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さよなら未来

メモ

  • Sくんが指摘したことは本当だった。「仕事がそこそこできる」と自惚れていたのは、ただその枠組の中で仕事を円滑に回すためのルーチンを身につけただけのことだった(もちろんそれを身につけてこそ、その先がありうるわけだが)。他人のことばを使って考え、他人のことばを喋っているだけ。自分の言葉で考えるということは、本当に難しい。それができる人は決して多くない。(謝辞)
  • 残念ながら日本では、こうしたストーリーにお目にかかる機会がめっきり少なくなってしまった。雑誌も本も「物語」ではなく「情報」を扱うメディアになってしまったからだ。雑誌だけではない。ある時期から、あらゆるメディアがひたすらカタログ化の一途をたどった。そしてほどなくインターネットが到来し、それはいとも簡単に駆逐されようとしている。 雑誌制作の現場で「ウェブ連動」「アプリ開発」といった話題が出ると、ただでさえ情報化している記事に動画や音声といった情報を上乗せすることがたえず議論される。それは「付加価値を生む」という。けれども、これだけ映像や音源が無料で氾濫している時代、動画や音声をただ加えてそれが価値を生むと単純に考えることはできない。 (読むが変わる)p16
  • この号のためにMITメディアラボで取材したインド人認知科学者スガタ・ミトラ教授の話がいまでも印象に残っている。「未来の子どもに教えるべきことは三つだけになる」と先生は言う。「読み書きする能力。必要な情報を得る能力。そして、その情報の価値を判断する能力」1、2はインターネットでなんとかなるかもしれない。問題は3つ目だ。フィルターバブルというのは、ここが崩壊した状況を言うのだろう。 (ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル)p58
  • そもそも、ぼくらは無駄に「日本」というものを意識しすぎているのかもしれない。「日本人、ここにあり」なんていまさら気張られても、世界的にはおそらく何のことやらな話だ。人が気にするのは最終的には「あんた、なにができるの?なにやりたいの?」でしかないはずで、グローバル市場というのは、ことさらそういう場所だろう。 取材先で訪れたパリでは、いま日本人シェフのいるレストランが人気なのだという。なにも日本食に限った話でもないようで、フレンチでもスーシェフが日本人である店にお客さんが集まっていると聞いた。そういう行き方もあるのだ。「日本人の強み」なんて抽象論に時間を割くよりも、世界を舞台に勝負できる「自分の強み」が何であるのかをより現実的に見極めることのほうがいまは有意義なはずだ。それが見えれば、自分がどこで誰に求められているのかもはっきりするはずで、となれば「業界」や「経済」がどうなろうと、少なくとも自分は生きていける。頼まれもしないうちから日本を背負わずとも、まずはそれでよしとしたらいいのではないだろうか。 (寿司でいくか、ハンバーガーでいくか)p62
  • イリイチは、現代の科学やR&Dというものが、自然に対する人間の支配力のシンボルとなり、真理を発見してそれを発表するためだけに行われる血の通わない探求へと堕してしまっていることを批判し、ユーグのサイエンスとそれを対置する。ユーグの言うサイエンスは、一言で言うならば「治癒への関心に支えられた真理の探求」だ。イリイチはこれは「人間の弱さを支える杖」と呼び、「民衆によるサイエンス=コンヴィヴィアリティの探求」と言い換える。コンヴィヴィアリティは、「生き生きとした共生」と日本語には訳されている。(科学には愛がなくてはいけない)p66
