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内村鑑三 代表的日本人 永遠の今を生きる者たち

感じたこと

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内容

  • もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、 喜怒哀楽 のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、モット清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でござりまる。
  • 自分の力で何かをするのではなく、もっと大きなものの一部になる、大きなものの働きに参与する、という生き方です。私の目標、私の人生というところから、少し離れて物事を見る、ということです。 大きなものの一部になると聞くと個性を消す、と思われるかも知れません。しかしそれは、自分が自分であることとは、決して矛盾しません。むしろ内村は、大きなものの一部になれば、より自分であることがはっきりすると考えていました。 たとえば、私たちの毎日の仕事に当てはめて考えてみると、どうでしょうか。あるプロジェクトの一員としてしっかり役割を果たすことと、チームとして働くということ、自分が自分であることは、矛盾しないのではないでしょうか。
  • 天を知るということは、自分自身を知ることである。ただ、ここでいわれている「自己自身」は、いわゆる「私」ではありません。「無私の私」です。西郷にとって、生きるとは、無私とは何かを問う道だった ── というのが内村の考えです。 天という壮大で無限に大きなものと、「私」という最も小さなものが深く交わる場所に、西郷は立っていました。人間はみな同じようにそれができるという考えが、「敬天愛人」という西郷の言葉に表れています。敬天愛人の「人」には、他者はもちろん、自らも含まれています。自分と他者を大事にすることが、そのまま天を敬うことになるというのです。 西郷は「待つ人」でしたが同時に、必要であるときは自ら「機会」を生むために動くことを 厭いませんでした。
  • 人は、人生の中で何度か、さまざまなかたちで何かを失うという経験を強いられる。しかし「失った」を「奪われた」と捉えるのではなく、今まで見えていなかった大切なものを見出さなくてはならないときの到来である、と考えることもできるように思います。
  • 今日でいう公共事業を通じて尊徳が世に送り出した真の成果とは、建物や道路のような目に見えるものではなく、「誠実さ」だったというのです。 見えるものは、見えないものによって支えられている。人は見えるものを作り上げることによって、見えないものを人の心に届けることができるというのです。
  • 人は誰も自分の人生観をもっている。それが世界にむかって私たちを開いてくれることもあるのですが、逆にその場所に閉じ込めてしまうこともあります。 出来事が自分の願うように進まないと考え、不満に感じる。こうしたとき、人は、自分の理とは別に、天地の理があることを思い出さなくてはならないのでしょう。 ここで内村は、怠惰な人間を天地の理に反する者だといっています。内村は人を裁いているのではありません。誰にも天地の理と出会う場所がある。それに出会うことさえできれば、誰にも働く機会は開かれている、というのです。 先にもふれましたが、内村にとって働くことは必ずしも金銭を手に入れることではありません。それは何らかの意味において人と人、人と時代、人と自然、人と歴史をつなぐ働きのことです。
  • 「一時しのぎのために、計画をたて仕事をする」というのはたいへん柔らかい表現ですが、そこに大きな欠落があることの表現です。それは、自己の利益のために、時を、人を、自然を使うということです。 内村にとって人生は与えられたものではなく、預かっているものです。自然は人間の所有物ではありません。大いなるものから預けられたものである。だから、大切にしなくてはならない、それが内村の自然観です。 ここで尊徳の生涯に寄り添いながら、理をめぐって内村が強調するのは、やはり「待つこと」の意義なのです。
  • かつての日本では歴史書に「鏡」という文字を用いました。遠い過去の存在でありながら、そこに自己の姿を見る、というのです。日蓮は、内村にとっては自分を映す鏡のような存在でした。「鏡」はときに見失っている自己の姿を映し出します。藤樹は西郷の鏡でした。「鏡」としての歴史といった視座をもちながら藤樹、日蓮の物語を読んでみたい。
  • もともと日本では、「学ぶ」という営みは、単に知識を得ることではありませんでした。それはこの世の理を体得することです。「学びて時にこれを習う。また 説 ばしからずや」と『論語』には記されています。真に知らねばならないときに、何ものかによってこの世の秘密が明かされる、何とすばらしいことであろうか
  • しかしそれらは皆、彼らにとって挫折の経験で終わることなく、かえって人生の深みへと導く階段になりました。 次に、財を残すことも事業を行うこともできない人は、自分の内なる真実、つまり個々の哲学、それぞれの思想を言葉にして残してもよいと語ります。 人生に裏打ちされた哲学、思想は、学問的なそれとは違って、深いところから後世の人を励ましたり、慰めたりすることができる。内村は生ける叡知の重みを知っている。それは言葉を遺すことである、ともいえます。
  • 書く」ことをめぐって興味深い言葉を残しています。現実を一つの円だとしたら、「書く」とは、その一部分である「弧」を描き出すに過ぎない。しかし、人は「弧」を見るからこそ、そこに円があることを想像できる。円を書くのはほとんど不可能に近い。しかし、「弧」でよいのであれば、私たちはもっと自由に自らの人生に起こったことを言葉に文字に移し替えることができるというのです。 もし、エマソンのいうことが本当であれば、「書く」あるいは「読む」ことの意味は大きく変わってきます。生涯という円の弧であるという認識があれば、自らの人生の実感を言葉にすることは、じつに重要な営みだということになる。

引用メモ