感じたこと
内容
引用メモ
野外で観察した複雑多様なデータを、「データそれ自体に語らしめつつ、いかにして啓発的にまとめたらよいか」という課題から始まっている。
青色のハイライト | 位置: 19
自分の足もとの仕事をどう処理すべきかという悩みから、産業社会の生んだ 畸型 的な世界観の清算に至るまで。また、個人・集団、組織・環境といったものの間に、血の通ったパイプが失われ、バラバラに解体しかねない今日の文明の危機を、一転して活性化に向かわしめる道。こういった痛切なニーズに、少なくも確かな手がかりで 応えているからこそ、驚くべき波紋を 惹きおこしたのだろう。
青色のハイライト | 位置: 28
それでもなお発想法は、バカになって徹底的に実行してみなければ、決して「わかった」部類には入らないのである。
青色のハイライト | 位置: 47
この本とそれにつづく「続・発想法」(中公新書)の執筆にKJ法を用い、研修指導にも初期から協力してくれた妻 喜 美 子 に、 些かの謝辞を呈したい。
青色のハイライト | 位置: 131
書斎科学のもう一つの大きな特徴は、頭の中の推論に重きをおいたことである。こうすればこうなるはずであるという論理的なつながり、推論過程を重要視することである。一方では文献に依存しながら、他方では推論過程を重要視する。文献と推論を重要視する。これが書斎科学の大きな特徴である。
青色のハイライト | 位置: 173
仮に観察する対象を、広い意味で「自然」と呼ぶとすれば、実験室的な自然と野外的な自然とは、どこがちがうのか。野外的自然は、いいかえればありのままの自然である。これに対して実験室的自然は、ありのままの自然のなかから、操作を加えて人工的自然をつくることである。ありのままの自然と人工的自然のちがいがそこにある。
青色のハイライト | 位置: 200
野外科学はある意味では「場の科学」なのである、あるいは「現場の科学」だといってもよい。ひとしく経験を基礎にして現実界を研究の対象にするといっても、研究態度によって実験室的科学と現場の科学の双方が成り立つことを、これで理解していただけたろう。
青色のハイライト | 位置: 493
一例をあげれば、「日本には、ジャンケンポンという優先順位のきめかたがある(類型的行動)。昨晩父親がみやげに大小二個のお菓子を持ち帰ったとき(状況)、太郎君は(主体)花子ちゃんに(対象)、片手を使って(手段方法)、ジャンケンポンに(勝つためにやって)勝った(目的)。そこで、大きいほうのお菓子をたべた(結果)」というようなものである。
青色のハイライト | 位置: 741
ブレーンストーミングという会議の仕方は、問題解決のためにあたらしい発想、アイディアを作りだすために考えられたものである。この方式の会議では守るべき四つの注意がある。第一は同席する他人の意見の批判をしないことである。「そんなアイディアはだめだ」とかいって否定しないことである。第二は、自由奔放に意見を述べよということである。つまり、こんなことをいえばばかげた話だと笑われやしないか、とかいうことを気にせず、おおいに自由奔放に思いついたことをいえ、ということである。別のいいかたをすれば、自分に対して批判をするな、自己規制をするなということである。第三は量である。すなわち、できるだけ多量のアイディアを出せということである。したがって、いろんな角度からのアイディアをできるだけたくさん出せ、ということでもある。そして第四は結合である。これは他人の意見をうけて、さらにそれを発展させるということである。他人の意見から触発されて、他人と自分の意見を結合してゆくことである。
青色のハイライト | 位置: 779
そこで、複数人で行なう場合の計画の技法として、おそらくいまの三つのものを順番に使うのがたいへん有効な方法であろう。すなわち、まずブレーンストーミング式の情報やアイディアの集積をやり、第二にその結果をKJ法で構造計画に創りあげ、さらにパート法によってその構造計画を手順の計画に展開する。ここでKJ法というのは、私がいう発想法のなかの重要な技術として重要視しているものである。
青色のハイライト | 位置: 874
意味のエッセンスをつくる場合に、ひじょうに大切なことがある。それは、過度に抽象化しすぎないことである。むしろ、できるだけ柔かい言葉で、発言者のいわんとした要点のエッセンスを書きとめるのがよいのである。たとえば、酒を飲むことについて、それを好意的に論じた発言があったとしよう。それを一行見出しに圧縮するのに、「飲酒効果の是認的発言」などと書くよりも、「酒は飲むべし」と書いたほうがよい。
オレンジ色のハイライト | 位置: 878