  • 彼女に伝えたいことがあったとすれば、自分のハッピーは自分で決めるものであって、社会や会社に決めてもらうものではない、ということだったのだと思う。それは日々働くなかで自分に問い返していくしかないようなもので、かくいう自分にしたって「なんでオレこんな事やってるんだっけ?」という問いにいまだまともな答えひとつ用意できずにいる。 答えのない問いだとは感じつつ、それでも問うことをやめないのは、やめた途端に成長は止まり、後退が始まるだろうと思うからだ。ぼくは、そのことをかつてハッピーだった大企業が苦しんでいるさまを見てことさら痛感する。日々問い返すことを怠った結果としての現状であるならば、日本企業のつまずきは働く人全てにとって未来の教訓になりうる。自分の「ハッピー」を人に委ねて、外から与えられるのを安閑と待っているわけにはいかない。人も会社も、そうだ。誰がいったいゆとり女子を笑えるというのか。(ゆとり女子を笑うな) p72
  • 「ぼくは「craigslist」や「MetaFilter」「4Chan」といった会社をすごくリスペクトしてるんです。彼らは始めた頃とさほど変わらぬ規模で、いまなお創業当初の価値を守り続けています。同時に、オンライン上に新しい文化やミームを生み出してきました。Facebookが一体どんな文化を生んだというのでしょう」~中略~「「働く」ってのは誰かに頼まれてやるもんじゃないよ。そこには自分なりのミッションてものがある。言葉の最も健康な意味での「アントレプレナー精神」っていうのはそういうもんだし、それがある人は雇用がなくても働くんだよ。」~中略~ 雇用が終わり、働くが始まる。これからの「働く」は、自分が生み出した価値によって、価値付けされるものになる。(といいのだが)。(本当の「働く」が始まる) p82
  • 音楽で金儲けしたいわけじゃないんだ。その言葉を取材中に何度聞いたことだろう。リスクを冒す勇気を守り、育てるエコシステム。それを必要としているのは、音楽ばかりじゃないはずだ。(▶▶(Fast Forward))p90
  • 自分になんの感動の体験もない人間が、もっともらしく「ユーザー・エクスペリエンス」を語り、数字しかあてにできない人間がしたり顔で「顧客満足」を論ずる。それによっていかに多くの現場がモチベーションを奪われ、クリエイティビティが削がれ、結果どれだけ多くのリスナーが離れていったことだろう。そりゃそうだ。そんな連中が作ったものに一体誰が感動なんかするもんか。 人を動かす新しい体験をつくろうとするとき、人は「動かされた自分」の体験を基準にしてしか、それをつくることはできない。未来を切り開くことと「自分が心を動かされたなにか」を継承し伝えることは同義だろう、とぼくは思っている。(アー・ユー・エクスペリエンスト?)p92
  • サイモンのコトバを逆から読めば、あらゆる情報がやみくもにアーカイブ化されていく世界は、あらゆる情報が説明や分類できないものとなっていく世界だ、ということでもあろう。20世紀の世界には、それを支える大きな枠組みとして例えば国家、たとえば宗教、たとえば科学といったものが存在した。枠組みは、説明や分類を可能にする。サイモンはそこから微妙にはみ出したものをあえて選び出し、アーカイブ化することで「枠組み」では語れない世界を露わにしていく。 東日本大震災の際に養老孟司が、「答えは全て目の前にある。わたしたちが知らないのは「問い」のほうだ」といったことを書いていたのを思い出す。震災を前に「問い」を失ったように、ぼくらはサイモンの作品を前に「問い」を失う。答えは、それ、として極めて具体的に、そこ、にあるにもかかわらず、ぼくらは、それを理解するための正しい問いを見いだせない。答えを探すことよりも、それはおそらくはるかに苦しい状況だろう。そして21世紀という時代が抱える問題には、常にこの苦しさがまとわりついている。(問いがわからない) p124
  • 誰だったかある歴史家が、「歴史というのはすべからく現代史である」といったようなことを言っていたはずだが、なるほど、言われてみればたしかにその通りで、ぼくらは歴史というものを(国家の歴史であれ、つつましやかな自分史であれ)、「いま立っているここ」から書くわけで、最終的にそれが一本の線として「いま、ここ」にたどりつくにせよ、その線が経由する点は作為的に「いま、ここ」からしか決定されないことに気がつく。(「いま、ここ」につながる線)p127
