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言葉の魂の哲学 (講談社選書メチエ)

感じたこと

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内容

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引用メモ

本書の中身は次のようにまとめられる。中島敦とホーフマンスタールが、言葉から魂が抜ける体験を描いて言語 不信 を表明する一方で、ウィトゲンシュタインとクラウスは、むしろ言葉に魂が宿る体験に着目することで、言葉の豊饒な可能性を探る言語 批判 を展開している。すなわち、現実の生活の流れのなかで用いられる個々の言葉に注意を払い、吟味し、それらを相互的な連関の下で多面的に理解する実践である。そして、それが一個の極めて倫理的な実践にほかならないことを、彼らは見出すので
オレンジ色のハイライト | 位置: 217 老博士はそうした調査の結果、文字とは物の影のようなものではないか、と考えるようになった。たとえば「獅子」という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、この字を覚えた猟師は、本物の獅子の代わりに獅子の影を追うのではないか。また、「女」という字を覚えた男は、本物の女の代わりに女の影を抱くようになるのではないか。彼は振り返る。文字の無かった昔は、「歓びも 智慧 もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の 薄被 をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知ら
オレンジ色のハイライト | 位置: 308 一度ある事柄が文字で表されると、その事柄は不滅の生命を得るが、反対に、文字で表されなかった事柄は存在を失う以外にない。書かれた出来事や物だけを我々は知っており、その意味で、我々は文字に支配されている。我々が文字を使って書きものをしていると思ったら大間違いであり、実際には我々こそが文字の霊にこき使われる下僕である、云々。しかし、青年が帰ると彼は、今日自分は文字の霊の威力を讃美してしまったのではないかと頭を抱えてしまう。  つまり、彼は、一方では自分たちの知識や思考が文字なしでは立ち行かないことを理解しつつ、他方では、その状態に甘んじることができない。文字で表されなかったものは存在を失うにもかかわらず、文字で表されたものには直接触れることができなくなる。それがもどかしいので
オレンジ色のハイライト | 位置: 401 自分は、そんな世界の意味を云々する程大した生きものではない」と思い至り、「そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開して見ようという勇気が出て来た。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、唯、試みるために全力を挙げて試みよう」(同 141) ──そう彼は決意する。そして、彼のこの心境の変化と呼応するように、 観世音菩薩 が彼に語りかける。「世界は、概観による時は無意味の如くなれども、其の細部に直接働きかける時始めて無限の意味を有つのじゃ」(同 144)。「先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ」(同 144‐145)。彼はこの菩薩の導きに従い、やがて 玄奘(三蔵法師) の供となって、天竺行きの難業に打ち込むことに
青色のハイライト | 位置: 698 彼によれば、言葉が現実の自然を歪める(曇らせる) のは、経験的に得られる個々の事例を人々が十分に集めることも吟味することもなく、そこから一足飛びに抽象的な概念をこしらえているからである(ibid.: 19, 22, etc.)。そのように拙速に得られた概念は、誤りや混乱が多分に含まれているから、当然粗雑なものになってしまうという。したがって肝心なのは、(1)観察や実験を通して事例を網羅し、(2)それらを適切に吟味して秩序づけたうえで、(3)諸事例を貫く概念を取り出すという、「真の帰納法」(ibid.: 14) に従事することだと、彼は主張している。そうやって最終的に取り出された概念を用いれば、現実の自然を歪めずに正確に写し取ることができるというのである
青色のハイライト | 位置: 708 つまり、彼が「真の帰納法」と呼ぶ経験的探究を実践するプロセスそのものは言葉の汚染を免れた仕方で遂行でき、そして、そうしたいわば 透明 な思考によって、逆に不完全な言葉を改良することが可能だと、彼は考えるので
青色のハイライト | 位置: 724 マウトナーは、「チャンドス卿の手紙」が発表される直前の一九〇一─〇二年に世に問うた『言語批判論集』全三巻において、「話すことなしには──つまり、言葉なしには──思考は存在しない。より正確にいえば、考えるということなど何ら存在せず、話すことのみが存在する」(Mauthner 1901-02: I-176) と述べつつ、その言語自体に欠陥があると主張している。すなわち、言語を媒介にした世界の把握は本質的に不完全なものにならざるをえないと断じ、それゆえ「言語からの解放」(ibid.: I-713) を訴えるので
青色のハイライト | 位置: 787 同じエッセイのなかで、詩という芸術についてホーフマンスタールは、同時代の詩人シュテファン・ゲオルゲ(一八六八─一九三三) が記したあるアフォリズムを引いている。すなわち、「詩の価値を決めるのは意味ではなく(もしもそうならば、詩は知恵や博識の類いとなるだろう)、形式である」という一節である。そのうえでホーフマンスタールは、「言葉の選択、および、言葉がどう配置されなければならないか(リズム)」(ibid.: 17/64) や「独自のトーン」(ibid.) が詩のすべてであり、意味は問題ではない、と断言している。ここには、「生活の内容という荷物を運ぶもの」──すなわち、意味を担い、それを他者に受け渡すもの──としての言葉の役割を詩句から完全に切り離し、詩を音楽に準ずるものとして捉えようとする狙いが窺えるだろ
青色のハイライト | 位置: 799 我々の生活の大半は言葉とともにある。何ごとかを経験し、またそれを振り返り、他者に伝える際に、我々は基本的に言葉を用いないことができない。しかも、言葉は現実そのものではありえないから、多かれ少なかれ現実を曇らせ、歪めてしまう。言い換えれば、 言葉が意味をもつとは、 現実の不完全な代理( 媒体) となる、ということである。したがって、言葉は、自己とその外部とをつなぐというより、むしろ両者を分断し、疎遠にする障害にほかならない。──老博士とチャンドスの言語観はこのようにまとめることができるだろ
青色のハイライト | 位置: 817 すべてが連関し合う親密な世界を求める気持ちが裏側にある。彼がかつての理想的な状態として追想するのは、自分も含めたすべてが「ひとつの大いなる統一体」として有機的に連関し、活気と調和に満ちている状態である。そして、いまや逆に、世界が冷たく疎遠なものとなっている状況が語ら
青色のハイライト | 位置: 880 いま急ぎ足で提示した〈生活の一部としての言葉〉という観点を、もう一度じっくり辿り直していくことにしたい。具体的には、〈ある言葉があるとき生命を得て、それ固有の意味をもち始める〉という契機をどう理解すればよいのか、あるいは、言葉の「霊」とか「魂」と呼びたくなるものの正体は何なのかという問題をめぐって展開される、哲学者ウィトゲンシュタインの思考を主に追っていくことになる。それを通じて、言葉の生と死というものが我々の生活にとってもつ重要性という、本書全体の主題に関して、一定の見通しを得ることができるだろ
青色のハイライト | 位置: 1,169 言葉を理解しているということのもうひとつの側面は、言うなれば、他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこない、というものである。「せつない」という言葉は、やはり「やるせない」などの他の言葉に置き換えることはできない。この言葉だけが帯びる独特の表情や響き、ニュアンスといったものがある。それを感じ取ることができてはじめて、この言葉を理解していると言えるように思われるのである。  しかし、だとすると、言葉を理解しているということで我々が指す事柄には、二つの全く背反する意味が実は混在しているということにならないだろうか。もしもそうだとすると、〈理解〉という概念は本当は、それぞれの意味に応じて〈理解A〉〈理解B〉という風に、別々の言葉として分割して考えた方がよい、ということになるのではない