盾し対立するもののいずれかが、中心部を占めるときは、確かにその片方は場所を失い抹殺されることになろう。しかし、あくまで中心に空を保つとき、両者は適当な位置においてバランスを得て共存することになるので
青色のハイライト | 位置: 1,312 言い換えれば、「会社」はその中心にあるアイデンティティとしての「空」と、それをめぐって相互に牽制し合い、「空」の分身たる地位を奪い合ってきた人間という、二層の「統治」構造によって成り立ってきたと考えることができるだろう。その二層の構造においては、トップに立った人間固有の個人的な資質と思念が、直接的に組織を支配する中心となるわけではない。トップに立つ人は、その中心に「仕えている」のだといって
青色のハイライト | 位置: 1,326 ところが巷間の「企業統治」論とは、あたかも騎手が馬を制御するかの如く、「会社」が思い通りに走るように、あるいは思わぬ方向に行かぬように、外部から制御することを、専ら念頭に置いて語られているのである。そこで想定されていることは、内部的な「統治」のあり方の話ではなく、文字通り外部からの「制御」もしくは「統御」であるといったほうが、本来なら正確である。にもかかわらず、あえて「統治」論という体裁を取ることで、「会社」が外部者の意図を自ら進んで汲み取り、それに従った意思決定と行動選択をあたかも主体的に行うかのように仕組むことが、企てられているということで
青色のハイライト | 位置: 1,358 株主であっても、その意図、意見、見識を「会社」の意思決定に反映して「会社」を動かそうとするならば、外部者という立場からではなく、内部者の立場からということでなければならないのである。その意味するところは、「会社」の中心にある「空」をめぐる「統治」の仕組みの内部に自ら入るということであり、「この『会社』にとって何が善いことか」という思考の地平に立つことに他ならない。「会社」を動かせるのは、その中心に置かれた「空」に限りなく近づき、それを背負ったときだけであるからだ。「錦の御旗」が自らの手中にあることを、説得力を以て示せるときだけであると言い換えてもよかろう。それは誰よりもその「会社」のことを考えていると、他の主権者から認められ、賛同を集めるということで
青色のハイライト | 位置: 1,402 経営者は、自身の「会社」の中心にある「空」を最も意識し、それを力強く体現していなければならない人間である。経営者が究極的には「空」に従う、ということは、逆に言えば「空」によって裁かれるということでもあるので
青色のハイライト | 位置: 1,419 肉は塊のまま焼いてもなかなか火が通らないので、五つに切り分けてから
青色のハイライト | 位置: 1,617 結局のところ、「組織」を「組織」たらしめている「何か」とは、まさに経営者自身の「自我」が発火点となって生まれるものなのである。他からは、生まれることはない。 「経営者」のリーダーシップとは、このことを意味する。 カリスマでなくてもよい。凡人には凡人なりの、全身全霊を懸けたリーダーシップがあり得ると言いたい。その熱量さえあれば、そのあとの足りないもの、空白を埋めてくれるものとして、「組織」があるので
青色のハイライト | 位置: 1,641 同時に、それをけし掛けなければ商売にならないメディアや評論家や学者やコンサルタントの思いも、色濃く滲んでいる。「変化」に対する会社の強迫観念を 食んで生きている種族で
青色のハイライト | 位置: 1,715 コンサルタントは目先を変えながら、繰り返しめざすべき姿としてのBを売り込みにやってくるが、本当の難題はどうやったらAからBに変われるかであり、もっと言えば、どうしたらAから離れられるかである。行き先としてのBは、たいがい、頭のいい人が少し考えればわかっているものである。Bがよいことには、総論として、誰も反対はしない。 したがって「改革」には常に、現在に対する「否定文」が必要と
青色のハイライト | 位置: 1,754 改革」の場面でコンサルタントの一番大事な仕事になるのも、「あなたが変わらなければ、会社は変わらない」と経営者に直言することで
青色のハイライト | 位置: 1,761 そのとき、経営者の覚悟と勇気を支えるものは何かと問われれば、謙虚な「懐疑心」、純粋な「向上心」、豊かな「想像力」と答えるよりない。 それは、たとえ順風満帆に思える時期にあってさえ、自身と「会社」に向けて「本当に今のままでいいのか」と真摯さと純粋な好奇心を以て深く問い続け、未然の危機をエネルギーに変換することができる力である。 それはおそらく、経営者の資質の中でも最も、人としての「器量」と呼ぶよりないものではないかと
青色のハイライト | 位置: 1,915 それもそのはずで、「会社」の持てる可能性を掘り起こし、知恵を結集し、奥義を尽くし、資源を総動員して、事業に新しい道を拓くという営みを「開発」だと定義すれば、それは「会社」の事業発展の原動力そのものであるということになる。その本質は、リスクを取って未知に挑む創造作業そのものに他ならない。「会社」とは、自ら信じる「価値」の実現に向けてリスクを取って事業に挑む存在なのだとすれば、「開発」こそは「会社」の本義であり、存在意義そのものであるともいえるだろう。 その意味で本来、そこは「会社」という迷宮の、奥の院で