  • デジタルテクノロジーがあらゆる人の手にわたっていくなかで、社会を革新していく主体は、国家、大学、大企業と言った大組織から、個人、もしくは小さな組織へと着実に移りつつある。そのとき、新しい思考をもたらす媒介としてのコーヒー/カフェをいま以上に望むことになるのだとすれば、そこでみなが求めるのは、産業化されたコーヒーチェーンではないはずだ。ニューヨークのインディペンデントなカフェの数は、既に大手チェーンの店舗数を上回っている。そんなことを教えてくれたのはスクエアのジャック・ドーシーだった。(フレッシュコーヒー・マニフェスト)p146
  • VMは決して自分が見てきたものを押し付けようとはしない。自分自身の体験としてその映像に接するように促す。だから余分な説明や能書きもない。ナレーションすらない。 「視聴者のモノの見方を変えてやろうなんて思わない。答えは自分で探すものだ。ぼくは答えを差し出すつもりはない」。自分の代わりに誰かに旅してもらっても意味がない。VMの映像は自分の足で見つけ出し、自分の目で触れなくてはならない。(ヴィンセント・ムーンの小さな地球)p158
  • 昨今「課題解決」なんてことがさかんに言われて、デザインもまた、そのための便利なツールとされている節があるけれど、僕がこの二冊に感銘を受けたのは、そうした風潮に真っ向から抗っていると読めたからだ。いま目に見えている課題を解決するなんて志が低い、そんなのは小さなビジネスしか生まないとティールは喝破し、ウィルコックスは、クスクスと笑いながら優等生的な「課題解決」を茶化してみせる。そしてともに「答え=ソリューション」ではなく「問い」の重要性に思いを至らせてくれるのだ。 この特集の焦点は、どうやらあたりまえを疑う方法としての「デザイン」といったあたりにありそうだ。「問いのデザイン」とでも言おうか。それは、あまりに素朴な疑問やバカげた視点を見出すことで、見えなかった現実を見せてくれる実験のようなものだ。 見え方においてはアートや発明といったものと隣接し、機能としては批評やジャーナリズム、詩や演劇のように振る舞い、感情においてはユーモアやノスタルジアなどと結びつく。問いのデザインは単なるソリューションビジネスを超えた、(哲学的な、とも言える)固有の領土を獲得し始めているように見える(専門家の言う「スペキュラティブデザイン」は、これにあたるのだろうか) しかし、それが果たして新しいことなのかどうかは知らない。縄文人やダ・ヴィンチが稀代のデザイナーであったというのなら、デザインは単に原点回帰を果たしているだけかもしれず、デザインを「見えていない世界を見ようとする人間の根源的な衝動」と見るのであれば、それを、ぼくらが、いま、なぜ、これほどまでに必要としているのかを問うことこそが、今どきのデザイン論の本義なのかもしれない。 p221
  • 「人が争いあうのは、大概の場合、利害が一致しないからではなく、それが一致しているからなんです。二人の人間があるポストを巡って争っているとしたら、ふたりの欲求が一致しているからで、そういう争いは極力避けるべきです。世間は「競争」というものを過大評価しすぎているのです」~中略~ そうとまでわかったところで、ぼくは、しかし、本当はもう一つ聞いてみたいことがあった。世間を徹底的に懐疑しながら、返す刀で自分自身をも懐疑し、その上で、自分をとことんまで信じ続けられることがイノベイターの資質えあるというのなら、イノベイターって、とんでもなく孤独なんじゃないだろうか? その質問を投げかける時間は、残念ながら、なかった。 ティールは果たしてどう答えたろう。少なくともぼくが見たティールは、孤独を正しく愛することのできる、そういう類の大人だった。(戦うなとティールはいった)p236-238
