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大衆の反逆

感じたこと

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内容

  • そのことの善し悪しは別として、今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである。
  • 厳密にいえば、大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、個々人が集団となって現われるのを待つ必要はないのである。われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを識別することができる。大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。
  • 今日の特徴は、 凡俗な人間が、 おのれが凡俗であることを知りながら、 凡俗であることの権利を敢然と主張し、 いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。
  • わたしは、人間社会はその本質上、好むと好まざるとにかかわらずつねに貴族的 である といってきたし、また日ごとにその確信を強めている。人間社会は、貴族的である限度に応じて社会たりえ、貴族性を失うに従って社会たることを止めてしまうほど、貴族的なものなのである
  • われわれが計らなければならないのは、まさに、その生そのものの価値なのである。正しくしかも自然な観点は、たった一つしかない。つまり、その生の中に自らを置き、生を内側から眺め、生そのものが自ら衰えを感じているかいないか、つまり、臆病で弱々しくなり、ひからびてきているかどうかを見極めることである。
  • オルテガは、社会を少数者と大衆のダイナミックな精神的統一体としてとらえ、社会は少数者が大衆に対してもつ優れた吸引力から生まれると考える。つまり、社会を社会たらしめ、それを不断に推進してゆく力は、卓絶した一人ないしは少数の模範に追従したいと感じる大多数の生々しい自発的な衝動であるとみるのである。この場合の少数者と大衆の別は、いわゆる上層階級と一般大衆というような社会階級的区別ではなく、質的なものであって、少数者とは優れた資質をもつとともに自らに多くの要求を課し、すすんで困難と義務を負い、常に前進しようとする人々――つまり、オルテガのいう「真の貴族」――であり、大衆とは、自分に対して特別の要求をもたない人々、生きるということが現在の自分の姿の繰り返し以外のなにものでもなく、自己完成への努力を自ら進んではしようとしない人々のことである
  • 十九世紀は大衆人に恐るべき欲求とそれを満足させるためのあらゆる手段を与えたが、その結果現代の大衆人は過保護の「お坊ちゃん」と化し、自分をとり巻く高度で豊かな生の環境=文明を、あたかもそれが空気のような自然物であるかのように錯覚し、文明を生み出しそれを維持している稀有の才能に対する感謝の念を忘れるとともに、自分があたかも自足自律的人間であるかのように錯覚し、自分より優れた者の声に耳を貸さない不従順で自己閉塞的な人間と化してしまった
  • 現代の大衆人は文明世界の中に突如おどり出た未開人であり、「野蛮人」なのです。

引用メモ