青色のハイライト | 位置: 1,927 しかし、というべきか、したがって、というべきか……長くコンサルタントを続けてきた立場からすると、この「開発」に絡むコンサルティングの依頼を受けたときが、実は最も難しい。既存の事業に行き詰まりが感じられ、ブレイクスルーして新しい道を切り拓くべく、次に「どのような商品を開発すればよいのか」「どのような技術を探求すればよいのか」「どのような新事業を始めればよいのか」……という悩みに突き当たったとき、それをそのまま、コンサルタントにぶつけてこられることがあるのである。 しかし、「開発」そのものには、答えがない。答えがないどころか、ある意味では、答えらしきものに向かう確かな道筋すらない。未知に挑む創造作業であってみれば、それは当然のことである。確かな道があれば、誰だってそれをやっている。だからこそ、それはその「会社」ならではの、余人(他社) を以て代え難い仕事なのである。コンサルタントや外部の専門家などの第三者が、それに取って代われるはずもないし、助言できることさえ限られる。コンサルタントにできることは、せいぜい、「開発」に取り掛かろうとする具体的な案件の実現にはどのようなハードルがありそうか、「開発」に挑む体制(態勢) に問題がないか、というアドバイスに過ぎない。何を「開発」するか、そしてそれに挑戦するか否かという根本的な問いは、当たり前だが本人にしか答えることができないに決まっている。スポーツになぞらえれば、それは選手本人の意志、才気や創造性の発露の問われる領域であって、コーチの領域ではない。そう考えてみれば、本来、「開発」はコンサルタントなど外部の専門家と称する人たちに、基本的に頼んでは(頼っては) いけない仕事なのである。それを頼むのはあたかも、「私は何をしたいのでしょうか?」と他人に尋… Some highlights have been hidden or truncated due to export limits.
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,943 経営者が「開発」という接尾語を付したくなる気持ちになったとき、改めて自覚しなければならないことは、「開発」とは意志と論理とがぎりぎりでせめぎ合う、「会社」の意思決定の境界面での営為であるということである。未知と既知、可能と不可能など、「会社」がその本義として向き合わねばならぬ異界の境界面、と言い換えてもよい。論理的にどれだけ詰めようが、所詮確かなことはわかりようのない、神のみぞ成否を知る領域へと足を踏み入れるのが「開発」で
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,959 「開発」への着想を生むのは、論理であるよりも、意志なのである。「一念、岩をも通す」と言ってしまうと精神論になるが、少なくともその念がないところで跳躍などかなうはずもない、というのは真実であろう。深い谷をなんとか跳躍しようとする意志が、「できそうにもないことをなんとかする」知恵をひねり出し、発想に灯をともす力の源となる。それが先立たないことには、論理的に検証し追求してみようにも、検証すべき着想(仮説) 自体を得ることができないであろう。殻を破るようなアイディア(仮説) は、確実な論理の積み上げからは、生まれない。論理による検証は、そのあと、の話で
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,964 経営者の仕事は、意志と論理のこのせめぎ合いにおいて、その境界面を、ふさわしい位置に維持することに他ならない。それは実際には、目に見える確実なことに判断を押し込めようとする論理の力に対して、それに抗するだけの意志の力の盾となって支えることだといえよう。その意味からすれば、「開発」の入り口から、担当者に向かって「よく調べろ」「よく検証しろ」と言っている経営者がいるとすれば、そもそも、やっていることが真逆だということだ。もし検証できる確実なことだけに取り組むのが「会社」なのであれば、もともと、経営者など要らぬであろ
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,970 「開発」の持つこうした性格ゆえに、社運を賭けた「開発」の担当部門や責任者は常に、孤独であり、不遇で
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,997 結局のところ「開発」とは、「会社」経営の中で最も多数決や大衆討議になじまない営為だということだ。だからこそ、この支えるという仕事は、経営トップにのみ許された大仕事なのである。経営者が、周囲の制止を振り切ってでも進まなければならないときが、もしあるとすれば、まさにこのときである。経営トップの権限は、最終的にはすべてそのときのためにあるといってもよい。裏を返せば、経営トップがその進退を賭けなければならないのもまた、ここにおいてである。経営者は孤独である、という言葉は、このときのために
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,071 結局、日本の「会社」から外部流出したように見えた「開発」の精神は、実は流出したというよりも、蒸発してしまったというほうが正しいのかもしれ
青色のハイライト | 位置: 2,086 このように考えてみると、日本の「会社」は、企業活動の本義ともいえる「開発」という営為を内部に宿して抱えることで、その社会的な役割を果たしてきたことに、改めて思い当たる。「開発」に挑む人間の側から見れば、その創造への挑戦の価値を認め、叱咤激励し、風雪から庇護してくれる宿であり家であったということである。それは、カネやらモノやら情報やら、個々の経営資源に分解して、それぞれその対価を計算するような方法で行われる支援ではない。挑もうとしていること自体に価値を認める、ということである。その価値を認めることのできる主観が、「会社」にはたしかにあった。この「会社」がやるべきだと考えることをやる、という「会社」の主観で
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,092 「価値がある(と信じる) ものを売る」というその事業の信念が、知らぬ間に「売れるものが価値あるものである」という論理に転倒し、「売れるものをつくれ」という指示に堕したとき、「開発」は心棒を失い、ただ目に見える結果の数字で判断されるものとなり、その命を失う。いったい何を「開発」しようとしているのか、定かではなくなるということである。「何をつくればいいんですか?」と問われれば、「売れるものだ」と答えるより
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,113 ここでいう信念とは、未知に向かって挑む際の、澄み切った、ほどよい自信と言い換えてもよいものであろう。優れた経営者に対面すると、その覚悟が静かに漲っているものである。 それは経営者自身の中で、意志と論理という二つの異界の境界面のバランスが程よく取れているときに、自然に生まれてくるものであるように思われる。それが自然に生まれるまで、深く静かに考えを尽くすことこそが、経営者が自身に課すべき務めであろ
