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このゲームにはゴールがない ――ひとの心の哲学

感じたこと

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内容

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引用メモ

カヴェルによれば、我々は外界についての懐疑論を生きることができない (CR 448)。すなわち、自分が見聞きするものや触るものはすべて実在しないのではないか あるいは、本当の姿とは異なるのではないか という疑いを本気で抱きながら 日々の生活を送ることはできない。この種の懐疑論は、自分はいま夢を見ているのか もしれないとか、いま広がっている世界はすべて幻覚なのかもしれないということを 理屈のうえでは否定できない可能性として我々に突きつける。そして、この結論は 我々を驚かせ、目眩のような感覚を覚えさせる。ただし、哲学的思索の営みを切り上 さえすれば、その目肢はすぐに収まる。日常の生活のなかにこの懐疑論は場所をも たないのである。
一つ目は、何かについて「知っている」とか「知らない」と言うことが通常意味を 成すためには、それ相応の具体的な文脈が必要だ、ということである。外界について 懐疑論者は、「人は外界について何も確かなことは知らない」などと言う。そして、 これに対抗してムーアは、「外界について私はいくつかのことを確実に知っている」 などと言い、実際にいくつかの命題(ムーア命題)を列挙してみせる。 しかし、なぜ そう言ったのかという眼目や、どうしてそう言えるのかという根拠が分からない限り、 我々にはこれらの発言のポイントが掴めない。
人間という生き物の、世界全体のなかに有する基盤、世界それ自体に対する 関係は、知るというものではない。少なくとも、知るということで我々が考えて いるようなものではない。 (CR: 241)我々人間の世界に対する関係は、〈知る〉とか <知らない〉という関係ではない。 (あるいは、〈知る〉とか <知らない〉という言葉で懐疑論者が考えているようなものではない)。 では、どのような関係なのか。 カヴェルが数多の論考で繰り返し主張するのは、それ は受けかかる(受容する、認める、承認する)と表現すべき関係だ、ということである
つまり、懐疑論者であれ反懐疑論者であれ、絶対確実な知識というものをめぐって 古来議論を続けてきた哲学者たちは、何ごとかを主張する際に要求される責務から逃 れ、いかなる特定の文脈からも超越した一般的な主張を展開することにこそ自分たち の責務があると考えてきた。そして、その当然の帰結として、不明瞭で異常な(ある いは、不真面目な)言説を繰り返してきたのである。
言葉と他者への責務ないし責任を、相手には求めつつ自分は放棄したいと願い、 我々の生活形式に対して無責任な部外者でいようとすること。その意味で、我々が共 有している生活形式から逃れたまま、疎外されたままでいようとすること。これこそ が、心と世界が断絶しているという感覚の端緒だとカヴェルは指摘する。すなわち、 内面的世界と外面的世界の峻別という哲学的描像の構築は、我々の世界の外側に住む 者のような位置に自らを置こうとする試みや願望から始まるということだ。
我々は、こうした種々の規準を共有しているからこそ、種々の概念や言 葉を用いてものを考えたり意思疎通し合うことができる。しかし、これは裏を返して 言えば、思考やコミュニケーションの可能性はその程度のものに支えられているとい うことでもある。
自分がそれまで当然の知識として疑ってもいなかったものが、確たる根拠に基づい ていない脆い代物だったという驚きから、自分の認識能力や知識についての広範な疑 という一般化へと向かうのは、それ自体としては自然な流れだ。
こうした問いは、自分の見誤りに驚い たとき、あるいは、書斎でひとり思索を重ねるとき、あるいはまた、哲学者同士で議 論するときなど、言うなれば〈哲学の時間〉でのみ流通するものであって、その意味 では自然なものではない。しかし別の意味では、この問いは自然なものだとカヴェル は強調する。すなわち、「そもそも言語を所有するに足るほど複雑な生き物、あるい は、それほどの重荷を背負った生き物の、自然な経験を表現する応答である」という のである。
さらに、ネーゲルが強調するのは、自分の人生に対して内在的な視点をとることが 我々人間にとって不可避であるのと同様に、外在的な視点をとることも避けられない ということである。なぜなら、我々人間は基本的に、自分自身を意識して省みる能力 ―自己意識、反省、自己超越の能力を有しており、その能力を行使しないでは いられないからだ。すなわち、「超越論的な一歩は我々人間にとって自然なこと」 ibid 2135 なのである。
仮に自己意識と自己超越の能力をもった突然変異のネズミが生まれたとしよう。 しかし、それによってこの空想上のネズミは、ネズミとしての自分の生を送ることを やめられるわけではない。したがってこのネズミは、「答えることのできない懐疑に 満ちた、しかしまた捨てることのできない目的にも満ちた、貧弱でしかも狂わんばか りの生に戻っていかなければならない」。そしてそれは、我々人間も同様である。
だけが感じるものだ痛みとは私秘的なものだというのは、痛みという概念の 文法に属することであり、その意味で当たり前のことである。ソリティアが一人でや るものであるように、痛みは私秘的なものなのだ(本書10-16頁参照)。しかしそれでも、 人はしばしばこのことに不満や苛立ちを覚える。あるいは、このことに無力さを感じ、 苦しむ。たとえば、〈私の痛みは私だけが感じるものであるということについて、 私の痛みは私だけが感じるものでしかない〉という風に苛立つ。また、他者の痛み を私は感じない〉ということについて、どうしても他者の痛みを私は感じられないという風に苦しむ。