この点で、経験の示すところでは、おもしろい一問題がある。すなわち日本の男性はしばしばこの点で誤りを犯しがちである。それは、必要もないのに、発言内容のエッセンスをむずかしい術語や堅い熟語で、妙に高度に抽象化しすぎた一行見出しをつくりがちなことである。これはいけない。なるべく柔かく、もとの発言の肌ざわりができるだけ伝わるようにと表現するのがよいのだ。もとの発言の土の香りをなるべく伝えた一行見出しがよいのである。この点では、しばしば女性のほうがよい記録者になる場合がある。日本の女性の場合は、このような圧縮的な記録能力の点で、たしかに男性よりも抽象化の思索の訓練がたりない。すなわち、発言者の発言の細部やニュアンスなどに 捉 われすぎて、重点的にエッセンスを 抽 きだすことが苦手なのである。それゆえに、KJ法のこの第一段階で、女性の記録者は苦しむのである。そのかわり、彼女は、過度の抽象化という男性の陥る落とし穴に陥らず、柔かい土の香りをとどめた、優れた一行見出しを作ることがある。
オレンジ色のハイライト | 位置: 894
一行見出しづくりを抽象的にいえば、単位化しかつ圧縮化することである。この過程を私の同僚である心理学者の 坂 元 昂 氏に聞いたところ、彼はコンセプト・フォーメーション(concept formation)というべきであろうといった。それなら、文字どおり「概念づくり」という表現でよいと思う。じっさい、この一行見出しを、その方向でどこまでも圧縮すると、最後にはPとかTとかの符号にすることもできるわけだ。そのように圧縮化しきった概念を頻繁に使わなければならない必要性があった場合には、われわれはめんどうくさくなって、おしまいにそれをPとして記号化しようということになるであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 967
大分けから小分けへと進めようという 我 のあるところには、ヒットラーやスターリンのような心がある。つまり「自分の考えかたがいちばん正しい」ときめてかかって、「民衆はおれのとおりに従え」というのとおなじである。小分けから大分けに進む心は、「民衆の語るところに耳を傾け、それに素直に従った結果、このようにまとまった」ということである。両方のやりかたは、その精神においてもまったくあべこべである。そしてこの問題は、単なる「たとえ」以上に、じつは現代の民主主義の根本に触れる点なのだ(「 Ⅴ KJ法の応用とその効果」参照)。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,034
さてこのようにして、一応ある種の空間配置ができて、これが落ち着きのよい理解のしかたらしいと考えたとしよう。このとき、果たしてその空間配置が適切かどうかについて、簡単に一応ためしてみる方法がある。それは、その空間配置が意味するところの内容を、試みに口のなかでつぶやいてみる方法である。それがすらすらと説明でき、内容がつながって言葉になったら、それはそれなりによい理解のしかたであるといえる。空間配置が悪いときには、つぶやきの説明がどこかでひっかかる。話がつながらない。つぶやいてみてうまくいえない場合には、どこか理解のしかたが悪いのである。そこで気がついて、「これはこう配置して理解すべきではなかった。こう変えなければならない」と考えなおす。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,064
空間配置から図解に進んで、図解をするまでの能力は、まえにのべた一行見出しつくり、すなわち圧縮化の思索能力とはぜんぜん別個の思索能力である。この
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,167
A型の図解上に描いた手順に従ってB型で文章化を進めてみると、初めに予想した書き順に固執するよりも、途中で手順を変えたほうがよい場合がしばしば出てくるのである。それはなぜかというと、書き進むにつれて、書くことによって理解が進歩し、こうして発展した事態の結果、その後どちらに書き進んだらよいかということの予想が次々と啓発されるからである。それをかたくなな予定表にすることは、この啓発性を圧殺した、愚かなことといわねばならない。B型を用いると、文章化されてゆくに従って、問題が累積的に発展するのだ。そのため、その時点で要求された暗示の方向に従って、その先を書き進めたほうがよいのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,187
最初の文章化の書き初めから、次に図柄の内容の上でどちらに書き進んでゆけばよいかというと、それは図解の上でなるべく書き初めの箇所と隣接的な関係にある部分に攻め込んだほうがよいということである。それ以後も、「図解上隣接的な近さにある情報の処理へと文章化を進めた方がよい」という原則は、まさに原則として守ることがきわめて大切なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,202
