🖋

メディアと私たち

感じたこと

  • ウォーターリップマン、そしてチョムスキーの慧眼よ。マーケティングは原題のプロパガンダ、そのとおりで、それはコンテンツマーケティングの形をとったとしても、同じなんだと。
  • 理性よりも感情に働きかけるプロパガンダ手法、選挙との親和性が高すぎる。そしてB2Cビジネスとも。ちょうど同じタイミングでみたスーパーサイズ・ミー2とも同じ文脈の上にある。印象の操作なんだよな。
  • サイードのオリエンタリズムから考える。嫌いな人、苦手な人、というステレオタイプを持っている環境にこそ飛び込む、身を浸す。
  • 作用と反作用。反作用を通じて作用を知る、というプロセスもある。良し悪しは脇において。
  • 1984の解説をみながら、舟を編むのことを。辞書をつくるということの意味。言葉を豊かにしておくことの意味。今の時代こそ、日本語辞典が必要なのかもしれない。豊かにこの世界を見るための辞書が。ただ観察するだけでは、気づけないんですよと。豊かな言葉を内部に持っておかないと。

内容

  • ネット情報よりも、テレビや新聞などの情報が優れているといいたいわけでは決してありません。ネットの中の情報や論評にも優れたものは多いし、目を覚まされることも多々あります。問題は、大手メディアの情報もネット情報も玉石混交だということです。私たちはそれらを見抜く眼をもたなければならない。そのためには、人が何かを伝えようとするときに必ずある「視点」「バイアス」をもつことを避けては通れないという事実に自覚的にならなければなりません
  • 私たちはついスピーディーに答えが差し出されることを求めてしまいがちですが、それだけでは、時間をかけて考え、問い続け、そこから新しい理解が生まれてくるというプロセスの価値が忘れられてしまう。このときの議論のおかげで、リップマンという人物とこの本のテーマについて一層理解が深まったことは、今回私が頂いた、大きな宝物の一つでした。
  • 「世論」を変えるためのキープレイヤーとして、学者をはじめとする知識人や、エンターテインメントにおける有名人など、大衆に影響を与える人たちを総動員し、ターゲット層に同じ意見を刷り込ませる。その媒体として新聞を中心とするメディアを使用する、という世論操作モデルを設計した
  • 「理性」よりも「感情」に働きかけるというプロパガンダ手法は、ターゲットを熱狂的にエスカレートさせ、制御不能にしてしまう
  • どんな人でも、自分の経験したことのない出来事については、自分の思い描いているそのイメージが喚起する感情しかもつことはできない。
  • 人と、その人をとりまく状況の間に一種の疑似環境が入り込んでいる(中略) 人の行動はこの疑似環境に対する一つの反応である。(中略) だから、もしそれが実際行為である場合には、その結果は行動を刺激した疑似環境にではなく、行為の生じる現実の環境に作用する。
  • ネット空間とはすなわち、二一世紀の「疑似環境」なのです。 ここでもう一つ重要なのは、この新しい情報空間を所有する、「企業」という新しいプレイヤーの存在でしょう。『世論』の中には主要なメディア媒体として「新聞」が出てきますが、現代は新聞もテレビも雑誌も、あらゆるメディアが少数の巨大私企業の影響下にある
  • 「世論」とは、人びとの「疑似環境」を構成している「頭の中に描くイメージ」そのものに他ならない。それはイメージであり、実体のないフワフワしたものであり、寄せては返す波のように崩れてはまた形をなす流動的なもので、生きもののように絶えずうごめいているからだ、というのがリップマンの結論でした。 そのイメージが社会の中であたかも集団の意見として形作られてゆく際、ただでさえ少ない外界からの情報が、これまで蓄積されてきた数々のイメージ、先入観、偏見によって左右されてしまうという問題が生じてしまう。
  • ステレオタイプとはもともと溶かした鉛を型に流し込んでつくった版を指す印刷用語ですが、版で印刷したように類型化されたものの見方や表現を意味する言葉として使われ、リップマンがこの本で用いて以来、文化的な先入観や偏見を含む社会科学的概念としても使われるようになりました
  • 人間は、自分が慣れている価値観の中にいると安心する生き物であり、それ以外の価値観が入ってくると、排除しようとする本能が働くのです。 それはこの本の主題である「世論」と、どんな相関関係があるのでしょう? ステレオタイプというのは、きわめて情緒的なものです。ですから、それをベースに生み出された「世論」とは、決して理性的に現実を正しく認識した意見ではありません。 リップマンは、大衆というものが情緒で動かされやすいことに、早くから気づいていました。 これを野放しにしておくと社会は情緒的なことだけで動いてしまい、偏見が助長されてゆく。そして人びとは正確な情報をきちんと理解して社会をよい方向に変えていこうという建設的な考え方を持てなくなってしまう。 大衆情緒がもたらす「世論」の脆弱性を、リップマンはこう鋭く指摘した
  • ニュースとは事件の存在を知らせる「合図」にすぎず、多くの場合、「真実」とは別のものだという認識が大切だと、リップマンは強調します。彼は新聞記者という立場から、報道と真実を同一視する危険性を、この時代に早くも指摘していました。
