感じたこと
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内容
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引用メモ
人間」概念の自明性を疑う議論を展開している。 イタリアの精神医療改革で病院から解放 された人びとが、無駄に虫を殺さない有機農園で果実を収穫したり、演劇実践の中で「自分 身体がまるで別の生きもの」であるかのように動くのを感じたりして、さまざまな「人 間」および「非人間」と相互に浸透しながら生きる姿を克明に記したあと、終章でこう論じ るのである。 人間は、生物学的に人間であるからといって、社会的にも当り前に人間だというわけに はいかないのである。人間は人間 (human beings)」 であるというより、 「人間になる (human becoming)」のであり、もっといえば「人間する (human doing)」のである。
そこで考えた。皮肉と諦めと断絶しかない世界を、安易に共感を呼びやすい 「感動」から 守ることも、歴史の仕事ではないか。読者が抱きやすい期待を、もっと冷徹に裏切らなけれ ばならないのではないか。感動に回収されないことこそが、強制収容所の経験を叙述すると きの基本ではなかったのか。そして、事情は全く異なるが、「私にはいなかった大伯父」の ような無数の無名の人間たちの物語が読者に容易に感動を与えないようにしてこそ、歴史の中で唯一無二の存在として存在したという尊厳を与えることになるのではないか。 避けるべ きは「靖国神社に祀られた英霊」という国家の物語だけではない。「死んだ大伯父を論じて 読者の気持ちを動かしたい」という歴史家と読者の幸せな共生の物語も、きわめて危うい。
もちろん、歴史学は、そんな世界を読者に提示するためにサイエンス・フィクションを描 くことはできない。 物語には物語で対抗せよ、というのではいつまでたっても史実を自分の 都合の良いストーリーに改変する歴史修正主義の罠から抜け出せない。そうではなく、 現実 に進行した史実のはざまにあった、当時の大きな物語に接続しえなかった断片を拾い集める 必要がある。そのような無数の断片を手にして、ようやく歴史叙述の担い手は安全な位置か 歴史を眺める超越的な身ぶりを捨て去ることができるのではないか、と私は考えるように なった。