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人を賢くする道具 ――インタフェース・デザインの認知科学

感じたこと

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内容

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引用メモ

  • 私の目標は、認知に関するテクノロジーに対して人間中心の見方を展開していくこ とである。ここでのテーマは反テクノロジーではなく人間擁護である。テクノロジー は本来より良い生活を作り出すわれわれの友人なのである。それは人間の能力を補い、 人間に不得意な活動を助け、得意な活動を拡大発展させることを支援しなければなら ない。それが私のいうテクノロジーの人間的な使い方、すなわち正しい使い方なのである。
  • われわれ人間は考え解釈をする生物である。心というものは常に説明を探し、解釈し、仮説を立てようとする。能動的、創造的、社会的存在なのである。他者との交流 を求める。 機械とは異なり、他者が要求していることを理解しようとして自分の行動 を変える。これら自然に備わっているすべての傾向が、効率を追求する工学的アプロ ーチによって妨げられてしまうのだ。機械中心の見方は秒当たりの操作数を第の関 心事とする。このアプローチは短期的な生産性を強調し、労働者をその存在する社会 構造から切り離して扱うものである。その結果、製品の質、労働者の満足、健全な社 会環境へのニーズといった長期的な目標において退廃が進行していくのである。
  • 「フローの研究が繰り返し示してきたように、人生の質というものは、何よりも仕事 をどう体験するか、他人とどのような関係をもつかという二つの要素に依っているの 「である」とチクセントミハイは言う。では、どんな要素がその体験の中にあるのだろ う。良いフロー体験を助ける活動のほとんどには「目標やフィードバック、ルール、 チャレンジという特性が組み込まれていて、これらすべてが人を自分自身の仕事に引 き込み、集中させ、夢中にさせる」のである。余暇の時間であっても、個人個人がそ うした特性を自分自身で余暇活動に組み込まないかぎり、そのような性質をもつこと はないのだ。職場や学校がこのためのしかけを提供することもできるはずだが、その ようなことはめったに行われていないのである。
  • 今日わかっていることから言うと、至高の体験の助けとなる環境とは次 のようなものである。
    • ・インタラクションとフィードバックが豊富にある
    • ・明確な目標ときちんとしたルールがある。
    • ・動機づけがある。
    • ・常にチャレンジの感覚がある。 チャレンジは絶望感や挫折感を生むほど難しくもなく、退屈するほど簡単でもないこと。
    • ・直接関与の感覚がある。これにより環境を直接体験し、タスクに直接働きかけて いる感覚が生まれる。
    • ユーザーとタスクにうまく合っていて、その助けになり混乱させない適切な道具 がある。
    • 主観的体験を邪魔したり壊したりするような妨害や注意の分断がない。
  • ちょうどこんなアメリカの大企業の役員たちによる会議が思い出される。まず、数字と事実が、意思決定者たちを溺れさせる。 それから、意思決定をするお偉方の一人 が、無遠慮にこう言うのである。「あのさ、先日うちの娘が帰ってくるなり言うんだ よ……」で、お話は長いわけだ。別のお偉方が言う。「なるほど、なるほど。だが、 これも先日のことなんだが・・・・・・」 と、またひとつお話が出てくることになる。二、三 の物語と物語についてのディスカッション、そして決定。事実や数字がどれほどあっ でも、結局決定は、幾つかの私的な物語によってなされたのである。
  • 結論はこうだ。テクノロジーの何らかの側面が、われわれに日常生活ではほとんど 重要でない正確さと精密さを要求している。にもかかわらず、われわれは、自分たち の生活の方を歪めて、正確さなど必要ない場面においても、正確さばかりを気にする 機械中心の見方に屈服しているのである。われわれの目標は、本来、人間中心の活動 を創り出すこと、すなわち環境とタスクの側を人間に適合させることだった。その逆 ではなかったはずだ。
  • そのこころは、皆がまわりに集まって毎日のニュースを聞くことができると いうものである。「電話で毎日のニュースを集まった人たちに毎晩放送できる」。この アイデアは実際に一度試されている。ハンガリーのサービス会社テレフォン・ヒルモ ンドは、第一次世界大戦前の何年間か、六千人を超す契約者に対して毎日番組を送っ ていたのである。
  • 電話の適切な使い方を見いだそうという試みが、当初かなりの期間続けられた。 消 防署は電話による火事の通報を受け入れなかったが、「それが“公的な手続きに従 っていないから」というのが理由であった。消防署のオペレータは、最終的に公式の 適切な通報が入るまで「警報の発行を拒否し、十分間もオフィスに静かにとどまって いたのだった」。ご承知のように、どのようなものにもきちんと役目が定められてい るということである。家は、と言えば? 焼け落ちてしまったわけである。
  • 人間が得意なものは何か。言語と芸術、音楽と詩。創造。発明。仕事での臨機応変 さ。変化する環境への適応。新しい道具の創出。 そもそも問題を見いだすこと。見る こと。動くこと。 聞く、触る、嗅ぐ、感じること。どれ一つとっても機械には難しい のだ。生活を楽しみ、世界を理解する。(食物の味や花の香り、(遊園地での) 体 感やスポーツでの)身体の動きなどを楽しめるようにしていく。美を味わう。喜び や愛 希望や興奮を感じる。面白がったり、不思議がったりする。しかし、これらはテクノロジーから見た人間の姿ではないのだ。
  • 一九三三年のシカゴ万博の標語 (第1章)をもう一度思い出してほしい。 「科学が 発見し、産業が応用し、人間がそれに従う」。それは機械中心の見方の世界――これ は臆面もなく、高慢なほどに機械中心の世界である。今こそ反旗を翻すときだ。われ われは機械に従うことはできない。いや、従うべきではない。従うべきなのは科学と テクノロジーのつまり、産業界の側なのである。一九三〇年代の標語とはもう充分長く付き合ってきた。二十一世紀になろうとしている今、人間中心の 強調すべきことを正した標語を作るときである。人間が提案し、科学が探求し、技術がそれに従う。