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,115 それは経営者自身の中で、意志と論理という二つの異界の境界面のバランスが程よく取れているときに、自然に生まれてくるものであるように思われる。それが自然に生まれるまで、深く静かに考えを尽くすことこそが、経営者が自身に課すべき務めであろ
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,171 に、「人材」の価値を決めるのが特定の「会社」「組織」と「人材」の固有の関係であるとすれば、それは本来、個別的で、相互依存的なものである。その「組織」におけるその「人材」の価値、しか定義することはできないので
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,267 まずはそこに「分」の認識があっての話である。その「分」とは何かといえば、そもそもは、集団の中での自分の役割や責任を自覚的に認識するポジティブな概念であったはずである。何より、社会においては、人間は単に「自己」ではなくて「自分」なのである。「分」とは、社会や集団や組織の中で、自分はどのような位置を占めるか、何者であるか、を自覚・他覚し共有するための表象なのである。そして職業や仕事の世界においては、自らの職業人としての責任や 矜持 を表象するものが、「職分」であっ
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,301 「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら、それは棲み分けるニッチの多様豊富という点で際立った文明であっ
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,322 多様なヒトを採るから多様性が増すのではないということを、改めて肝に銘じなければならない。ヒトはそもそも多様である。そもそも多様なものを、一色に染めようとしてきただけなのである。「会社」という空間をそうやって統一して塗り潰してしまうことが、社員を教育し、組織を堅固にし、会社を目標に向かって走らせることなのだと、いつからか、錯覚するようになってしまっ
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,339 オクシモロン(oxymoron・撞着語法) を知ってほしい。それは〝組織化された混沌〟 〝公然の秘密〟 〝急がば回れ〟など対立する語句を並べて新しい深い意味を主張する語法で
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,348 二十一世紀に入り、多くの「会社」にとって「人材」は、「資本」よりも遥かに稀少な経営資源となることが明瞭になってきた。本来ならば、「人材」不足という課題の今日的意味は、ここにこそあると言わねばならない。資本主義というシステムにとっての供給制約(最稀少資源) が、金銭もしくは物的財産としての資本ではなくて、「人材」という意味での人的資本になるということである。これは、従来の資本主義の経済システムそのもののあり方やその力学を、根底から覆す力さえ秘めていよ
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,375 こうして、主観的判断に拠って「やるべきだから、やる」ことを仕事にできる「人材」が、将来において果たしてどれほどいるかというのが、「人材」の稀少性の問題なのである。言うまでもなく、機能の性能を誇り、それを切り売りするだけのヒトには、それがかなうことはあるまい。自身が主観的判断の担い手となれるヒトだけに、その仕事は
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,380 個々バラバラのままでは一人ひとりが心に秘める思念に過ぎなかった価値を、「職分」によって編み上げられた「組織」で共有し、事業活動という形あるものにする。まさにそのときにヒトは、わけもなく命令につき従う駒ではなく、共有された主観的価値に拠ってものごとを判断する「人材」となっているはずで
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,388 「人材」が稀少な資源になるということの含意は、優秀な「人材」の確保が競争上重要になるという次元の話ではなく、ヒトを「人材」にするというその役割が、「会社」の社会的使命として、その重みを増していくに違いないということだ。ヒトを人間ならではの仕事に活かすことで「人材」にすることができる「会社」だけが、将来においても「会社」たる資格があるということに
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,392 日本の「会社」の基底に流れていた「組織は人なり」「会社は人なり」という思想の実質を、将来に向けて蘇生させていくことこそ、必要なことなので
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,395 コンサルタントとは何者か、いったい何をする人なのかというのは、大抵の場合、やっている当人さえよくわかっていない。 当然、それを使う側も、よくわからずに使っている。 「会社」に対してなんらかのサービスをして、決して安くはない対価を受け取っている、という以上の明瞭な定義が、共通認識として共有されているとはとても思え

感じたこと

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内容

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引用メモ