🖋

愛するということ

感じたこと

  • 技術か。信念と能動性から始まる技術。

内容

  • 自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。満足のゆくような愛を得るには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければならない。これらの特質がまれにしか見られない社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。実際、真に人を愛することのできる人を、あなたは何人知っているだろうか。 しかしながら、その仕事が困難だからといって、それを口実に、その困難さや、その仕事を達成するためのさまざまな条件を、知ろうとする努力を放棄してはならない
  • まず第一に、たいていの人は愛の問題を、 愛する という問題、愛する能力の問題としてではなく、 愛される という問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。
  • この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許されるかぎりの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。また、自分を魅力的にするために、男も女も共通して用いる方法は、好感をもたれるような態度を身につけ、気のきいた会話を心がけ、他人の役に立ち、それでいて謙虚で、押しつけがましくないようにする、ということである。愛される人間になるための方法の多くは、社会的に成功し、「多くの友人を得て、人びとに影響をおよぼす」ようになるための方法と同じである。実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを 併せたようなものなのだ。
  • 愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していること
  • 孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
  • 独裁体制は人びとを集団に同調させるために威嚇と脅迫を用い、民主的な国家は暗示と宣伝を用いる。たしかにこの二つのシステムのあいだには一つの大きなちがいがある。民主主義においては、集団に同調しないことも可能であり、実際、同調しない人がまったくいないわけではない。いっぽう全体主義体制にあっては、服従を拒むのはごく少数の特別な英雄とか殉教者だけだろう。しかし、こうしたちがいにもかかわらず、民主主義社会においても、ほとんどすべての人が集団に同調している
  • 実際には、すくなくとも西洋の民主主義社会では、人びとは 強制されて 同調しているのではなく、みずから 欲して 同調しているのである
  • 共棲的結合とはおよそ対照的に、成熟した 愛 は、 自分の全体性と個性を保ったままでの結合 である。愛は、 人間のなかにある能動的な力 である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックス
  • 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも 与える ことであり、もらうことではない、と言うことができよう。
  • 自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かちあうのである。
  • 愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということ
  • 配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。 責任 である。今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。ヨナはニネベの住人に責任を感じていなかった。彼も、カインと同じく、「私は弟の番人でしょうか〔† 2〕」と問うこともできただろう。愛する心をもつ人は求めに応じる。弟の命は弟だけの問題ではなく、自分自身の問題でもある。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、同胞にも責任を感じる。この責任は、母子の関係についていえば、生理的要求にたいする配慮を意味する。おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じること
  • 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する 態度、 性格 の 方向性 のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない
  • この態度はちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、正しい対象が見つかるまで待っていればいいのだ、ひとたび見つかればみごとに描いてやる、と言い張るようなものだ。一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはず
  • あらゆるタイプの愛の根底にあるもっとも基本的な愛は、 兄弟愛 である。私のいう兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊重、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のこと
  • 自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する
  • 無力な者にたいして同情の念を抱いたとき、人は兄弟にたいする愛を 育みはじめる。また、自分自身を愛することは、助けを必要としている不安定で脆弱な人間を愛することでもある。同情には理解と同一化の要素が含まれている。旧約聖書いわく、「汝らはエジプトの地でよそ者であったがゆえに、よそ者の心を知る。…… それゆえ、 よそ者を愛せ
  • おそらくもっと重要で普遍的なのは、超越への欲求とでも呼びうるような動機である。この超越への欲求は、人間のもっとも基本的な欲求の一つで、その根底にあるのは、人間が自己を意識しているという事実、すなわち人間は被造物の役割に飽き足らず、自分が壷から振り出されたサイコロのような存在であることを認めようとしないという事実である。人間は自分が創造者だと思いたいのだ。つまり、創造されたという受動的な役割を超越する者だと思いたいのだ
  • この段階にいたってはじめて、母性愛はたいへんな難行となる。つまり、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が必要になる。多くの母親が母性愛という務めに失敗するのもこの段階である。ナルシシズム傾向のつよい母親、支配的な母親、所有欲のつよい母親が、「愛情深い」母親でいられるのは、子どもが小さいうちだけである。ほんとうに愛情深い女性、すなわち取るよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根をおろしている女性だけが、子どもが離れてゆく段階になっても愛情深い母親でいられるのだ
