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ステータス・ゲームの心理学: なぜ人は他者より優位に立ちたいのか

感じたこと

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内容

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引用メモ

人前にいるときは、意識的であれ無意識的であれ、わたしたちはつねに判断され、評価されている。 その評価が重要な意味を持つ。心理学者がどの視点を切り取っても、ステータスと幸福とのあいだの驚 くほど強力な関係性が見えてくるという。 一二三カ国、六万人以上を対象にしたある研究で、人々の 幸福は「他人からどれほど尊敬されていると感じるかの度合いにつねに左右され」、ステータスの獲得 やその喪失は、「長期的な肯定的・否定的感情の最も強力な予測因子」であることが判明した。さらに、 その学術文献の詳細なレビューはこう結論づけている。「ステータスの重要性は、文化、ジェンダー、 年齢、性格の異なる個人のあいだで観察され、(中略)こうした重要な証拠は、ステータスへの欲望が まさしく根本的なものであることを示唆している」
進化の過程で、 わたしたち人間は参加できる集団を探し、 そのなかでを求めて努力するようプロ グラムされてきた。 しかし、とくに現代では、属する集団はひとつにかぎられない。刑務所にいるわけ ではない人々にとって、人生は複数のゲームをプレーすることが一般的だ。考えた者同士がつなが るとき、必ずゲームが進行する。職場、 ネット、競技場、ボランティアセンター、クラブ、公園、活動 団体、さらには家でも。 プレーに必要な最低条件はつながりである。 ステータスを得られる前提とし て、まずプレーヤーとして集団に受け入れられなければならない。
文化とは、この人生という夢のなかに同時発生するものだ。文化は何十億もの脳からつくられる。つ まり、何十億もの神経系ストーリーテラーがいっせいに働くことでつくられているのだ。彼らストーリー テラーたちは、宗教、小説、新聞、映画、演説、噂話、イデオロギーなどを、道徳的ヒーローと邪悪な 悪者といった単純な物語で埋め尽くす。そのなかで役者は、約束の地へと向かう旅の道すがら不平等に 立ち向かい、悪と戦う。わたしたちはみな、心の夢を生きているのだ。
このことは多くの研究で何度も実証されている。イギリスの社会人一万二〇〇〇人のデータを用いた ある研究は、「個人の収入ランクからは生活満足度をおおよそ予測できるが、絶対収入や基準収入から ではわからない」と結論づけている。ほかにも、経済学者によると、自分と比べて近所に住む人の収入 のほうが高いと、人の幸福度はさがるという。なかでも、近所づきあいに時間を費やすタイプの人は幸 福度が最も落ちやすい。その影響は強く、「隣人の収入が増えることと、自分の収入が減ることは、生 活の満足度にそれぞれほぼ同じような悪影響を与える」そうだ。
こうしてわたしたちは部族として、文化として、人として存在している。 わたしたちは、同じように 現実を処理する脳を持ち、同じような人生の夢を見る、同じような考えを持った人とつながったとき、 ひとつの集合体となる。 そして同じシンボルを認識し、同じゲームをプレーする。そうして、わたした ちは互いのステータスの源となる。つまり、人間はヤムイモと同じだ。わたしたちはヤムイモを見て、 その意味を理解し、同じようにこの現実を知覚する人々と深いつながりを感じる。そしてひとつの有機 体としてヤムイモゲームをプレーし、それによってステータスが手に入ったと判断したときに、互いに それを与えあう。 人生の何十年をかけて、わたしたちは偉大な王国を築くために共有されたシンボルを 用いて、悩み、戦略を練り、苦労を重ねてステータスを追い求める。これらの王国――これらバーチャ ルにつながりあう、脳によって生成された現実の幻影――こそ、人間が存在する領域なのだ。わたした ちのステータス・ゲームとはひとつの場所である。それは神経領域であり、それこそがわたしたちの世 界だ。
狩猟採集民のルールは、ある特定の目的のために考えだされた。その目的とはすなわち、部族を滞り なく機能させ、そのメンバーが平和にうまく協力しあえるようにすることだった。 こうして集団の利益 となる向社会的行動を奨励するゲームがつくられたのだ。大雑把に言えば、自分よりも部族の利益を優 先すればするほどステータスがあがり、自身の生活環境もよくなった。人間はときに強欲で不誠実で攻 撃的になるため、このようなルールが不可欠だったのだ。六〇に及ぶ前近代社会を対象にしたある調査 で、普遍的と思われる七つの共通ルールが発見された。すなわち家族を助けること。 自分の属する集団 を助けること。恩を返すこと。勇敢であること。目上の人に従うこと。資源を公平に分けること。他人 の財産を尊重すること。 これらの基本ルールは、人間が自分たちの部族をうまく機能させつづける方法 規定しており、わたしたちがどうプレーすればよいかの大筋を教えてくれる。たとえば目上の人に従 うとは、「適切な挨拶や礼儀作法を用いて、ヒエラルキーの自分の上位にいる人に敬意を表し、誠実あ るいは従順であること」を意味する。 恩を返すには「負債を返済する、人が謝ってきたときは許す」 こ と、資源を分けるには「進んで交渉し、歩み寄る」ことなどが含まれる。
