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倫理書簡集

メモ

  • 実際、私たちの勘違いは私たちが死を遠くに見ていることにある。だが、その大部分はすでに過ぎ去ってしまっており、通り過ぎた年月は全て死の掌中にある。だから、我がルーキーリウスよ、君がなすべきは君が行っていると手紙に記されていること、一時間たりとも無駄に費やさぬことだ。P3
  • 手元に残っているものがどれほどわずかでも事足りている人を私は貧乏とは考えない。だが、君には君のものを大事に守って欲しい。そして、適切な時期に始めたまえ。というのも、私たちの祖先が考えたように「底をついてからの倹約は手遅れ」だから。実際、いちばん底の残り物は、最小であるばかりでなく最悪である。P4
  • わずかしか持たぬ人ではなく、より多くを欲しがる人、それが貧乏人だ。どんな意味があるというのか、どれほどの財が金庫に、どれほどの蓄えが蔵に眠っていようと、どれほどの家畜を養い、どれほどの利ざやがあろうと。他人のものに手を伸ばそうとし、すでに獲得した財産ではなく、これから獲得しようとする財産の計算をしているのだから。富の限度はどこか、と尋ねるのかね。まずは必要なだけを持つ、次は十分なだけを持つ、というところだ。P6
  • 落ち着きを持って行動すべきであり、行動するときは落ち着くべきである。自然の理を相談相手に思案したまえ、自然は君に語るだろう、自然は昼と夜の両方を作った、と。P9
  • 日々よく心の準備をして、人生を去る時に平静でいられるようにしたまえ。多くの人々は人生にすがりついて離さず、ちょうど濁流にさらわれる人が棘ある草も角の立った岩もつかむようだ。ほとんどの人は死への恐れと生の苦しみのあいだで不幸な漂泊をし、生きることも欲しないが、死に方も知らない。だから、君の人生を喜ばしいものにするには、人生の不安をすべて捨て去ることだ。どんな幸せなことも、それをいま手に入れている人に失ったときの心構えができていなければ、幸せにはしてくれない。しかるに、失ってももっとも気が軽くすむのは失って惜しいと感じられないものだ。それゆえ、どんなに強大な権力者にも降りかかりうる事態に立ち向かえるよう自分を激励し、心を強くしておきたまえ。P10
  • 賢者の自足はどれほどのものか。ときには自分の一部にも満足する。手を病気や敵のせいで切り落とされたとしても、何かの事故で片目か両目を無くしたとしても、残ったところで十分であると考え、一部を欠いた不完全な身体にも五体そろっていたときと同じように喜ぶだろう。しかし、欠落部分があったら良いのにと惜しむこともない一方、欠落している方が良いとも思わない。賢者の自足とは、このようなものだ。友人を持たぬことを欲するのではなく、持たずともいられる。「いられる」という意味は、つまり友人を失っても平静な心を保つということだ。P28
  • 賢者には何一つ足りないものはないけれども、多くのものを必要とする。逆に、愚か者には何一つ必要なものはない -というのは、使い方を何一つ知らないからだ- が、あらゆるものが足りない。 P30
  • 問題は何を言うかではなく、どんな考えであるか、そして、ただ一日ではなく、絶えず抱いている考えだ。君が心配するには及ばない。これほど価値あるものが不相応な人間の手に落ちることはないから。賢者でなければ、自分自身のものに満足することはないから。愚かゆえの苦労は、全て己への不満にもとづく。P33
  • 多数を避けよ、少数を避けよ、ただ一人をも避けよ、だ。P34
  • 果実がもっとも心を喜ばせるのはその季節が過ぎ去る頃、若さが最も美しいのはそれが終わる頃。酒に溺れる人々の楽しみは最後の一口。それは飲み手を呑み込んで、酔いに仕上げの手を加える。どんな楽しみも、いちばんに楽しいことは最後までとっておく。いちばん楽しい年齢はすでに下り坂であってもつるべ落としではない頃で、もう軒先の端に立っている年齢でもそれにふさわしい楽しみがあると私は思う。P40