まず文章化は図解のもっている弱点を修正する力をもっている。もっと平たくいえば、その誤りを見破って、発見し、かつ修正の道を暗示する力をもっている。これが一つの経験的に重要な点である。図解と文章化とを対比してみると、図解の長所は、瞬時に多くのものごとのあいだの関係が同時的にわかることである。この長所は文章とか会話にはない。しかし他面、図解のなかのものごとのあいだの関係は、「関係がある」ことはわかっても、その関係の鎖の、メカニズム(たとえば因果関係)、性質、強さなどは、かならずしもあきらかではない。もちろんこれらの関係のメカニズム、性質、強さなども、わかってからあとでは図解上に表現することはできる。それにもかかわらず図解化という手続きは、それを鮮明にあきらかにするためには最適の方法ではない。すくなくとも、文章などに劣るのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,213
じっさい文章にするといかにももっともに思えたことを、逆に図解化してみると、その誤りとか欠陥に気づくことがしばしばあるのだ。それゆえ図解化と文章とは、ひとしく関係認知の方法だといっても、その性質がちがうのである。このちがいのゆえに、この両者は、互いに他方の欠陥を補強する力を持っているのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,247
叙述と解釈とをはっきり区別して文章化するならば、これに伴い、当然当面の小データ群に対して、鮮明な分析が加えられる。それがないと、じつは文章化はできない。それゆえ、KJ法、特にその文章化手続きの中には、無数の分析過程も含まれている。このように発想法の過程は全体としては総合化の方法ではあるが、けっしてその中で分析過程の一切を拒否しているのではない。むしろ、「どの方向に分析を進めるべきか?」に暗示を与えるのが発想法である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,275
われわれ人間という動物は、質的に互いに異る一つのデータ群を、あまりに複雑なかたまりとして目の前に一度に提示されると、そこからなんの意味をも発見的に組み立てることができず、ただ混乱に陥るにすぎない。ところが、複雑すぎず、相互に親近性は持ちながら、しかもある程度質的に異る一チームのデータに接すると、事態は大いに異ってくるのだ。すなわち、われわれはそれらのデータの組み合わせから、なんらかのまとまったヒントを暗示されるのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,382
評価」の段階は「情勢判断」の段階といってもよく、「実験科学的方法」は、企画し実施し結果を味わう諸段階に置きかえられよう( 11)。つけ加えて次の注意をのべる。このようにして「情報をして語らしめた」結果の大小多くの仮説は、多くが最初の問題提起となんらかのかかわりを持っている。しかし、幾つかのものは、問題提起と無関係な、一種の副産物である。時として副産物中から、すばらしいものも生まれる。それゆえ、これを捨て去るにはあまりにも惜しい。これが仕事の十二段階中に「副産物処理の段階」が必要なゆえんである。もしこれをとりあげてつっこんでいけば、これは別種の仕事となっていく。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,620
都市計画をつくるときに、ソ連を含めた欧米社会では、計画当局がこういう計画をやりたいという原案を、町角に二、三年 店 ざらしに出しておく。それをみた市民たちから、「この計画はここがぐあいが悪い」などという注意が、当局者にフィードバックされる。そこでこれを参考にして、計画原案を修正しながら、だいたいここらでというところで実施する。その間に二、三年はかけるという慎重さである。また、これらの市民からの情報の処理いっさいのために投ずる金は、日本の場合の百倍である。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,741
