感じたこと
内容
引用メモ
美は、一つのちからである。計量できる力とは異なる、人のいのちに働きかけるちからである。消えそうないのちに息を吹き込み、人を蘇らせることすらあるのだと、そのとき経験したのだった。 p16
ボルヘスにとって、「読む」とは「魔の洞窟」の扉を開ける行為にほかならなかった。そして本の中で眠る「死者」たちを新生させる営みだった。
「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。(『残酷人生論』)
彼女にとって「悩む」とは頭を懸命に働かせることだった。いっぽう「考える」とは全身で生きてみることだった。哲学とは「悩む」を「考える」に変じる道だった。
創造的想像力
ここで小林は、知るというのは世の人と同じように知解することだが、信じるとは、自己においてその行為の責任をとることである、、、、信じるということと乖離した、知っていることだけのことを語るとき、人は、そのことにおける責任を緩やかに回避しようとしているのかもしれない。
どの世界にも知の言葉でしか話さない人はいた。むしろ知の領域で事を収めることに必死であるといった方がよいかもしれない。知の世界のことは、自分でなくても誰かがやれば良いということを前提にしている。問題を指摘しながら自分が有能であることは表現するが、そこに関わるつもりはない、という思いが言葉の端々から感じられた。
知は重要である。知の力がなければわからないことは世の中に多くある。しかし、信のちからがなければ人も自体も動かない、というのも事実なのである。 (p46)
「書く」ことは散らばった想念をかき集め、整えることではない。それはペンという鑿で、人生という岩盤を彫ることだといってもよい。
書くとは、言葉によって見えない意味の彫刻を世に送り出すことだと言えるのかもしれない。
ここで考えている運命は、何をしてもすでにどうなるかは決まっている、という貧しい決定論ではない。リルケに直感されていたのは、それぞれの人生に託された神聖なる義務のようなものなのである。
安んずるというばかりでなく更に運命と一体になって運命を深く愛することを学ぶべきであると思うのであります。自分の運命を心から愛することによって、潑剌たる運命を自分のものとして新たに造りだしていくことさえもできるということを申して私の講演を終わります。
運命が人に差し出すのは、動かせない定めではない。人生を愛することによって、かけがえのないただ一つの人生を創り出す、創造の可能性だというのである。(p66)
「方法」と「情報」は世の注目を集める。聞く人はそこに利得を探す。当然ながら、聞いている人は、言葉そのものではなく情報を受け取る。人はいつも、探しているものを見出す。探求すべきは、どう探すかではない。何を探すかなのである。
言の葉というように言葉は、しばしば植物的変容を遂げる。小さな黒い固まりが、多くの人を包み込むような大樹になることもある。生きることに疲れた人間を深い場所で癒やす言葉、そうしたものとの出会いを ー誤解を恐れずにいえば、そうしたものだけをー 私は「読書」に求めている。
永遠の世界においてはただ意志のみが、この意志は私の心の隠れたる暗闇にあってあらゆる死すべき目には閉ざされているが、見えざる精神の国全体を貫く諸結果の連鎖の第一項である。
「諸結果の連鎖の第一項」とは、「すべての始まり」くらいに読みかえてよい。つまり、真に意志と呼びうるものの働きなくしては創造的な出来事は起こらない、というのである。 p99
言葉は、対義語との関係を失うと意味が薄まっていく。醜さを顧みなくなった時代の美は、美と呼べるものであるか疑わしい。悪とは何かを真剣に問うことをやめた時代にはびこる善が、偽善であったとしても驚かない。具象との関係が切れた抽象の意味が希薄になったのも、理由なきことではないのである。