  • 絶えず揺れ動く人の感情や思いをつかまえてそれに正しく寄り添うことがいまテクノロジーのデザインに求められているならば、そのヒントを映画から学ぶことは的外れでも何でもない。なんといってもそこには、人間の感情や共感という得体の知れないなにかを扱うことにかけてはずっと主戦場の一つであり続けてきたわけだし、それを通して「共感」をめぐる表現や、それがもたらす感覚を常に拡張してきたのだ。 土台見たこともない架空の場所を一からでっち上げ、見たことのない生き物や物体をそこに放り込んで、それでもってリアルに人の感情を動かすというのは、とんでもなくイノベーティブな行為だ。(BB-8の親和力)p249
  • ことばはツールだとよくいわれます。ひとがことばというものを使うのだ、と。けれども、事はむしろ逆で、ことばというものにひとは使われているのかもしれません。ことばとはなにか、ということを一生懸命考えるときに、わたしたちがことばを使ってそれをやっている以上、わたしたちは囚われの身に過ぎないのではないか。 ことばの外に出ることがわたしたちには不可能で、それを外から眺めることがどうしてもできないのだとすれば、頼みはコンピューターにある、というのは特集の冒頭で理論物理学者のマイケル・ニールセンの語るとおりかもしれず、そうまでして、ことばというものの秘密に迫りたいとわたしたちが考えるのは、そこにわたしたちが生きる世界のすべてがきっと含まれているからに違いないのです。(ことばに囚われて)p253
  • ことばというものを通して、社会が我々の中に入り込んできて、それが内面化された対話を生み出す。 p257
  • いずれにせよ、僕らは一足飛びに未来に行くことはない。ユートピアもディストピアも突然には出現しない。それは絶え間ない変化の蓄積の結果、気づいたらそこに現れているものだろう。その変化の間、日常レベルにおいても様々な軋轢や摩擦を起こしながら、時代の歯車は進んでいく。という意味で言えば、僕らは皆が全員、未来というものに対して多かれ少なかれ責任を負っている。こうなればいいのに、も、こんなものいらない、も、重大な判断、決断となる。そのときぼくらは、なにを見ながら、その判断を下すことになるのだろう。 ぼくはといえば、今まで生きてきた中で大事だと思ったり、好きだと思ったものが失われないでほしいと思っている。その中身は、当然人それぞれによって違うものであって、それは違っていれば違っているほどいいと思う。ぼくは、未来の暮らしがその振れ幅と多様性とを許容するものであってほしいと思う。(静けさとカオス)p261-262
  • 「いっぱい勉強するようになると、それだけ人々を助けることができるようになるのです」。なんで学校でこのことを教わらなかったんだろう。なんで誰も教えてくれなかったんだろう。(音楽にぼくらは勇気を学ぶ)p277
  • 学校ってのは、実際、経済的な指標でしか評価をされない、とても残念な空間なのかもしれない。かつてもそうだったし、いまでもそうなのだろう。経済にしか興味がない社会では、教育空間は、利潤を生むための部品を作る工場でしかない。より有能な部品とするために、子どもたちにいまなにをプログラミングすべきか、という議論に喜んで参加する気にはどうしてもなれない。やれ英語だ、やれプログラミングだ、やれICTだ、やれファブだ。お好きにどうぞ。 いずれにせよ、学校というもののこうした「残念さ」は、社会そのものの「残念さ」の反映にほかならない。学校における生徒の評価は、そのまま社会における「人材」の評価と直結している。そして、この社会における「いい人材」は、いまなお程度の差こそあれ、結局のところ「お金」という指標でしか定量化されない。子どもに「なぜ勉強しなきゃいけないの?」と聞かれても、あらゆることを数字でしか測れない社会は、ろくな答えをだすことができないだろう。(音楽からぼくらは勇気を学ぶ) p279
