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絶滅できない動物たち――自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

感じたこと

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内容

  • わたしが中学生になるころには、イギリスの自然保護主義者のノーマン・マイヤーズなどの予測が耳に入ってきた。マイヤーズの見込みでは、当時存在していた種の半分は 21 世紀のあいだに絶滅する。ハーバード大学の生物学者であるエドワード・O・ウィルソンは、毎年2万7000種が絶滅していると推定した。これらの数字を理解しようとした者で、途方に暮れない者はいない。子どもにしてみれば、1時間ごとに種が3つ消滅するなんて理解の範疇を超えていた
  • これらの物語の極端な性質によって、わたしたちのなかで変わりつづける対自然界の倫理観と関係の核心である次の問いがくっきりと浮かびあがる。人間の存在と種の存続がいがみあうことも少なくない時代に、どうすれば人間と種は共存できるのだろう。生きものの生態が技術によってますます支配されてゆく未来に向かうにつれ、わたしたちは「どの自然」を保護すべきだろうか。自然はわたしたちの利益に資するために存在しているのか、それとも自然自体に保護する価値があるのか
  • わたしたちの上に大きくのしかかっている倫理上の問題は、人間は、自分たちが種に及ぼしている進化の影響を認識したうえで、そうなってほしいと望む方向に意識的に進化を誘導したり、操作したりすべきか否か
  • これらの物語は、現在、生命維持装置につながれているごく一部の動物、すでに姿を消してしまった動物と、その動物を発見し、研究し、追跡し、捕獲し、愛し、執着し、哲学的に考察し、救いだし、復活させようとする人間の物語である
  • 東アーク山脈は、ときにアフリカの「ガラパゴス諸島」と呼ばれる。 13 か所もの山の「島」があるからだ。それぞれに固有の種と生息地があるが、いずれも元は同じ地質学的イベントと気候に属している。これらの「島」は、孤立していたおかげで、それぞれ自然選択の実験場となっており、世界に類を見ない独特の種の軌跡と固有性が生まれた。生物学者は現在、東アーク山脈で脊椎動物を 96 種、植物の固有種を800種以上(アフリカンヴァイオレットだけでも 31 種) 記録している。気候が安定していることも絶滅率の低さに寄与したのかもしれない
  • ほかの専門家はもっと突っこんで、アフリカの貧困の根底に電力不足があると見ている。アメリカ人エコノミスト、ポール・ローマーは、アフリカは貧しいから電力が不足しているのではないと考えている。「安定した電力供給は教育、生産性、雇用の創出にきわめて重要だ。アフリカの多くは電気がないから貧しいと言ったほうが正確
  • 種の価値とは何か。国際自然保護連合によれば、この500年で約900種が野生で絶滅、もしくは完全に絶滅した。それがなぜ問題か。この問いが環境倫理学の中心となっている。環境倫理学とは、1970年代初めにヨーロッパ、オーストラリア、アメリカの大学に誕生した哲学的な学問領域だ。当時は、種の保護を決める法律と環境運動が、公民権運動や女性解放運動など進歩的な社会の大義とともに広がっていた。1973年にはアメリカで種の保存法が成立した。この法律では、動植物の絶滅のリスクと「その動植物が国と国民に与える美的価値、生態的価値、教育的価値、楽しむ対象としての価値、科学的価値」が滅ぶリスクが存在することを認めて
  • 「人間の関心と好みは、何が環境にとって望ましいかを決めるうえで納得できる根拠を示すにはあまりに偏狭だ」とシルヴァンは書いた。自然は人間の道徳的な対象となるに値する自らの価値観を有する必要があるし、種そのものが倫理の対象にならなくてはいけない。のちにこの概念に名前がついた。「内在的価値」である。
  • ロールストンにとって、生きものはみな究極の 目的、生態系における働きがある。世界との関係において生きものは果たすべき役割がある。ロールストンの保全の倫理は、究極の 目的 を守るというのが根底にある。自然のなかでトラが狩りをするのであれ、ロッキー山脈でセイヨウオキナグサが咲いているのであれ。「ありのままの種を慈しみ、大切にする気持ちを持たなければならない。種そのものに価値があり、保護するに値する。究極の 目的 や内在的価値は、きちんと作用する環境倫理のために必要
