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ちゃぶ台7 特集:ふれる、もれる、すくわれる (生活者のための総合雑誌)

感じたこと

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内容

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引用メモ

今、中学生と高校生の人々に、作文の良さについて説明する、という文章を書く仕事 を始めつつあって、つくづく「誰にも見せない見せていない」 物事の価値を説明するこ とが難しくなっているということについて考えている。具体的にお金だけが主流の通貨 だった時代は「金になるもの=見せる」「ならないもの=見せない」で分けられているよ うな、いいのか悪いのかはわからない明快さがあったのだが、今は金にならなくても見せ ることがある。感情や注目が、お金と並ぶ通貨になっている。みんな貧乏な時代なので仕 方ないのかもしれないが。それで集められた反応の数、さらに言うなら収益化された感情の数で、貧富の差みたいなものが形成されていく。それまではもっと曖昧なものだった感 情が、数も強弱も含めて数値化されていく。自分が大切にしていた誰かに向けていた感情 や、誰かから向けられていた感情が、他人のそれらに数や厚さで劣ってしまうかもしれな い、ということが明示される。
「輝かしい「やった」の裏側には、無数の見せなかったこと、やらなかったこと、言わな かったこと、成就しなかったことがある。フィクションの役割の一つは、それを見つけて 「やった!」という騒ぎと同等の物語を建てることだと思う。この世界の隅々にはびこる 「やる」の成果主義に「違う」と小さい声でも異を唱える。

ふれる もれる社会をどうつくる?

藤原 日本語、とくに学者の言葉って、だいた 「名詞+~である」になっちゃいますよね。 僕はそれがすごくいやなんです。もっと動詞に ニュアンスを込めればいいのにと思って、意識 的に動詞を増やすようにしています。伊藤さん は、止まらないようにするために動詞を多く 使って思考するんですね。
伊藤名詞は概念として操作可能になっちゃう んですよね。ブロックのように組み合わせたり、 体系化したりできる。でも動詞は、使った瞬間 こちらが体ごと巻き込まれる感じがします。 私は文学研究からスタートしているのですが、 最初に研究したポール・ヴァレリーは動詞族の 人でした。彼は、「動詞は身体を探している存 「在である」と言いました。
伊藤 もはや方法論じゃないかもしれませんね (笑)。でも、方法としてこうするしかない部分 があります。「身体」からみたら「言葉」って ものすごくダサいというか、情報量が雑すぎる じゃないですか。異なるものを抽象化してひと つにまとめることが言葉の力なのですが、それ は体からみると「雑化」ともいえます。だから、 ぼーっとしないといろいろなものを逃す気がして。
伊藤 たとえば、いつか自分は死ぬじゃないで すか。そのことになんかほっとしたりするんで すよね。べつに死にたいわけじゃないんですが、 そういう摂理みたいなものに救われるところが あります。「どうにもならないもののほうがメインである」という感覚です。どうにもならな いものに乗っかっていて、非人間的なものが本 当だという感覚に、逆に救われる。だから人間 でないものを探しちゃうのかもしれないですね。 自分の文章についてそこまで読み取っていただ いたのは初めてです。 自分でも無自覚だった部 分ですね。