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(見えない)欲望へ向けて ――クィア批評との対話 (ちくま学芸文庫)

感じたこと

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内容

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英文学の古典とセジウィック、バトラー、ベルサーニらの理論を介し、読む快楽と性的快楽を混淆させ、クィア批評のはらむ緊張を見据える。解説 田崎英明=== 性差や異性愛といった規範が作用する場から見えない欲望を引き出し、新たな解釈を生産すること。本書は、そうしたクィア批評の声に耳を傾けながら、「自分ではない」ものへの同一化による読むことの快楽と、性的な快楽を混線させる試みである。セジウィックの理論や英文学の古典から、ホモソーシャルな欲望、共同体の規範に従う快楽、プライヴァシーという概念装置等を縦横に論じるとともに、クィア批評と精神分析の思想的往還を、ジジェク、バトラー、コプチェク、ベルサーニらを読むことで辿った。クィアなるものが含む解放性と固有性のパラドックス、批評的・思想的探究と政治的意味の緊張をも見据えた名著。

引用メモ

われわれは他人の幻想を尊重しなければいけない、とジジェクは再三語る。そのと おり。しかしそのとき、他人の幻想は共有不可能であることが前提とされている。実 際、共有したような気分になってブライヴァシーに踏みこんでくる者ほど迷惑な奴も いまい。しかし、そもそもものを読むとは、他人になること、同一になれるはずのな いものに同一化することだ。そして本書でくりかえしてきたように、同一化と欲望と は区別がつかない以上、読むことは原理的に性的かつ無作法なものでしかありえない。 要するにわたしは、たとえ自分勝手な愛しかたであっても、すべての人を愛したい。 他人の気持ちを感じとるという性的な歓びがなければ、そもそもなぜ書物など読むの か。めんどうな理論を学ぶのも、他者の思考を追体験したいという欲望のため以外、 なにがあるというのか。 p294

人間のセクシュアリティにあって動物にないものは、自分以外の快楽の主体に同一化するシナリオだろう (Bersani 1995: 59-61)。そして 「自分でない」ものをなにが作り出しているかといえば、少なくともいまわれわれが 属している文化の磁場のなかでは、まず男女の性差であり、それにともなう異性愛/ 同性愛という二分法である。男性が女性に、同性愛者が異性愛に、あるいは異性愛者 が同性愛に同一化するとき――そしてこうした同一化は、べつに思想や批評の最前線 でだけおこなわれているのではなく、まったく日常的に経験することだ―そこには クィアななにかがある。クィアな実践とは、本質主義的アイデンティティを完全に自 由に超えていくというよりは、それらに結びつけられている所与の性的欲望のレパー トリーを手にして、それらを自前の快楽に作り変えていく作業だといっていいかもし れない。「アイデンティティは多様で可変的であり、それらはわれわれ個々人のあい だいあるだけでなく、われわれの内側にある」 (Hall 2003: 176)。