  • 本号で取材した英国のブリットスクールという音楽学校は、音楽の技術や才能なんかよりも、生徒たちの優しさを育むことがなによりも大事だとしている。「Be Kind, Be Original」がこの学校のメッセージだ。「優しさをもて、勇気を持て」、そして音楽がよりよいものとなるよう助け合い、冒険せよ。それが「学び」の価値であり評価の指標である、とそれははっきりと謳っている。(音楽からぼくらは勇気を学ぶ) p283
  • それがきっとどこかにある、とあてどない彷徨を繰り返してきたのがおそらくは「健康」というキーワードをめぐる世の動きなのだろう。そう考えると健康ブームやフィットネスブームなんていうものは、さしていいものとも思えなくなる。完全の追求は必ず不完全を排除しようとするからだ。そして完全/不完全という対比は、単なる対比ではなくヒエラルキーとなる。(わたしはフローラ)p285
  • 椎野は言う。「ぼくは業を起こす「起業」は好きなんだ。でも、行を企てる「企業」ってのはあまり好きじゃなくてね」。(ベスタクスの夢)p371
  • けれども新しい施設ができたところで、右にあったものが左に動いただけ、使い回しの果てに中身の薄まったものばかりが増えたところで一体誰が得をするのだろう。コンテンツがあるから箱が必要になるんですよね?というのは、そんなに異端的な意見なのだろうか。 土管さえ作っとけばコンテンツはユーザーから自動的にジェネレイトされるんですよ、みたいな調子で、スキームとストラクチャーとちょっと洒落たUI/UXがあれば一丁上がりとするようなやり口、考え方は、ITに関わる話でさんざん見聞きしてきたけれど、その悪弊がビットからアトムよろしく、現実世界の中へと流れ出ていっているのを、僕らはこれからふんだんに目のあたりにすることになるに違いない(いや、むしろ、ことは逆かもしれず、もしかすると土建屋の発想がそのままITに引き継がれただけなのか)。(ピッチフォークとパワリー・ボールルーム)p349
  • 武邑光裕は、テックシンカーのジェフ・ジャーヴィスの言葉を引用して、21世紀の経済のありようをこんな風に語っている。 「20世紀は生産と消費が分離し、それを広告・マーケティングが繋いでいたが、未来においてはそれが一体化したentityとなる。オーディエンス、コミュニティ、運営チーム、が、そのentityを構成する。21世紀においては、コンテンツも、デリバリーも王ではない。対話コミュニティこそが、王である」 武邑は、同時にこうも語る。 「ベルリンにゴールはない」 言うまでもなく「対話」には、本来ゴールなんてない。対話の目的は対話そのものである。ベルリンのスタートアップ・カルチャーとはそういうものなのかもしれない。それは本質的には自己充足的な営為であって、そこから派生する経済は、あくまで「おこぼれ」でしかなく、ゴールでもなんでもない。ゴールがないということをもって、目指すべきゴールとするという意味において、それはアートに似ていて、人は何らかのゴールを目指して生まれてきたわけではないことを思えば、それは生きていることそのものにさえ似ている。(リアルワールド報告書 エストニア・ベルリン・イスラエル)p449
  • 「イノヴェイションは勇気から生まれる」というのが僕らの見解だ。(ニーズに死を)p400
  • 結局のところ旅の面白さというのは、見たり出会ったりした「対象」にだけ宿るわけではない。面白いものや人が、客観的な事物としてそこにいるわけではない。それは、常に、そこから「面白さ」を取り出す「こちら側」との相互性、つまりは対話においてしか生まれない。(アフリカとの対話はいかに可能か)p467
  • 最適化ということばには、現状をひたすら肯定し、ただ補強していくだけのような響きがある。未来の価値が現在との差分に宿るというのが本当なのであれば、「演算された未来」というフィルターバブルのなかには、薄まり先細っていく「現在」しかない。そこでは誰も、なにも成長しない。飛躍もない。驚きもない。未来そのものが奪われているのだ。(最適化されてはいけない)p486-487

引用メモ