カヴァル。教えうることのなんと少ないことか。言うなれば、学ばれることの厖大さに 比べて、教えることがいかに役に立たず、無力であることか······心をすべての 地点まで導くことは不可能だ。教えること(理由を与えること、私によるコントロー ル)には終わりがある。その後は教える相手が引き継ぐ。そして、私の指導(私 主張、質問、指摘、励まし、叱責)の狙いはまさに、相手が引き継ぐこと、相手が (一人で) 先を続けられるようになることにある。ただしそれは、正しく続けられ るようになる、ということだ。つまり、私がするであろうことを相手がするとい うこと、私が理解するようにそれを理解するということである。 (112)
カヴァル。「とにかくこのようにする」の「このように」とい うことで、私はいったい何を理解しているのだろうか。それを私自身に説明すること が果たしてできるのだろうか。つまり、「我々の不安の原因は、(相手に対して)あかか 自分自身を理解可能にすることができないということにあるのだ」(CR:115)。
注意が必要なのは、「言語ゲーム」の原語は 「Sprachspiel」 だということである。 邦訳でも英訳でも、 「Spiel」 の部分は「ゲーム (game)」と訳されるのが通例だが、 シュピール Spiel は 「ゲーム」のみを指すわけではなく、種々の「遊び」や「戯れ」、そして「演 技 演劇、芝居)」、さらに「揺らぎ」、「(微妙に変化する) 動き」といったものも意味す る、非常に多義的な言葉だ。実際、ウィトゲンシュタインは「Sprachspiel」 という ことで、踊りながら歌うことや、舞台で演じること、呪うこと、挨拶すること、祈る ことなど、実に多様な実践を意味している (P1-1:23)。
子どもは何年もかけて、そうした複雑な言語ゲーム―つまり、言葉を用いた虚実 かり交じったコミ ミュニケーションを学んでいく。たとえば、どのようなものが 「痛み」という言葉を適用する規準であるかを様々に学び、そして、その規準に適う 振る舞いを見せている人が本当に痛みを感じているのか、それとも痛い振りをしてい るのか、だとすればどのような点からそう言えるのか、といった、他者の振る舞いに 注目して「痛み」の証拠を探る実践(=ゲーム、遊び、演劇)のやり方を学んでいくこ とになるのである。
ウィトゲンシュタインは別の箇所でも、「我々は、柔らかく、しなやかでもある概 念でゲームをする」 (LW-224/306) と述べたうえで、「このことは、これらの概念が意 のままに抵抗なく曲げることができ、それゆえに用を成さない、ということを意味す るわけではない」 (ibid.)と強調している。また、さらに別の箇所でも、「比較的明確 概念は、そうでない概念と同じものとは言えないだろう。すなわち、曖昧な概念が 我々にとってもつような価値をもたないだろう」(LW-1: 267) と述べている。
いずれにせよ、「喜んでいる」とか「好きだ」といった概念に関しては、誰かが喜 んでいるとか好きだということを客観的に確定する方法や証拠は存在しない。 実際に 喜んだり好意をもったりしていないことも多いし、むしろ怒っていたり憎んでいた りすることも珍しくないのだ。その意味で、証拠としてしばしば機能する諸規準自体 に不確実性が組み込まれている心的概念は、本質的に揺らぐ概念なのであり、色や形 状等々にまつわる概念と比べて相対的に柔らかい曖昧である、不明確である―― そうウィトゲンシュタインは特徴づけるのである。
逆に言えば、我々のゲームの際立った特徴は、演技という要素が不断に織り込まれ、 それゆえ「心的なもの」と我々が総称する特定の事柄に関して不確実性がつきまとっ ている、という点にある。我々はそのようなゲームに参加できるがゆえに、互いに相 手の行為やその理由、物事に対する捉え方などを、しばしば誤解しつつ理解すること ができるのである。 そして重要なのは、この「しばしば誤解しつつ」というのは、 我々の理解の不完全性や知識の限界を示すのではなく、むしろ理解が成立する条件だ ということである。嘘や偽りの可能性がつきまとい、誤解する可能性がついてまわる ものでなければ、そもそも心的態度をそれとして理解することはできないのである。
「そのような揺らぎが、我々の生活 の重要な一部分なのだ」 (LW-2:81/390)
懐疑論者であれば、他者の心中を確実に知ること―他者の存在を完全に透明にす ることこそが我々のゲームのゴールだと言うだろう。そして、このゴールには絶 対に到達しえないから、〈推測することで我慢せざるをえない、と言うだろう。し かし、それは間違っている。 そもそも「このゲームにはゴールがない」 (BB:54/125) のだ。敢えて、このゲームのゴールないし目的を挙げるとすれば、それは、ゲームを 終わらせないことそれ自体である。概念の揺らぎが保たれること、他者が透明性と不 透明性の間で揺らぎ続けること、その意味で、他者が半透明であり続けることを、 我々は求めているのである。 (p269)
我々はこのように、突き詰めれば懐疑の底が抜ける、まさに根拠なき足場に立って 暮らしている。それが、「言語を所有するに足るほど複雑な生き物、あるいは、それ ほどの重荷を背負った生き物」(本書頁)である我々の生だ。そして、この人間 らしい生にこそ、寂しさと、寂しさからの救いが存在する。人間にまつわる喜びや悲 痛、希望や失望、 「美しいもの」や色褪せたものは、ここにこそ生まれる。
もしも、あるとき我々のうちの誰かに超常の力が宿り、自分以外のあらゆる存在の 行動や反応を常に予見して、完全にコントロールできるようになったとしたらどうだ ろうか。我々はその者を楽むかもしれない。あるいは、「神」と崇めるかもしれない。しかし、その「神」ほど孤独な存在はいないだろう。 その者ほど、寂しさから救われ ない存在もいないだろう。