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知ってるつもり――無知の科学

感じたこと

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内容

  • 誰も自らの無知を理解できない、しかしコミュニティがメンバーに正しいという感覚を与えつづけ るという状況が行き着くところまで行ってしまうと、きわめて危険な社会的メカニズムが動き出すリ スクがある。歴史にさほど詳しくない人でも、社会がときとして画一的なイデオロギーを追求し、ブ ロパガンダや恐怖政治によって独自の意見や政治的立場を封じようとする危険な熱にうかされること は知っているだろう。 ソクラテスが死んだのは、古代アテネの市民が“汚染された思想を駆逐しようとしたからだ。イ エス・キリストもローマ人の手によって同じ憂き目にあった。エルサレムを異教徒から解放するため に第一次十字軍が組織されたのも、一四九二年から一五〇一年にかけてのスペインで、ユダヤ教徒や イスラム教徒にキリスト教に改宗するかスペインを去るかを迫る異端裁判が開かれたのも、同じ理由 からだ。 二〇世紀を特徴づけるのは、思想的純潔という名の巨悪である。 スターリンの粛清、処刑、 虐殺。毛沢東による大躍進政策では数百万人が農業共同体や工業組織へと送られ、大勢の餓死者が出 た。もちろんナチス・ドイツの強制収容所も忘れてはならない。
  • しかし、これは重要な点を見落としている。この結果に対する別の視点として、正解した人々は本 当にわかっているのかという疑問がある。実際には、抗生物質は細菌にしか効果がないことを知って いる人も、たいていはそれを個別の事実として知っているだけであり、それ以上の詳しいことは知ら ない。細菌とウィルスの具体的な違い、抗生物質の働き、なぜ細菌には効果があるのにウィルスには 効果がないかを詳細に説明できる人がどれだけいるだろうか。これは特段意外なことではない。ふつ うの市民が何十という科学的トピックについて深い理解を持っていると考えること自体、現実的では ない。だからこそ知識のコミュニティに強く依存するのである。
  • フロリダのオレンジ産業の将来を懸念した生産者らは、遺伝子組み換え技術を 使って病気への抵抗力を高める実験をしてきた。うまくいった方法の一つは、抵抗力を高めるタンパ ク質を生成するブタの遺伝子をオレンジに移植することだった。しかし生産者はこの解決策を採用し なかった。ブタの遺伝子を含む果物など、消費者は絶対に買わないと考えたためだ。 消費者はきっと、 遺伝子組み換え作物は移植された遺伝子が生成するタンパク質の影響を受けるだけでなく、ドナー (提供側) 生物の特徴を他にも引き継ぐと思うだろう。つまりこのケースでは、オレンジが少し豚肉 っぽい味になると想像するのではないか。 オレンジ生産者の懸念は、おそらく正当なものだったのだろう。実験室での研究では、まさにそう した影響が確認された。 被験者はレシピエント(受容側)とドナーの類似性が高いときのほうが、類 似性の低い組み合わせより遺伝子組み換え作物を受け入れる傾向が高かった。別の研究では回答者の ほぼ半数が、ホウレン草の遺伝子を挿入したオレンジはホウレン草のような味がすると答えた (そん な味はしない)。
  • 誰も自らの無知を理解できない、しかしコミュニティがメンバーに正しいという感覚を与えつづけ るという状況が行き着くところまで行ってしまうと、きわめて危険な社会的メカニズムが動き出すリ スクがある。歴史にさほど詳しくない人でも、社会がときとして画一的なイデオロギーを追求し、ブ ロパガンダや恐怖政治によって独自の意見や政治的立場を封じようとする危険な熱にうかされること は知っているだろう。 ソクラテスが死んだのは、古代アテネの市民が“汚染された思想を駆逐しようとしたからだ。イ エス・キリストもローマ人の手によって同じ憂き目にあった。エルサレムを異教徒から解放するため に第一次十字軍が組織されたのも、一四九二年から一五〇一年にかけてのスペインで、ユダヤ教徒や イスラム教徒にキリスト教に改宗するかスペインを去るかを迫る異端裁判が開かれたのも、同じ理由 からだ。 二〇世紀を特徴づけるのは、思想的純潔という名の巨悪である。 スターリンの粛清、処刑、 虐殺。毛沢東による大躍進政策では数百万人が農業共同体や工業組織へと送られ、大勢の餓死者が出 た。もちろんナチス・ドイツの強制収容所も忘れてはならない。
  • 人々が極端な意見を持つのを防ぎ、知的謙虚さを高めるには、政策がどのように作用するかを説明 させるのが有効であるのはすでに見たとおりだ。残念ながら、この手法もコストを伴う。自らの錯覚 を突き付けられて、腹を立てる人もいる。本人がよくわかっていない政策を説明させることで、 相手 との関係にヒビが入ることを、われわれは身をもって学んだ。説明を求めた相手が、その問題につい てそれ以上議論したがらなくなることも多かった (われわれと話すこと自体を嫌がることも多かっ た)。 知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたい と思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違って いたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった。 因果的説明は錯覚を打ち砕く効果 的な方法だが、人は自分の錯覚が打ち砕かれるのを好まない。たしかにヴォルテールもこう言ってい る。「錯覚にまさる喜びはない」と。 錯覚を打ち砕くことは無関心につながりかねない。誰もが自分 は有能だと思っていたい。 無能だと感じさせられるのはまっぴらだ。

引用メモ