感じたこと
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内容
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引用メモ
要するに、食べものとは、叩いたり刻んだり炙ったりした生きものの死骸の塊なので ある。 読者の食欲を減退させることがここでの目的ではない。目的は違うところにある。食 べものは、祈りにも似た物語がなければ美味しく食べられない、という事実を確認する ためだ。わたしたちは「食べもの」という幻想を食べて生きている。ただ、やっかいな のは、幻想であるがゆえに物語が肥大化することだ。
公衆食堂は、さまざまな文脈が交差して網の目のように なっている情報ステーションでもあるから、ただそこにいるだけで、地域社会が張り巡 らせた糸に触れていられるのである。 「食べもの」という幻影 これらは、「くびれができます」「女を口説けます」「カリスマシェフ監修の味です」「地 球に優しいです」「北海道の雄大な自然のなかで育った牛からの恵みです」といった類 薄くて消えやすい物語とは、別の物語だ。たしかに、対抗する物語でさえ幻影かもし れない。しかし、本当に心に残る「食べもの」は、その来歴が、食べる人を圧倒させる ものなのである
フードコートは抽象的で、 つかみどころのない非政治的空間、そして均質な空間であ る。多様なメニューを擁し、融通の利く営業時間の「レストラン」がパリで誕生したの (2) は一七六七年三月で、市民社会の成熟とともにレストランは普及し始める。だとすれば、 フードコートは、呆然と街を歩き、感動なくモノを買い、味わうことなく食べものを胃袋に入れるだけの群集が君臨する時代を象徴する「食の場所」であるといえるだろう。 ならば、フードコートは孤立した人間や家族の、つまり、プライベートな空間の集合 体に過ぎないのか。そうではない。フードコートは、世界中の人間、組織、社会のつな がりの末端に位置する。フードコートを中心に線を結んでいくと、その線は、生産、流 通、販売を経て、世界中のさまざまな人間をつなげ、やがて地球を覆う。