  • オバマ政権誕生に夢中になった多くの人たちは、期待が破られたショックから思考停止になり、今度はマスコミへの不信が高まっていきました。それをうまく 掬い取ったのがトランプだったのです。「マスコミは噓つきだ。俺が全部ツイッターで教えてやるよ」とトランプは言いますが、あれももちろん「マーケティング」です。チョムスキー博士は私に言いました。かつて「プロパガンダ」と呼ばれたものは、今は広告代理店による「マーケティング」と名を変えている、それは経済学の授業では、決して教えないことなのだ。
  • 一九八〇年代のイスラム報道は、植民地時代から西洋が積み重ねてきたオリエンタリズムが生んだものだとサイードは指摘します。社会学では、こうした問題をピストルの 弾 と引き金に例えるのですが、イラン革命が引き金を引き、潜在的に西洋人が持っているオリエンタリズムという弾が発射され、イスラム報道という非常に露骨な形で噴出した、というイメージで捉えれば、分かりやすい。
  • サイードが指摘したかったのは、結局、アメリカとは何なのか、という問題だったと思います。アメリカには不適切な他者というレッテルを貼る相手が必要だった、イスラムにそのレッテルを貼ることで、実は自己を確認していた、というのがサイードの考えです。この「自己正当化のための装置としてイスラムが必要だった」という議論は、『オリエンタリズム』で展開されていた。
  • オリエンタリズムも含め、自分の思い込みや、すごく嫌いだと思っていたことやその逆など、ステレオタイプを壊す体験をするために、現場に行ってみることは本当に楽しいですね。ジャーナリストにとって、五感を使って取材をするのがなぜ大事かというと、情報だけで人や文化を捉えて記事を書くと、必ずステレオタイプにつかまってしまうからです。全身を使って取材をして書いた記事には、現場で感じた目に見えないことまで必ず行間に入ってくる。偏ったレッテル貼りをしないためにも、現場に行って体験し、ステレオタイプを壊す経験を重ねることが大切です
  • 他人と付き合うには、まず嫌なやつだと思ったぐらいの方がいい。あの人は素晴らしいから付き合いましょう、という言い方をする人は、かえって怪しいんです。オリエンタリストの可能性がある。
  • 私は映像作家の森達也(* 18) さんをとても尊敬しているのですが、森さんのお話の中でとても好きなのが「お化け屋敷で一番怖いのはどこか」というものです。 お化け屋敷で一番怖いのは、お化けではなく通路だ、と森さんは言います。確かにそうなのです。お化け屋敷にいるようなお化けは、出て来てしまえば「なんだ、そんなものか」と思うような陳腐なものですから。何が出てくるか分からなくて、通路で身構えている時にこそ、人は最も恐怖を感じます。 イスラムに相対するとき、アメリカは、お化け屋敷の通路に立っている状態なのだと思います。イスラムの実態や日常が見えない報道に囲まれているので、身構えて、イランに行く前の僕のようにガチガチになっている。けれども、「お化け」だと思っていた相手が、自分と同じ地平に生きていて、昼ご飯のメニューを悩んだり、恋をしていたりすると感じたとき、壁は取り払われるのです。
  • 大変に面白いと思ったのは、そのときその編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意志決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてでなく、「空気」に適合しているから
  • 「空気」は、誰がどうやって決めたかわからない独特の集合的な意思決定です。決まったアルゴリズム(*6) があるわけでもなく、ただただ状況ごとに決まってくる。その上で、「空気」に対する貢献度というものは、「空気」を共有するメンバーのあいだで必ずしも平等ではありません。たとえば、忖度という言葉が悪い意味で注目されることになったきっかけである森友・加計学園問題では、政府の中で圧倒的な力のある首相がどう思っているか、ということが「空気」の決定にとって重要になりました。影響力の強い人については、特に忖度が働くわけです。
  • 山本さんは、「おそらくこれが『空気の基本型』である」と言っています。つまり、何でもない物や、何でもない言葉に、その実質的機能や意味内容とは別の、プラスアルファの力を感じてしまう。そこに何らかの力を持った霊のごときものが臨在しているように把握されてしまう。これが「臨在感的把握」です。
  • 『「空気」の研究』にはもう一つ重要な比喩があって、それは「水」という言葉なんです。「水を差す」という言い方があります。それは、「空気」の支配に対し「いや、そうじゃないのではないだろうか」と言うことで、「空気」をなくしていくための重要かつ有効な手段だと山本七平は言っています。では、その水とは何か。それは「通常性」だと彼は言っています。では通常性とは何かというと、これは、ある種の常識のようなもの
  • 簡単に言うなら、人びとから「思考能力」を奪えばいいのです。いくら「内面」があっても、「思考能力」がなければ、何も考えることができません。そのための方途の一つが、先ほどあげた、「事実の改ざん」です。何かを考えるときに拠って立つべき事実がなければ、考えることなどできません。そして、もう一つが、彼らが「党」から押しつけられている、「二重思考」という思考形式です。この独特の思考形式によって、人びとは、複雑な葛藤や内面の苦しみから逃れることができるようになりました。そして、とどめは、ことばそのものに手を加えることでした。「党」は、「ニュースピーク」と呼ばれることばをつくり出します。それは、要するに、「それを使うと、考えることができなくなるような言語」です。それらが、どういうものなのかを、説明していきたいと思い

引用メモ