  • タンザニア国民は、世界銀行の融資で運営される飼育下繁殖の開始をけっして歓迎していなかった。ある新聞記事はこう訴えた。「タンザニアの5歳未満の子ども、妊娠中の母親、退職した老人が大勢困窮して命を落としているというのに、キハンシヒキガエルという小さな両生類にあれほどの大金をかける価値がある のか」 自然保護主義者の一部も不満を口にした。「このヒキガエルの絶滅をその目で見たい集団は多かったはずだ。世界銀行に対して間違いなく訴訟を起こせる問題だったのだから」と、わたしに言った人もい
  • 個体数が少ない動物は可能性に翻弄される。生きのびて病気や悪環境に順応する能力が衰え、生物学者が近交弱勢と呼ぶ状態になる。増殖率と生存率が下がり、個体群内部で有害な遺伝物質の量が多い、すなわち遺伝的荷重が大きい状態に
  • 妊娠した人間の女性の尿を注射すると、アフリカツメガエルは産卵する。1934年にこの事実が発見されると、野生のアフリカツメガエルが何万匹と捕獲され、世界各国に輸出された
  • たとえば、アメリカアカオオカミの例が生物学者のあいだで議論の的となっている。アメリカアカオオカミは、数千年前の交雑の結果なのか、それとも、狩猟、そして生息地の劣化が原因で行動が変化した可能性のある、たかだか数百年前の交雑の産物なのか。答えが数千年前ということであれば、アメリカアカオオカミは保護するに値すると思う者が出てくる。イヌ科の進化の遺産の「純粋な」例だからだ。だが、もし答えが数百年前で、なおかつ生息地に人間が登場してきたために、その交雑種であるアメリカアカオオカミがさらにコヨーテと交配したということになれば、遺伝ストックは保護するに及ばないという結論になりかねない。 このことからもわかるとおり、自然交雑と人為的な交配の境目は曖昧になりがち
  • 交雑と首尾一貫した保全政策の欠如は、わたしたちが種のアイデンティティをどうとらえるかについて、ひどく曖昧な態度をとっていることの現われだ。わたしたちは、生物学から、交雑は自然界の事実であり、境界は流動的だと教わっている。交雑は進化の過程で救いの手として働く場合もあるが、にもかかわらず、わたしたちは種をきっちりとした枠にはめたがる。逆に枠にはまっていない場合は、自然の秩序からの逸脱だと、長いあいだ見なされてきた
  • 生命倫理学者は、わたしたちがこうした進化を不快に思い、直感で嫌だと思うのは、種間キメラと交配種、なかでも人間の遺伝物質を用いて創造されたものが、「人間は自然界で一番という明白な特権」を脅かすのが一因だと述べた。人間の脳をもったネズミとは、いったい何なのか。この問いは、道徳的に大混乱を引きおこす。それは人間なのか。その生きものに対して、わたしたちはほかの人間に対するのと同様の責任があるのか。種の進化をいじくり回して交配種やキメラをつくりはじめると、倫理観もいじくり回しはじめることになるだろう
  • 「牧場主に対して、都市部や別の場所に住んでいるほかの人間の意志を押しつけるべきではない。と同時に、牧場主のコヨーテを殺すのは納税者の仕事ではない。それは牧場主の問題で、彼が自分で始末をつけるべきであり、他人からあれこれ干渉される筋合いはない。わたしはそう思っている。しごく単純なことだ。
  • 一方で、一部のNGOは、これを守れ、あれを保護しろと言い立てて、実際に危機的な状況に陥ると、金がわんさか入ってくる。NGOは問題を解決したいんじゃなくて、問題を現状のまま維持したいんだ
  • まずは科学者に数百年間とりつき、悩ませてきた問いから始めよう。 種 とは何か。わたしたちは、種は進化の主要な単位であると科学者から教わる。だが、進化が何世代にもわたる個体群の遺伝子構造における変化のプロセスだとしたら、種はどのような定義になるのか。この謎には「種問題」という名前がついていて、自然、そしてこれまで無数の生命体を生みだしてきた進化というエネルギーあふれるプロセスについてどう考えるべきかに、ことごとくついてまわる
