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名著 アルベール・カミュ『ペスト』

感じたこと

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内容

  • 自分が正しいと思いこんでしまった人間に対して、人間を超える世界の大きさ、深さを考えよ、そして、それを畏怖せよということです。人間は世界の一部でこそあれ、世界と対抗できる存在だと思いあがってはならない。人間にとって不条理や悲惨として立ち現れることもある世界の、圧倒的な不可解さや多様性を前にしたとき、人間は謙虚であらねばならない。
  • 天災によって人間はみずからの不自由さを極限の形で思い知らされるわけであり、それは自由という人間の条件に対する根本的な反省です。自由は、ただそこに存在するという人間のあり方を受けいれるだけでは可能になりません。『ペスト』という小説は、人間がいかにして自由でありうるかという問いに対する回答の試みでもあります。ここでは天災という主題から、それに逆らうための反人間中心主義や、何よりも自由に大きな価値を置く哲学が導きだされてくるのです。
  • しかし、この物語の語り手はむしろ、美しい行為に過大な重要さをあたえることは、結局、間接的だが強力な賛辞を悪に捧げることになる、と考えたくなるのだ。なぜなら、その場合、美しい行為がそんなにも価値をもつのは、そうした行為が稀であり、悪意と無関心のほうがはるかに頻繁に人間を行為に追いやる原動力だからだと思わざるをえない。だが、そんな考えをこの語り手は認めない。世界に存在する悪は、ほとんどつねに無知に由来するものであり、善意も、明晰な理解がなければ、悪意と同じだけの害をなすことがありうるのだ。人間は邪悪であるよりむしろ善良だが、真実をいえば、そのことは問題ではない。
  • このいかにもその辺にいそうな凡庸きわまる人物こそ、ただ自分にできることをするという「静かな美徳」を備えた、「とるに足らない地味な」ヒーローであったというのです。読者にとって、このヒーローが自分であってもおかしくないようなありふれた人物として造形されているところに共感が湧きます。こうした人物を挿話的に配し、主筋と巧みに絡ませて活躍の場をあたえていることは、群像劇としての『ペスト』の真骨頂だといえるでしょう。
  • 理念が人殺しを許容し、さらに、人も殺し自分の死も辞さないという英雄的行為が、その理念を強化し、美化していく。そのことへのランベールの恐怖と嫌悪感は、もはや彼の骨肉と化しているのです。
  • 絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ。
  • 記憶もなく、希望もなく、彼らはただ現在のなかにはまりこんでいた。げんに彼らには、現在しかなかった。特筆すべきことだが、ペストは彼ら全員から、愛の能力と、友情の能力さえも奪ってしまったのだ。なぜなら、愛はいくらかの未来への期待を必要とするものだからだ。しかし、我々にはもはやその瞬間その瞬間しか存在していなかった。 いつまでも続く災厄による追放と監禁の状態のなかで、過去や未来という時間の展望が失われ、過去の記憶も未来への希望もなくなってしまう。そして愛や友情すらもてないような状況へと変わっていく。絶望に慣れてしまうというのはそんなふうに、未来を奪われた囚人のようになることなのだ。
  • 「わたしは、あなたがたと同じく、悪にたいする強い憎悪を持っております。けれども、わたしはあなたがたと同じ希望を持っておらず、子供たちが苦しんで死んでゆくこの世界にたいして闘い続けるのです。
  • 自分が善であることを疑わず、自分の外側に悪の存在を想定して、その悪と戦うことが自分の存在を正当化すると考えるような思考のパターンが「ペスト」なのだ、ときわめて示唆的な読解を提示しています。
  • 僕がいっているのは、単に、この地上には天災と犠牲者があるということ、そして、できるかぎり天災に同意することを拒否しなければならないということだ」 タルーが、このぎりぎりの告白によっていおうとしたことは、「あらゆる場合に犠牲者の側に立つこと」、つまり、この世界に殺す者たちと殺される者たちがいた場合、絶対に自分は殺される者たちの側に立つ、という決意表明です。
  • それが思考の領域にとどまらず、行動の領域に進んで「われ反抗す」となるのは、単なる思考ではなく、世界のあり方に反抗し行動することが、われわれの存在の証となるからです。しかし、この「反抗」は、政治的意味あいに限定されるものではありません。天災や戦争をはじめ、人間に襲いかかってくるあらゆる不条理な災厄と悲惨への「反抗」です。それゆえに、あらゆる人間が同じように反抗することで、連帯することが可能になる。「われ反抗す、ゆえにわれら在り」と、デカルトでは単数形だった「われ」が複数形の「われら」に変わるのは、そういう理由からなのです。
  • カミュは急進的な「革命」ではなく、あくまでも人間的な尺度をもった「反抗」にこだわりました。革命を強風に、反抗を樹液に 喩えて、人間は後者によって粘り強く不条理に立ちむかうべきだと説いたのです。

引用メモ