ところが、いくら日本人が直観的総合力、状況判断の洞察力にすぐれているといっても、それは現実が比較的単純な場合にだけ可能であるにすぎない。現実が複雑になってきた場合には、直観だけで一挙に総合化することは、何びとといえども不可能なのである。それにもかかわらず、日本人は一次的な直観体験から一挙に総合化して、ある問題解決の道を見いだすヒントをつかもうとあせるのである。息の短い総合化の方法にあまりにももたれかかっているといえよう。 そのために、そのような方法ではついに不可能な複雑な事態にぶつかると、とたんにこんどはあきらめてしまう。そして情報のまとめのために「どこかに頼るべき手本はないか。モデルはないか」という模倣の姿勢に一挙に転ずるのである。息の短い直観的総合力と、それに伴う息の短い創造性。それでものごとが処理できないと、たちまちにして模倣に転ずる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,749
そこで、日本人はよく「創造ということは下手で無能で、模倣の天才である」といわれる。だがそれははたしてほんとうであろうか。私の見かたでは、それは誤りであると思う。ある意味でいうなら、日本人はすばらしい創造的能力の持ち主だと思う。ただその創造性は息の短い創造性であり、俳句を作る創造性であるにすぎない。つまり俳句的創造性は高いけれども、巨大な建造物を創りだすという創造性は低いということだと思う。また模倣がうまいということは、息の短い、俳句的創造性の高さをゲタばきにして 真似 をするからだと思うのである。見本さえあれば、それをちょっと直して日本の実状に合わせるというような、いわば修正をする程度の創造力はきわめてすぐれているのである。それあるがために、日本人は模倣の天才であるといわれるのであろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 1,793
KJ法的な発想法は、まさに英国人のこの経験論哲学を実技に移したもののようである。実技に移すことによって、英国人だけの独占的能力と思われたものを、各国民に解放してしまう手法である。またそれによって、貴族と庶民の垣根をとりはずすにいたるところのなにものかである。逆にいえば、精神においてKJ法とおなじでありながら、それを名人芸として「いうにいわれぬ」伝統に頼って実行していたにすぎない英国人は、KJ法によってもっともショックをうけるだろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,104
もう一つ劣らず重要なのは、会議出席の労働に対する虚業意識が克服されることである。すなわち、会議の実りがいかにも空しいという感じが打ち破られる。代って、熱心な討論の結果「われわれは価値ある生産物を具体的に生みだしたのだ」という制作者的な充実感があらわれる。その感情的満足は大切な結果を派生するようだ。人間は単に知的に理解しあうだけでは、不十分な意思疎通しかできない動物である。ところが満足した感情があると、お互いの感情的コミュニケーションがいっそううまくいくからであろう。こうして、会議への参加意識も高められるのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,426
KJ法の原点には、「人間が全人的に生きるとはどういうことか」を問うているものがある。そしてその人間には、保守・保全の半面とともに、創造という半面が不可欠であると答えているのである。その創造的な営みとは、いいかえれば、一個の問題解決を初めから終わりまで、首尾一貫して成しとげることなのであった。さらに進んで、その問題解決のプロセスを、W型の問題解決モデルとして提示している。これが最も広い意味でのKJ法なのである。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,576
民衆のひとりひとりにも及ぶ実態把握力の教育については、KJ法に負わされた責任は特に大きい。それは参画社会化への基礎工事であるとともに、デマ・煽動 による社会的 攪乱 に対する最大の防衛力となるだろう。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,620
KJ法をすなおに身につけた人たちが大多数を占めて、その職場に張りついている間は、驚くべき活力と創造性が渦巻いていることが多い。だが、そういう職場でも、次第に地盤沈下をきたしていく場合が、実にたくさんあるようだ。その最も有力な原因のひとつは、人事の配置転換である。新しくその職場にきた人は、周囲の人たちのKJ法のお仲間に入れてもらって、何となくKJ法が身についたかのような気分になるのである。その実、一度も開きなおった正則の鍛練を受けたことがない。まともにKJ法を修得した人が 傍 にいても、彼もまた「オン・ザ・ジョブ・トレーニングで鍛えているから、型どおりの研修などよりもっと筋金入りで伝えたはず」と胸を 反らせる。そこで人が入れかわってゆくうちに、すでにのべたように、いつの間にか職場のKJ法は地盤沈下をきたしてゆくのである。