  • 現代の進化を掘り下げていくと、興味深い可能性が 開けた。人間は、種を絶滅の危機から救うために、種に進んでもらいたいと希望する方向へ急速に進化させるよう舵を切ることができる。もしわたしたちが意図的に、より強い、より回復力のある個体群へとつながる選択圧を導入したら、どうなるだろう。気候変動にもっとうまく適応する特徴を、種に付与することができるのだろう
  • 「ある生命体の進化の軌跡に干渉する、それも、今のようにうっかりではなく、意図をもって干渉するのであれば、わたしたちはその種について選択をしていることになり、その種を操作していることになり、その種の未来を選んでいることになる」 だが、と彼は続けた。「保全生物学でわたしたちが実施していることの大半は、すでに進化の操作なのだ
  • バスク人は銛と、かまどと、炉の上に設置する赤いタイルと、鯨の脂肪を溶かすずっしりした銅の大釜と、鯨油を入れた樽を締める金属のたがを持参していた。彼らの捕鯨方法はことさら残酷だが効果的だった。まず、幼い子どものクジラに銛で瀕死の重傷を負わせた。母親のクジラが傷ついた子どものそばを離れない習性を知ってのことだった。そして母親を銛でしとめる。スペインに戻る船1隻で、十数匹のクジラから採れる1000樽分の鯨油を持ちかえった。鯨油は儲けが大きかった。捕鯨船の所有者は、2、3回捕鯨に行くだけで大金持ちになれ、その後船を売却してさらに儲けられる。1540年代から1620年代まで、バスク人は平均して年間300頭のクジラを捕獲、鯨油およそ1万5000樽を母国に持ちかえった。タイセイヨウセミクジラの油はヨーロッパ全域で燃料として利用された
  • 冷凍コレクションは、この類いの標本を1か所に集め、その潜在的な科学的価値を高めることを目的としている。標本は、アメリカ自然史博物館の学芸員からだけでなく、外部からも募られている。 そして現在、この類いの保管施設の数はどんどん増えている。2011年、スミソニアン協会は標本を最大 42 億件収蔵する施設を着工した。国際バーコードオブライフプロジェクトという遺伝子貯蔵コンソーシアムもある。この組織の目標は、 50 万種のDNAから500万点のバーコードを作成することだ
  • 冷凍動物園や冷凍コレクションをはじめとする、世界各地の遺伝子貯蔵の取り組みは、未来へと末永く続くよう設計されている。未来でも科学者が奇跡のような技術をもっているか予測するのはほぼ無理だ。いくつかの例では、サンプルは、採取しておかなければ失われてしまったであろう歴史の瞬間のスナップショットのようなものだ。湿地の水を凍結したサンプルは、今から100年後に生態系を回復する際に欠かせない微生物を明らかにするかもしれない。この未知の可能性が、サンプルを、想像力をかきたてるかけがえのない存在の構成要素とし、科学者にも市民にも「もし〜だったら」というわくわく感と希望を与える
  • 「わたしは、基本的に凍結は先のばしの技術だと思っているわ。未来への先のばし行為。そしてその未来は、やって来ないかもしれない。このコレクションの価値は、わたしたちが次のように言えることだと思うのよ。まあ、最初から問題があるのはわかっていて、産業化の副産物という意味では、科学がその問題を生みだした責任はかなり大きい。何をすればいいのかわからないけれど、でも将来は、ほかの人がましな答えをもっているだろうから、わたしたちが破壊している世界の生息環境の一部を保全するのは、未来の世代に対する責務だという
  • 彼が本書を上梓するきっかけとなったのは、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(日高敏隆他訳、2006年、紀伊國屋書店) を読んだことだった。ドーキンスの本は、生物学における遺伝子の役割について歪んだ見方をしているし誇張している、とロールストンは思った。彼にとって生態系は、それが哺乳類の子宮であろうが森林であろうが、遺伝子同様、究極の真実だ。生命体は、自分のために行動するときや自分の内在的価値を守るときに、自分の遺伝子を使う。だが、生命体は自分のため だけに行動しているわけではない。行動するのは、自分と、自分が属する種を結ぶ歴史の軌跡を守るためでもある。これぞ、他者との関係でしか表現できない究極の 目的