  • 愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に 堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによる
  • もし自分自身を愛するならば、すべての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身よりも愛さないならば、ほんとうの意味で自分自身を愛することはできない。自分を含め、あらゆる人を等しく愛するならば、彼らを一人の人として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。したがって、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は偉大
  • 親愛の情とは、二人の人間が参加し、人間的価値のあらゆる構成要素を認めることができるような状態のことである。人間的価値を認めるには、私が協力体制と呼ぶある種の関係が必要である。私のいう協力体制とは、しだいに同じものになってゆく、つまりしだいに共通のものとなってゆく満足を追求するために、また、しだいに相手のと似てくる安全策を保持するために、相手が表明する欲求にたいして、自分の行動を明確な形で適応させることである
  • 彼らの目的は愛されることであって、愛することではない。ふつうこのタイプの男性には、かなりの虚栄心と、多かれ少なかれ内に隠された、誇大妄想の傾向がある。この種の男性は、自分にぴったりの女性を見つけると安心し、有頂天になり、優しさと魅力を惜しげもなく振りまくことができる。この手の男性がしばしば女性から誤解されるのはそのためである
  • 偽りの愛の一種で、よく見受けられるのが 偶像崇拝的な愛 である。これはよく映画や小説などで「大恋愛」として描かれる。ある人が、自分の能力の生産的な使用に根ざした、しっかりとした自意識をもつにいたらなかった場合、愛する人を「偶像化」しがちである。そういう人は自分の能力から疎外され、その能力を愛する人のうえに投影する。そのため、愛された人は「至高善」として、すなわち、すべての愛と光と幸福をもった者として、崇拝される。彼はまったく無力になり、恋人のなかに自分自身を見出すどころか、自分を見失ってしまう。ふつうは誰だって、いつまでも自分を偶像のように崇拝する人の期待どおりに生きることはできないから、かならずや失望がやってくる。それを 癒すために、新たな偶像を探す。ときにはそれが何度も何度も繰り返される
  • 愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。
  • 兄弟愛が、非人間的な公平さによって取って代わられたように、神は、いわば宇宙株式会社の代表取締役に変えられてしまった
  • 他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをしては、助言すらあたえる。相手の話を真剣に受けとめず、したがって真剣に答えない。その結果、会話している二人はどちらも疲れてしまう。そういう人にかぎって、集中して耳をかたむけたらもっと疲れるだろうと思いこんでいる。だが、それは大間違いだ。どんな活動でも、それを集中してやれば、人はますます覚醒し、そして後で、自然で快い疲れがやってくる。精神を集中させないで何かをしていると、すぐに眠くなってしまい、そのおかげで、一日の終わりにベッドに入ってもなかなか眠れない
  • 人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければいけない。自分の生活全体をこの目的に捧げなければならない。謙虚さや客観性を場面によって使い分けることはできないが、愛も同様である。他人を客観的に見ることができなければ、自分の家族を客観的に見ることもできない。その逆も同様である。そして、愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。また、どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない
  • 理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。したがって、他人を支配するという意味での力、すなわち権力を信じたり、権力を用いたりすることは、信念とは正反対のことである。現在すでにある力を信じるということは、まだ実現されていない可能性の発達を信じないことであり、現在眼に見えるものだけにもとづいて未来を予想することだ。しかし、これはとんでもない見当ちがいであり、人間の可能性と人間の成長を見落としているという点において、まったく道理にかなっていない。権力にたいする理にかなった信念などありえない。あるのはただ、権力にたいする屈伏である。あるいは、権力を保持している側にしてみれば、権力をいつまでも手放したくないという願望である。多くの人には、権力ほど現実的なものはほかにないように思われるかもしれないが、人類の歴史を振り返ってみればわかるように、人間のなしとげたもののなかで、権力ほど不安定なものはない。信念と権力とはたがいに相容れないものであるから、宗教体系や政治体系は、最初は理にかなった信念にもとづいてうちたてられたとしても、権力にゴマをすったり、権力と結びついたりすると、腐敗し、結局は権力をも失うことになる
  • 信念と勇気の習練は、日常生活のごく 些細 なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、 人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、 ほんとうは、 無意識のなかで、 愛することを恐れているので
  • 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない
  • 先に述べたように、能動とはたんに「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。愛は能動である。人を愛するとき、私は愛する人にたいしてつねに能動的に関わるが、その人だけに関わるわけではない。というのも、もし私が怠慢なら、つまり、つねに意識をはたらかせ、注意を怠らず、能動的でなければ、愛する人にたいして自分を能動的に関わらせることはできない。人間が能動的でないのは眠っているときだけだ。覚醒状態には、怠慢の入る余地などない。ところが今日、きわめて多くの人は、眼がさめているときは半分眠っており、眠っているときや眠ろうとするときには半分起きている、という逆説的な状況に置かれている。自分が退屈したり、他人を退屈させたりしないためには、完全に眼がさめていなければならない

引用メモ