  • もっとも幸せで、不安なく自分を自分のものにしている人とは、悩みなしに明日を迎えられる人物だ。誰であれ「私の一生はもう十分」といえる人は、日々床から起きるたびに起きるたびに得をしているのだ。P42
  • 強制されて生きることは苦だが、強制されて生きることを強制するものはない。ないに決まっている。自由へ至る道は四方八方に開けていて、数も多く、短く、平坦なのだから。P42
  • エピクロスから拝借することにしよう。「多くの人にとって富を築いても不幸は終わらず、変化しただけだった」これは不思議な事ではない。実際、疵は物ではなく、他ならぬ心のなかにある。貧乏を私たちの重荷としていたものが、富を重荷としただけだ。病人を寝かせるベッドは、木製でも黄金製でも違いはない。どこへ病人を移しても、病気も病人と一緒にそこへ移るだろう。それと同様に、病んだ魂の置き場所は富の中でも貧乏の中でも違いはない。病苦はあとをついてくる。 p66 第二巻 17
  • 数日の間に限って、極めて少量で粗末な食事とごわごわしてぼろぼろの服で我慢してから、自分自身に向かっていってみたまえ、「これが恐れていたものなのか」と。心配のないときにこそ、魂は困難な事態に対する用意を備えるべきであり、運命の不当な仕打ちに抗するには、運命が親切なうちに強く鍛えられるべきだ。 P68 第二巻 18
  • 私は君に、富を持つな、というのではない。富を持っても臆病にならぬようにしてほしい。それを成し遂げる方途はただ一つ、、富などなくても自分を幸福に生きられると得心すること、富があっても、いつもそれを消えてなくなるものとしてみていることだ。 P70 第二巻 18
  • 輝きと光には違いがある。光には確かな、それ自体の源を有するが、輝きはほかからの借り物で光る。 P80 第二巻 21
  • 不幸の代金を愛しながら、不幸そのものには呪詛の声を上げる。人々は出世について愛人についてと同じように愚痴をこぼす。つまり、彼らの真の気持ちを覗いて見るなら、憎んでいるのではなく、痴話喧嘩しているだけだ。あの人々をよく調べてみたまえ。彼らは求めたことに嘆きの声を上げ、そこから逃げ出すことを話題にしながら、それなしではいられない。お分かりだろう、彼らは自分の意志でそこにとどまっていながら、そのために自分が苦しみ、不幸な境遇に有ると言っているのだ。そういうことなのだ。 P86 第三巻 22
  • 自然は私たちに愚痴をこぼして言わねばならない。「これはどういうことか。私たちがお前たちを生んだときは、欲念も、恐怖も、迷信も、背信も、その他の悪疫もついてはいなかった。お前たちが入場したときと同じ姿で退場せよ」知恵を感得した人とは、誕生のときと同じように不安なく死を迎えられる人のことだ。 P89 第三巻 22
  • 私たちの心には善きものがまったくなく、苦労しては人生を無駄にしているからだ。実際、私達の人生は、どこを見ても落ち着くところがなかった。頭越しに過ぎて、流れて消えた。誰もが、いかに善く生きるかではなく、いかに長く生きるかに心を向ける。しかし、誰にでもよく生きる機会は得られるが、長く生きることは誰にもできない。 P89 第三巻 22
  • 実際、どうして面倒事をこちらから呼び寄せる必要があるだろうか。それを辛抱するのはやってきてからでも全く遅くないのに、先取りして、現在を未来への恐れで台無しにする必要があるだろうか。これから不幸せになるだろうという理由で、いますでに不幸せになるのは、疑いなく愚かなことだ。 P93 第三巻 24
  • 死ぬ前に人生を完成させること。次いで、不安から解放されて残りの自分の時間を待ちながら、自分のために何一つ期待せずとも幸福な人生を手にしていることは。人生は長く延びても、それだけ幸福になるわけではないのだから。 p131 第三巻 32
  • いったいなにゆえに人々は未来を渇望するのだろうか。誰も自分を自分のものにしていないからだ。 p131 第三巻 32

引用メモ