  • ロールストンは、わたしが彼のコロラド州の自宅で話を聞いたときに、これをもうちょっと噛み砕いて説明してくれた。月面に遺伝子を落としただけでは、何も起こらない。機能する世界がない遺伝子は意味がなく、遺伝子は、環境と相互作用して初めて遺伝子たり得る。関係性のないところに究極の 目的 はない
  • ヴァン・ドゥーレンに言わせれば、種の正統性と属性の問いは、鳥のことになるとことさら混乱し、場合によってまったく役に立たない。鳥類はその知性によって、想像もつかない方法で何千年にもわたって人間の文明に順応してきた。現代の日本では、ハシブトガラスは走っている車を使って木の実を割り、赤信号で車が止まったときにその実を回収する。北アメリカのカラスは人間のゴミをあさるのが得意だ。こうした行動こそが、もしかしたら 21 世紀のカラスのあるべき姿なのかもしれない
  • これらの理由から、ヴァン・ドゥーレンは、組織を保全する遺伝子バンクは大きな問題をはらんでいると考える。「ゲノムを分離できたから生命体や種の本質をとらえることができたというのは、あまりに還元主義的だ」と批判する。「行動は遺伝子で決定されているという概念イコール発達プロセスの作用のしかたではない。残念ながら、この話題は何度も何度ももちあがる。わたしの博士課程の専門は知的財産権と植物資源だった。人々は、まるでゲノムが生命体の青写真でもあるかのように、遺伝子配列の特許を取得している
  • アマートの「宗教」という表現は、わたしにとって天啓だった。わたしは環境保全学者が研究を専門用語で語るのに慣れていたが、アマートは保全をまったく別のものとして説明していた。科学ではなくひと揃いの好みや信念への固執だというのだ。 「(保全は) 複雑な領域だ」とアマートは続けた。「人間による倫理の構築物だ。それに対して100パーセント科学的でありたいというのであれば、まず『科学的な質問とは?』というところから始めないと。ゴリラがいる世界といない世界と、どちらがよいのか。これは科学ではない。価値観の問題だ」。アマートは、厳然たる真実は、人間は今より種が少ない高度に改良された環境でかなり長く生きていけるということだ、と指摘した。保全生物学者の本分は、深いところで未来についての議論を継続すること
  • 4次元、別名「延続主義」的な視点で考えると、種とは何かがわかってくる。ドローによれば、この視点は種の再生のパラドックスを美しく解決する。4次元思考では、実在は、過去、現在、未来と連続したものに向かって伸びる時間的なワームホールのおかげで、考えられる多様な状態で存在する。異なる時間のそれぞれの実在も、その実在の一部だ。したがって、テセウスの船の船板が1枚ずつ交換されたとしても、元の船と同じ時空連続体に存在している。たとえ船板が、何世紀もかけてすべて交換されたとして
  • オブジェクト指向存在論は、人間がアクセスできようとできなかろうと、オブジェクトは現実だという。オブジェクトは人間との関係性において存在するが、ほかのオブジェクトとの関係性においても存在している。ハーマンはインタビューでこう表現した。「木そのものは、わたしたちと切り離されている。わたしたち人間がとりわけ悲しい有限の存在だからではなく、わたしたち自身がそもそもオブジェクトだからだ。風が木に直接触れる度合いは、わたしが木に触れる度合いと変わら ない」 オブジェクト指向存在論が言いたいのは、森の中で木が倒れたら、誰かがそれを見ていようといなかろうと、木は実際に倒れたということだろう、とわたしなりに理解するようになった。モートンの説明によれば、あなたが地球温暖化(これもオブジェクトの一種) を信じていようといなかろうと、海面上昇は実際に起こっている
  • 自然なき生態系では、わたしたち人間は、存在という会員制組織の入り口に立って中に入っていいものといけないもの、価値があるものとないもの、権利があるものとないものを決める用心棒ではもはやない。「母なる自然とは人間の構成概念で、現実とは何の関係もない」とモートンはわたしに話した。
  • オブジェクト指向存在論は、種を自律的に存在するオブジェクトと考えよ、とわたしたちに要求するだけでなく、わたしたちが種を体験するのと同じように種もわたしたちを体験するオブジェクトなのだと考えよ、とわたしたちに挑む。そのためには、わたしたちがこの現実を受けいれるだけでなく、種とどう相互作用するか深く考えなければならない

引用メモ