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センス・オブ・ワンダー

感じたこと

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内容

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引用メモ

雨こそ降っていなかったものの、砕ける波と、 執拗 に吹く風の音で、相変わらず騒がしい夜でした。偉大で最も 根元的 なものたちが、明らかに時間と場所のすべてを支配していました。
オレンジ色のハイライト | 位置: 88 雨の日こそ、森で散歩するには最高のとき──私はいつもそう思っています。雨の日ほどメイン州の森が 瑞々しく、活気づいていることはありません。  針葉樹の葉は銀のさやをまとい、シダは熱帯を思わせるほど青々と茂っています。その葉から輝く 滴 が、いまにもこぼれ落ちそうになっています。からし色や 杏色、 緋色の不思議な色のキノコが 腐葉土 のなかから立ち上がり、銀や緑のあざやかな色の 地衣類 やコケが、ほんとうにいきいきとしています。
オレンジ色のハイライト | 位置: 130 子どもたちの生を祝福する心優しい 妖精 に、なにか願いごとができるとするなら、私は世界中のすべての子どもたちに、一生消えないほどたしかな「センス・オブ・ワンダー(驚きと不思議に開かれた感受性)」を授けてほしいと思います。それは、やがて人生に退屈し、 幻滅 していくこと、人工物ばかりに 不毛 に 執着 していくこと、あるいは、自分の力が本当に湧き出してくる場所から、人を遠ざけてしまうすべての物事に対して、強力な 解毒剤 となるはずです。
青色のハイライト | 位置: 137 妖精の力を借りずに、生まれ持ったセンス・オブ・ワンダーを保ち続けようとするなら、この感受性をともに分かち合い、生きる喜びと興奮、不思議を一緒に再発見していってくれる、少なくとも一人の大人の助けが必要です。
青色のハイライト | 位置: 167  私たちはたいてい、この世界の知識の大部分を、視覚を通して得ています。とはいえ、いつもちゃんと目を見開いているわけではないので、実際には半ば盲目なのです。これまで見逃していた美に目を開く方法の一つは、自分にこう問いかけてみることです。 「いま、これを見るのが、人生で初めてだとしたら?」 「もし、これを二度と見ることができないとしたら?」
青色のハイライト | 位置: 289 科学者であろうがなかろうが、この地球の美と不思議のなかに住まう者は、決して一人きりになることはないし、人生にくたびれることもないのです。日々のなかにどんな悩みや心配があろうと、その思考は、内なる充足と、生きることの新鮮な感動に至る道を、やがて見つけることができるはずです。  地球の美しさをよく観察し、深く思いをめぐらせていくとき、いつまでも尽きることがない力が、湧き出してきます。鳥の渡りや潮の満ち引き、春を待つ蕾の姿には、それ自体の美しさだけでなく、 象徴的 な美しさがあります。夜はやがて開け、冬のあとにはまた春が来る──くり返す自然の 反復 には、人を果てしなく 癒す力があります。
青色のハイライト | 位置: 340 人間の言葉を巧みに模倣する人工知能より、僕は川の言葉を翻訳できる機械を見てみたい。川はきっと、繊細で壮大な、いくつもの物語を語り始めるにちがいない。
青色のハイライト | 位置: 350 変わらないものを基準に、変わるものを計ることで可視化されるのが「時間」だとすれば、京都の大地は、動き続ける川と不動の山並みの対比のなかに、固有の時間を描き続けている。
青色のハイライト | 位置: 378 レイチェル・カーソンといえば僕にとってはなにより『沈黙の春』の著者であり、時代に先駆けて農薬などの化学物質が地球環境に及ぼす影響に警鐘を鳴らした科学者である。
青色のハイライト | 位置: 398 wonder──だがこの言葉が持つ豊かな広がりを、日本語でどのように表現すればいいだろうか。  どこに進むのでも、たどり着くのでもなく、ただ心がいきいきと躍動している状態。驚異、驚嘆、驚き、不思議、好奇心、あるいは文脈によっては、疑念や不安と訳されることもある。結論が出ないまま、動き続ける。静かでありながら、繊細に周囲に感応している。「ワンダー」という一つの言葉から、僕はこのような心の風景を思い浮かべる。
青色のハイライト | 位置: 431 自然もまた、一つの物語には統合できない多様な矛盾や葛藤を包摂している。役に立たないように見えるものに、思わぬ役割がある。足かせにしか見えなかったものが、意外な機能を担う。だからこそ、一つの尺度で自然を管理しようとしてはいけない。わからないものをわからないまま、じっとその場で静かに「感じる」ことは、ときに「知る」ことよりもずっと大切なのである。
青色のハイライト | 位置: 442 この自然界においては「単独で存在しているものなどなにひとつない(nothing exists alone)」とカーソンは『沈黙の春』のなかで記している。
青色のハイライト | 位置: 484  僕たちはだれもがみな、同じ自然の一部であるが、同時に、たがいに独立した個でもある。同じ海、同じ宇宙から生まれて、異なる個として出会い、個として生きていく。この繊細な矛盾が、生きることの難しさと面白さをつくりだしている。
