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「幸せ」について考えよう

感じたこと

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内容

  • 一つめの理由は「英雄になりたい」。 すべての文学の営みに先立つ、物語の元型といえるのが神話です。古代ギリシャ人は神話を、世界を認識する装置と考えました。古代人の生活の記録であり、自然界の法則や掟を学ぶ知恵袋であり、過酷な生や運命を受け容れる手段を学ぶ教科書でもあった
  • て三つめの動機は、「モテたい」 というものです。 人間が言葉でなし得ることの究極形態は、詩を書き、物語を 紡ぐことといえます。文学の営みとは、言語能力の最も高度な活用術であり、人間の文化活動そのものです。思えば、他の動物にはあり得ないたぐいまれな想像=創造力で、人間は自然界に存在しないものをも作り出してきました。それが「概念」です。自然界にある馬や牛や人間は寿命が限られています。自然に与えられた命は有限です。しかし洞窟壁画に描かれた牛や馬は、数万年も消えずに残る。アルミタラやラスコーの洞窟壁画が人類最初期のアートだとしたら、ここで初めて人間は永遠や無限という、自然を超越する概念を獲得した
  • まり「幸せ」と聞いたときに誰しも思い浮かべるのが「金持ちになりたい」という欲求ですが、世之介の苦行にも似た金の使い方は、私たちに幸福の再定義を迫ります。金持ちは、「富の独り占め」状態です。しかしそれで「幸福の独り占め」は可能なのか ─
  • 人がなすべき仕事は結局のところ、三つに集約されます。それは、生まれてくること、死ぬこと、そして、そのあいだに愛することです。むろん、人は何かを学んだり、生産したり、あるいは争ったり、競ったり、成功したり、挫折したりもするけれども、それらは生きていること、愛することの副産物でしかないともいえ
  • 第一の愛、それは師弟愛です。師匠と弟子、教師と教え子、先人とその足跡を追う者のあいだに芽生える愛です。指導者と下々の者、主人と奴隷のあいだに芽生える愛でもあります。指導者がいなければ、群れはまとまらない。奴隷と主人は持ちつ持たれつでもある。両者のあいだに信頼関係や愛がなければ、たちまち反抗や反乱が起きる。また、角度を変えて見れば、人生は長くて八十数年、個々人の寿命は短く、一人で学べることは限られています。しかし、先人から過去の知恵や経験、事実を受け継ぐことができるので、人は個人の能力以上に賢く、また生産的でいられるのです。よき師弟愛がなければ、そのような踏襲は行われません。 第二の愛、それは友愛です。友は師弟よりも対等で、自由に議論し、 切磋琢磨 し合える仲です。喜怒哀楽を共有し、協力し合って、何かをなすことができる。友や師、弟子のいない者は孤独です。しかし、誰にでも親はいます。 第三の愛、それは親子の愛です。人は友や師、弟子を選べても、親は選べない。どんなに極悪非道な親でも、親である以上、この血のつながりを否定することはできない。また、出来の悪い子でも我が子は可愛い。この分かち難い血の 絆 で結ばれた親子の愛は師弟や友との愛よりもはるかに強いものです。 第四の愛、それは夫婦の愛です。血のつながりのない他人同士のあいだで育まれる愛であり、子孫を残すための愛です。時には親よりも深い感情を交換し、子育てという未来を実質、切り拓く営みをともにする理性的な関係でもあります。 第五の愛は、意外にも不倫の愛です。インドではカーストに縛られている分、結婚は愛する男女の都合だけでは決められません。家と家の結びつきを強める政略も背景にはあるし、また玉の輿 に乗ろうとか、上昇を目指そうといった打算
  • 誰かの幸せを妬む気持ちは、その人の幸せよりも常に長く続く。
  • 幸せとは、魂を最もふさわしい場所に落ち着かせることだ。
  • 幸せと賢さには違いがある。自分が最も幸せだと思う者は実際にそうだが、自分が最も賢いと思う者は大抵は大馬鹿者だ。