ゲームから身を引くことはできない。それは自分の脳にも、これから出会うすべての人の脳にも書き 込まれているからだ。瞑想によってステータスを追い求める自分を癒そうとする人もいる。しかし、 想をする人は自己満足度が極めて高くなる場合がある。とくに「自己への執着、および社会的承認や成 といったエゴ欲求を減らすために」練習を積んだ約三七〇〇人を対象にした研究の結果、対象者は、 「自分は他人より自己の感覚と対話できている」や、「これまでの経歴や経験のおかげで、自分は他人よ り自分の体と対話できている」や、「ほかの人にもいまの自分のような洞察力があれば、世界はもっと よい場所になると思う」などの意見にそう思うと答え、「精神的な優位性」の指標で高スコアになった という。 対象者に生じたこうした自己イメージは「悟りとは正反対」であると、筆頭研究者のルース・フォ ンク教授は述べている。
プレーヤーとしてのわたしたちも同じだ。三種のゲームは、大きく三種の人間と結びつく。わたした ちは、イディ・アミンにも、マザー・テレサにも、あるいはアルベルト・アイシュタインにもなりうる。 とはいえ、どんな人間も三つの典型すべての要素を持っている。人間は支配、美徳、能力という行為か ステータスを手に入れることができ、わたしたちは無我夢中でどんな戦略でも使おうとする。科学者 もプリンセスも麻薬組織のボスも、支配、美徳、成功のモードを切り替えながら、人生というゲームを プレーしている。わたしたちはみな、ときにやりにくかったり、ときに矛盾しつつも、大きな目標に向 かってこれら三つのルートを混ぜあわせているのだ。
ステータス・ゲームのプレー方法が変化するにつれ、人間は徐々に今日のような、奇妙で気取った、 気まぐれな、宝石をきらめかせる動物に変わっていった。わたしたちは、絵を描く、楽器を演奏する、 精巧な宝石を身につける、欲の塊のようなものをつくり、取引し、見せびらかすといった、ステータス を求める活動にのめり込むようになった。
これが人間の本質の真実だ。わたしたちはゲームの無力なプレーヤーであり、不当にプレーするよう にプログラミングされている。人間の脳は自分が持っているものを他人が持っているものと比べ、競争 モードで自分のステータスを判断する。自分の属する集団が多くのものを持てば持つほど、またライバ ルの集団よりも高い地位にあがればあがるほど、わたしたち個人が獲得できるものも増えるのだ。貪欲 さや陰険に向かうこうした性質もさることながら、脳が本人に隠れてこれらの行動をしているという 事実のほうが、さらにたちが悪いかもしれない。脳はこう身勝手な物語を語る。自分は計算高いプレー ヤーではなく道徳的ヒーローなのだと。騙されやすく、貪欲で腐敗しているのは自分や仲間のプレーヤー ではなく、それ以外の全員なのだと。
わたしたちは人類を進歩の英雄として語るのが好きだ。 それは一方向性の歴史の矢であり、砂上の 足跡であり、全人類の聖なる運命である。 科学、技術、生活水準の急速な進歩など、いたるところにそ の根拠は見いだせる。 この五〇〇年のあいだに、人は科学革命と「啓蒙」を経験した。その知的 活動は、近代性の驚異をもたらし、それまでの非合理な信念が誤りであったことを証明した。 おかしな 考えにしがみつく理由はもうない。それなのに、なぜ何十という人々がまだしがみついているのだろ うか? なぜわたしたちは迷信深く、騙されやすく、宗教心を持ったままなのか? この非合理性の持 は謎である。 しかし、 ステータス・ゲームならば、ひとつ解釈を示せる。 人間は素晴らしい進歩の旅 のヒーローなどではなく、ゲームのためにプログラミングされたプレーヤーなのだ。 ゲームで成功する ために、わたしたちはステータスの高い味方を探す。 味方が見つかると、同化の回路が作 動する。 すると、わたしたちは彼らの行動だけではなく、信念もする。信じれば信じるほど、 高み にのぼれる。 こうして真実ではなく、信仰が人々の意欲を掻き立てるのだ。
成功している集団は、いわばステータスを生みだす機械だ。プレーヤーにもゲームそのものにもステー タスをもたらすことで繁栄する。これは戦時だろうと平時だろうと、緊張モードだろうと緩和モードだ ろうと言えることだ。政治ゲーム、カルトゲーム、ギャングゲーム、ゴールドラッシュゲーム、企業ゲー ム、宗教ゲーム、スポーツチームゲーム、異端審問ゲーム、暴徒ゲーム、 そのほかありとあらゆるゲー ムに当てはまる。すでに見てきたように、人間にはステータスが必要だ。それを得るために、みなゲー ムに臨んでいる。 一流のゲームを率いるステータスに満ちあふれた人々が、まばゆいばかりのスポット ライトの下でヒステリックな観衆の声援を受けたり、世界中のメディアで報じられたり、取り巻きに囲 まれたりしている姿は、まさしく全権を掌握しているかのように見える。しかし、それは見せかけにす ぎない。最終的にすべてを握っているのは、その下にいる人々だ。
歴史は個人によってつくられるのではなく、集団につながった個人によってつくられる。これらの集 団とは、すなわちステータス・ゲームである。データからも歴史からも、それは明らかだ。 他者を助け、 世界をよりよくしたいと本気で願うのなら、わたしたちは成功ゲームをすべきなのだ。
スーパースター、大統領、天才、芸術家。人々から羨望と畏敬の念を抱かれるどんな人であろうと、 約束の地にはたどり着けない。そうわかっていれば、みなの慰みになるのではないだろうか。約束の地 は蜃気楼だ。それは神話だ。最悪のときこそ、夢の真実を思いだそう。人生は物語ではなく、終わりのないゲームだと。つまり、わたしたちが追い求めるべきは最終的な勝利ではなく、シンプルに謙虚に前 進すること、すなわち正しい方向へ進んでいるときの果てない喜びなのだ。 ステータス・ゲームで勝つ 人はいない。勝者は絶対に生まれない。人生の意味とは、勝つことではなくプレーすることなのだ。