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かのように

概要

  • 著者:森鴎外
    • 明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)
    • 位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。
  • 森鴎外の短編小説。初出は「中央公論」[1912(明治45)年]。五条秀磨は歴史学者である。その良心にそって神話と歴史を分離して論じたいと願っているが、そのためには古い権威と葛藤することになる。やがて、秀磨はドイツの哲学者であるファイヒンガアの「かのやうに」の哲学を応用することを思いつく。大正三年、天皇制を人々が公に論じ始めた時代に、鴎外が一つの方向を示唆した作品。

あらすじ

秀麿はいずれ父の後を継いで子爵となる身である。学習院から文科大学に入り、歴史科を立派な成績で卒業した。しかし、勉強しすぎて神経衰弱寸前であった。父親が心配して気分転換にヨーロッパに留学をさせた。

彼はベルリンで勉強して元気に勉強の成果を手紙で書いてきた。秀麿はドイツの神学者が国王の政治の相談役として活躍している例を感動して報告してきた。その手紙を読んで父親は父親なりに次のように理解した。宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になるためで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なやうに見える。学問のしない、智力の発展していない多数には不用なのである。しかし、学問をしたものには、それが有用になってくる。元来学問をしたものには、宗教家のいう「信仰」はない。さう云う人、即ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音を尊敬しろと云っても、それはできない。ドイツの新教神学のやうな、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものができていると、教育のあるものは、志さへあれば、専門家のきれいに洗ひ上げた、かすのこびり付いていない教義をも覗いて見ることができる。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるように なる。そこで穏健な思想家ができる。ドイツにはかう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいているというのは、ここにある。父はおおよそ秀麿の手紙の趣意は呑みこめた。

かえりみて父は自分の宗教観の問題に気がつく。息子は、教育が信仰を破壊するものだと考えているようである。今の教育を受けて、神話と歴史を一つにして考えていることはできまい。世界がどうしてできて、どうして発展したか、人類がどうしてできて、どうして発展したかということを、学問に手を出せば、どんな浅い学問のしかたをしても、何かの端々で考へさせられる。そしてその考へる事は、神話を事実として見させてはおかない。神話と歴史をはっきり考へ分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横たはっていはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考へているのだろう。

こう考えた父親は3年後に帰国した息子と深い会話を避けるようになる。息子もこのテーマは避けたかった。実は、本人も悩んでいたのであった。そんなとき、秀麿の友人が訪ねてきて、秀麿の読んでいる本に気がつく。秀麿はこの本は面白いという。それは「ヂイ・フィロゾフィイ・デス・ アルス・オップ」という本であった。秀麿は友人に本の解説をした。「裁判所で証拠立てをしてこさえた判決文を事実だといって、それを本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、さう云ふ意味の事実というものは存在しない。事実だといっても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のいう湊合が加はっている。意識せず詩にしている。嘘になっている。

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一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのというものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線は存在しない。ただし点と線があるかのやうに考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのやうにだね。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのやうに考えなくては、倫理は成り立たない。理想といっているものはそれだ。........

宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのやうに考えるといっている。孔子もずっと古く祭るにいますが如くすと云っている。先祖の霊があるかのやうに祭るのだ。さうして見ると、人間の智識、学問はさておき宗教でもなんでも、その根本を調べてみると、事実として証拠立てられないある物を建立している。即ちかのやうにが土台に横たはっているのだね。」

メモ

のぞみ

  • 森鴎外:「石炭をばはや積みはてつ」+饅頭茶漬け+子供の名前半端ない、のイメージしかなかったです...
    • 長男:於菟(おと/Otto):東京帝国大学医学部助教授をへて、1945年の終戦まで台北帝国大学(現・台湾大学)医学部教授をつとめた。戦後は、台湾大学医学院教授(1947年まで)を務めて医学部長となり、帝国女子医学専門学校長、東邦大学医学部教授・医学部長などを歴任した。その子どもたちもみんな教授...
    • 孫の代まで見てもだいたい著作があるこの強さ。
  • かのように:事実ではないかもしれないが、さもそうであるかのように考えることで、意味を生む
    • ”幾何学でいう、線とは長さだけあった幅はないという仮定。 あるいは、点とは位置だけあって大きさはないという仮定を考えてみるとよい。 幅のない線、位置だけあって、大きさのない点などは実際に存在しないが、 そういう点や線を、あるかのやうに仮定しなければ幾何学は成立しない”
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秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が 蒼く、目が異様に 赫 いて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって
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しかし子爵はそれを苦にもしない。息子を大学に入れたり、洋行をさせたりしたのは、何も専門の職業がさせたいからの事ではない。追って家督相続をさせた後に、恐多いが皇室の 藩屛 になって、身分相応な働きをして行くのに、基礎になる見識があってくれれば好い。その 為 めに普通教育より一段上の教育を受けさせて置こうとした。だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった
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政治は多数を相手にした 為事 である。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない
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学問をしたものには、それが有用になって来る。 原来 学問をしたものには、宗教家の 謂う「信仰」は無い。そう云う人、 即ち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、 福音 を尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である
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信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を 称讃 してある
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ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに 在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも知れない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか
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神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その 外 の神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が 横 わっていはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考えているだろう。昔の人が真実だと思っていた、神霊の存在を、今の人が噓だと思っているのを、世間の人は当り前だとして、平気でいるのではあるまいか。 随 ってあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になってしまっているのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。又子供に神話を歴史として教えるのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。そして 誰 も誰も、自分は神話と歴史とをはっきり別にして考えていながら、それをわざと 擣 き 交ぜて子供に教えて、怪まずにいるのではあるまいか
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草昧 の世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず 識 らず、 頑冥 な人物や、仮面を 被った思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った
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秀麿のこう思うのも無理は無い。明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ 夜 などには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、 随 ってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく 倅 にそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、 窃 に様子を 覗 うようにしているのである
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事実だと云っても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの 謂う 湊合 が加わっている。意識せずに詩にしている。噓になっている。そこで今一つの意味の本当と云うものを立てなくてはならなくなる。小説は事実を本当とする意味に 於いては噓だ。しかしこれは最初から事実がらないで、噓と意識して作って、通用させている。そしてその 中 に性命がある。価値がある。尊い神話も同じように出来て、通用して来たのだが、あれは最初事実がっただけ違う。君のかく画も、どれ程写生したところで、実物ではない。噓の積りでかいている。人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した噓だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチスムなんぞで、余程卑俗にして繰り返しているのも同じ事だ。これだけの事は 一寸 云って置かなくては、話が出来ないのだ
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人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を 建立 している。即ちかのようにが土台に 横 わっているのだ