青色のハイライト | 位置: 533 雨のない日は、コケはその葉を閉じ、乾燥したまま次の雨が来るのを待つ。周囲の水の量に合わせて体内の水分の量を変化させることができるコケは、水分の大部分を一時的に失っても枯れない。雨のないときは、劇的に体内の水分量を減らし、乾燥に抗うのではなく、受け入れて、ただその場でひたすら次の雨を待つ。  ひとたびまた雨が降り出すと、速やかに葉の細胞が雨粒を吸収し始める。青々とした葉が開き、光合成を始め、一時停止していたコケの成長がふたたび始まっていく。雨や太陽とじかに 対峙 して生きるコケは、小さいが、とても堂々としている。
青色のハイライト | 位置: 577 凍える寒さの冬を乗り越えると、やがて「 啓蟄」がやってくる。土のなかで眠っていた虫たちが目覚める季節である。カブトムシの幼虫も目を覚まし、やがて活動がふたたび活発になる。  春は土の手入れの頻度が増える。朽ちた葉や枯れ枝を 嚙 み砕き、分解しながら、幼虫たちはたくさんの糞をする。五月の連休が明けるころには、腐葉土を少し多めの水で固めて、幼虫たちの蛹化の開始に備える。
青色のハイライト | 位置: 727 ただ腹を満たし、栄養を得るだけでなく、食べることは自然からの無条件の祝福に驚き、感謝することである。日々の何気ない食事の一つ一つの瞬間は、それ自体が自然との劇的で、驚くべき 邂逅 である。  自分で種を蒔き、育て、見守り、収穫した野菜を食べるときに、このことをしみじみと実感できる。だがもちろん、自分の食べるものをいつも自分で育て、収穫するというわけにもいかない。
青色のハイライト | 位置: 799 「うつくしさ(美しさ・愛しさ)」とは本来、「うつくしむ(慈しむ・愛しむ)」行為と切り離すことができない。『古典基礎語辞典』(大野晋編、角川学芸出版) によれば、動詞のウツクシブ・ウツクシムという日本語には、「仁・慈・恵・愛の行為をする意」があるという。なにかをいとしく、うつくしく思う気持ちは、これを慈しみ、愛しむ行為と不可分なのである。
青色のハイライト | 位置: 1,022  こうした共生関係の網に、人間も深く編み込まれている。人が植物を選び、植え、育んでいく営みが、植物の形を変化させてきた。また同時に、そうした植物の姿に合わせるようにして、人間の感性や表現もまた、刺激され、育てられてきた。  花とハチ、植物と人間……地上の生命は、たがいに、たがいを創り合う。そうしてこれまでなかった風景を、日々新たに、ともに生み出し続けている。
青色のハイライト | 位置: 1,116 たとえば心臓がドクン、ドクンと脈打つ時間。細胞のなかでタンパク質が作られ、運ばれていく時間。タンパク質の原子間の結合が、伸び縮みするフェムト秒(一〇〇〇兆分の一秒) オーダーの目まぐるしい時間……。  一人の身体に、いくつもの時間スケールが混ざり合っている。身体とは、 時間のにぎわい そのものなのである。  哲学者の平井靖史は、「物を見る」という経験それ自体が、時間の観点から考えると、「互いに途方もなく隔たった時間スケールが一つの同じ相互作用のなかに参入」していく事態だと語る(*9)。  椿の緑の艶やかな葉や、真っ赤な美しい花びらが見える。僕たちがこのとき、花の「赤さ」として経験している光は、波長約七五〇ナノメートルの電磁波である。  赤色光は一秒間におよそ四〇〇兆回振動している。ヒトの視覚は、その振動の一つ一つを見届けることはできない。
青色のハイライト | 位置: 1,125 知覚には知覚の時間分解能がある。ヒトの視覚の場合、時間分解能はおよそ二〇ミリ秒程度だという。この場合、一秒あたり五〇コマの識別が限度だ。僕たちの視覚が、同じ「瞬間」として受け取る一コマのあいだに、赤色光は八兆回も振動している。八兆回の振動を一つの瞬間に束ねて、僕たちはそれを「赤」として経験している。
青色のハイライト | 位置: 1,481 植物を動物と同じように愛護した父は、きっと丁寧に庭を手入れしていたにちがいない。飛び石も、うえに落ち葉があれば拾い、しばしばほうきで砂も払っていただろう。その手入れされた飛び石のくぼみに、雨水や打ち水がたまった。ここに照り返す空の光が、寺田の思考や感覚とともにあり続けた。  言葉よりもたしかに記憶を伝える、庭の風景があった。
青色のハイライト | 位置: 1,524 カーソンは観察の人であった。美しいもの、見たいものだけを見て、見たくないものに目をつむるのは「観察」ではない。カーソンの著書を読んでいると、いわゆる「環境」問題の根っこにあるのも、結局は人間による環境の 観察の欠如 なのかもしれないと思う。  目の前で起きていることを見ようとしないこと、あるいは、感じようとしないこと。その結果として、僕たちはあまりにも「無自覚に風景をいためつけて(* 13)」きた。だからこそ、水の循環を、土壌のうごめきを、植物の生きる姿を、 もっとよく見よ と、『沈黙の春』のカーソンは、読者にくり返し呼びかけているのだ。
青色のハイライト | 位置: 1,583 「語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子どもたちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓び」がある。だが逆に、「このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる」。結局、「歓喜」と生きることへの「欲望」は、「 必要よりも、本原的なもの」なのである。