  • スミスは、『道徳感情論』の冒頭(第一部第一篇第一章)で、「 共感 について」と題し、次のように記しています。 「いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの 推進力 が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない。哀れみや同情がこの種のもので、他人の苦悩を目の当たりにし、事態をくっきりと認識したときに感じる 情動 に他ならない。我々がしばしば他人の悲哀から哀しみを引き出すという事実は、例証するまでもなく明らかである。この 感情 は、人間本性がもつ他のすべての根源的な 激情 と同様に、高潔で慈悲深い人間がおそらくもっとも敏感に感じるものではあろうが、しかし、そのような人間に限られるわけではない。手の施しようがない悪党や、社会の法のもっとも冷酷かつ常習的な侵犯者でさえ、それをまったくもたないわけではない
  • かくして人間が人間らしく成熟していくこと、共感性が備わってくるということは、完全に表裏一体の関係にあるといえるでしょう。スミス先生は、まさにここに着眼して『道徳感情論』を展開しているのです。 そして、共感こそが人間社会の根幹にあり、共感を得られる行為が認められ、共感を得られない行為が退けられて規則が生まれ、そうした規則を守ろうとする努力によって、徳のある社会が実現するのだ、と説いています。
  • 人間は歴史と無関係に初めから自由な存在なのではなく、「時代の精神」がゆっくりと歩んでいく歴史のなかで、だんだん自由というものを知っていく。はじめは自由など知らず人々が密接に関わり合って生きていた共同体の段階から、しだいに「私個人」の感じ方や生き方に気づき、それを実現しようとしてゆく、と彼は捉えました。
  • まず第一に、正義は決して、自分のなかで思い込まれた独善的なものであってはならないということ、そして第二に、個人の私的な利益を無視したところには正義は成り立たない、ということ
  • 生産をしたり商売したりする「行為」は、自分と社会とをつなぐものでした。私的利益と公共の利益とをつなぐものでもありました。つまり「行為」には、主観(自己意識)と客観(世界)とをつなぎ、また個別性(私的利益)と普遍性(公共的利益)とをつなぐ働きがあります。こうした行為や自己表現を通して他者や社会と関わろうとする理性が、③「社会的な理性」
  • ヘーゲルが強調するのは、人間には「個別性」がある、つまり、特定の状況を生きる有限な存在であって「全知」ではありえない、ということです。いかによかれと思って行動しても、結果的には過ちであったということも人間にはあります。ですから、カントのいうような完全な普遍性の立場は取り得ない
  • 個別性と普遍性とをともに生きるのが現実の人間なのです。そのことを深く理解した良心は、 他者に向かって自分の判断と行動とを開いている、というあり方になります。何が正しいかということは、やはり他の人と確かめ合ったり、批評し合ったりしないといけない
  • 自分とは個別性に囚われた存在で間違うこともあるが、だからこそそれを自覚してつねに他人と語り合い、ほんとうによいことを確かめ合いながら生きていくということ。そんな経験を重ねて、絶えず自分を新しくしながら、社会のなかでいい仕事をしていく
  • 造主義とは、簡単に言うと「人間は、自分の意志で自由にものを考えて行動しているように思えるが、じつは自由に考えているのではなく、大きな別の何かに束縛、支配された中で思考している」という考え方です。この考え方は、単なる一時的な流行思想やイデオロギーではなく、現在を生きる私たちの中にも深く浸透している
  • フロイトはこう結論づけました。「人間は絶えず抑圧されながら生きているのだから、不満や悩みのない人間など、この世には存在しない。すべての人間はこころの病を発症する原因を抱えている」と。つまりは「人間は生まれながらにして、苦悩を抱えた不幸な存在である」という悲観的な考えが、フロイトの精神分析理論の出発点になっている
  • 幸福は一生、来ないのだ。それはわかっている。けれども、きっと来る、明日は来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。
  • ヘーゲルが強調するのは、人間には「個別性」がある、つまり、特定の状況を生きる有限な存在であって「全知」ではありえない、ということです。いかによかれと思って行動しても、結果的には過ちであったということも人間にはあります。ですから、カントのいうような完全な普遍性の立場は取り得ない

引用メモ