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ちゃぶ台6 特集:非常時代を明るく生きる (生活者のための総合雑誌)

感じたこと

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内容

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引用メモ

楽しいものってなんなのか。政党の選挙ポス ターのように、笑顔あふれる社会とか、子ども がニカーっと笑ってわざとらしい青空のもとで 光が当たっているポスターとかに、私たちは騙 されててあんなのは幸せのイメージじゃな いんですよね。ナチスのポスターもみんな幸せ そうなんですけど、楽しさとか嬉しさとかって、 なんかそんなもんじゃなかったはず。そういう ところを、松村さんが調査したエチオピアの事 例は教えてくれている。 松村 それは最初の話ともつながると思うんで すよね。おばけを倒すために正義の味方を待望 するんだけど、正義の味方がまた別のおばけに なってしまう。あるいは「善きもの」として、 ある種のユートビアとして、ファシズムは到来する。私たちは危機のときに、ユートピアや救 世主待望論になるわけですよね。それ自体は避 けがたいところもありますが、そこで踏みとどまらせるのは、なんかちがうんちゃうかと感じ る感覚です。生き物たちの動きかたや、植物に しても、自然の世界を観察していると、ちゃん と不自然なものを察知できる。さっきの笑顔の ポスターみたいなものにうさん臭さを感じとれ る。でもそういう「きれいごと」ばかりが世の 中にあふれていて、そっちが「自然」になって いる面もある。私たちも、そこに違和感を覚え 感受性が鈍くなっている。 純化された清潔な 環境ばかりで、善きものと悪いもの、ウイルス という敵とワクチンという解決法、みたいな白 黒で単純に色分けされた世界に慣らされている。
けれど、それはすごく不自然な設定なわけ ですよね。生物の世界って、善い・悪いという価値や、善きもの・悪いもの、強者と弱者すらも最終的にはない。みんな相互に連関して、 依存しあって生きているわけで。分解のプロセ スって、まさにそういう生命の隠れた見えない つながりに光をあてる視点なんだと思います。
私は、そのうちの一つに、「この世界には変わるものと変わらないもの、変えられる ものと変えられないもの」があると書いた。 テーブルの上の料理の外観は、時代の変化とともに変わるが、素材そのものの味は変わ らない。会社の性格や国家体制は変えられるが、その内部の人間の性格は変わらない。信 念に従って生きるものもいれば、損得勘定で動くものもいる。高潔な人間もいれば、愚劣 人間もいる。高潔であれ、愚劣であれ、誰でも多かれ少なかれ、計算ずくかと思えば、 ときに情に流されもする。自分ですら、自分のことがよくわからない。生きている人間は よくわからないというのが本当のところだ。
私の場合、この時の決断は、お金儲け、あるいは立身出世主義、競争社会といった右肩 上がりを前提とした生き方との決別であり、そうした生き方の前提になっていた金銭合理主義の廃棄という意味を持っていた。 一言で言うならば、価値観の転換だったということになる。 言葉で言うのは簡単だが、人は、誰も、価値観の転換などということをたやすくできるわけではない。価値観の転換には、何か、自分では考えもつかなかったような力の助けを借りなければならない。
おそらく、コロナ後の社会が変わりうるとすれば、市場経済で競争に破れ、淘汰されそ うになった人々が、止むを得ず贈与経済に移行してゆくという光景を目にすることになる ことである。 人は、自ら意思して変われない。自然人としての自分を変えることはできない。生き延 びるために、止むを得ず変わっていくのだと思う。