感じたこと
内容
引用メモ
消費には終わりがない。なぜか。消費が物そのものの享受ではなくて、観念や記号の受け取りだからである。 たとえばグルメブームのようなものを考えてみるとよい。あるお店が流行しているからという理由で人はそこに赴く。そして一定の時間が経つと、今度は流行している別のお店に赴く。どうして人がこのような行動を繰り返すのかと言えば、それは「あの店に行った」という観念を受け取るためである。観念の受け取りには制限がない。だからこの消費行動には終わりがない。 これを応用すれば、経済は人間を思いのままに、終わりなき消費のサイクルへと向かわせることができる。二十世紀はこれを大々的に展開し、大量生産・大量消費・大量投棄の経済を作り上げ、人類史上、前例のないほどの経済成長を遂げた(また、前例のないほどの環境破壊を行った)。 消費社会と呼ばれるこの経済体制の中では、我々は知らぬ間に消費者に仕立て上げられる。浪費家になって満足することを求めても、いつのまにか消費者にされてしまう。そして消費には終わりがない。だからいつまで経っても満足が訪れない。
青色のハイライト | 位置: 321
要するに、触覚と視覚と聴覚はどちらかと言えば客観的であり、味覚と嗅覚はどちらかと言えば主観的だと言っているのである。 触覚と視覚と聴覚の三つは「上位の」感官、味覚と嗅覚は「下位の」感官と呼ばれており[Kant 1980, S.52/六八頁、§ 21]、二つの器官感官のグループには、明確な優劣が設けられている。嗜好はこれら 下位の感官が分担するもの とされているわけである。
青色のハイライト | 位置: 474
カントによれば、道徳的存在者である人間については、それはいったい何のために存在しているのかと問うことはできない[Ibid./同前]。有り体に言えば、私は自分がなぜ生きているのかと問うことはできない。なぜなら、人間は自らの内に自らのあるべき姿、すなわち自らの目的を有しているからである。 人間は自らの内に目的を持ち、その目的から逃れることはできず、その目的の実現のために意志し、行為することを運命づけられている。
青色のハイライト | 位置: 519
まとめればこうなる。美しいものについての趣味判断は、個別的であるという点で論理的判断から差異化され、また、普遍的であることを要求する点で、快適なものについての感官判断から差異化される。 論理的判断は一般性をもつが個別的ではなく、感官判断は個別的でしかありえず、普遍性を要求できない。それに対し、趣味判断は個別的だが普遍的であることを要求するという奇妙な性格をもつ。 美しさが与える快とは、このような奇妙な経験によってもたらされる快である。奇妙な経験がその根幹にあるからこそ、この快は高次の快として位置づけられる。
青色のハイライト | 位置: 821
我々は、「健康は善いものである」と言うことがある。その時、我々はいったい何をしているのか。カントによれば、その時、我々は健康を目的へと差し向けている。もともとは目的から自由であった快適なものである健康が、目的として設定される。すると途端に目的-手段連関が登場し、健康のために、生活の中の様々な事柄が手段と見なされることになる。 その場合、健康の実現は目的達成の満足を生むだろう。健康という快適なものを享受する快も残ってはいるだろうが、健康であることそのものの快適さという経験はもはや、善いものという目的によってどこか不純なものにされてしまっている。単に健康だから快適であるはずなのに、そこに、「私は健康を達成しているぞ」という目的達成の満足が入り込んでいる。
青色のハイライト | 位置: 1,523
人間は希望するべきでないことを希望することがある。なぜならば人間はしばしば傲慢になるからです。たとえば、或る社会プランに沿って社会全体を作り変えてしまえば平和が訪れると希望する人がいたとして、その人にその希望を実現するだけの権力が与えられたとしたらどうでしょうか。誰か一人が考えたプランで社会のすべてを作り変えてしまってよいのでしょうか。そもそも人間に社会の全体を把握することなどできるのでしょうか。そういう傲慢に対する厳しい視点がカントにはあります。 何を論じるにしてもカントは人間の知性に限界があることを忘れておらず、したがって、「どうしてなのかはよくわからないけれども」というモーメントが出てきても決してたじろがないのです。知性の限界の中で最大限の努力をするのがカント哲学なのです。
青色のハイライト | 位置: 1,696
善のところで説明したように、目的とはその対象のあるべき姿を意味します。善の場合には目的があらかじめ与えられていた。人間は自分たちのあるべき姿を既に知っていた。美の場合にはそうはいきません。対象のあるべき姿があらかじめ与えられることはない。しかし、まるで目的に 適っているかのような感覚を与える対象があって、その時に我々が感じるのが美であるわけです。
青色のハイライト | 位置: 1,905
カントによれば、手段とは無関係な直接的な目的を少なくとも考えることはできます。第二象限にある直接的に善い(端的に善い) もののことです。目的は必ずしも手段を伴っているわけではない。アーレントが批判していたのは、間接的な目的、間接的に善いもの、第三象限に他なりません。 だとしたら目的について、アーレントのように言い切れない可能性は残る。問題はむしろ手段の方だった。カントが言う直接的な目的、直接的な善をどう捉えるべきかという論点は残ります。とはいえ、 手段からの解放 をこそ考えるべきだという課題に気づくことができたのは、今回、頑張ってカントを読むことで得られた大きな成果でした。
青色のハイライト | 位置: 1,963
イギリス人ジャーナリスト、ヨハン・ハリの言葉を引用しています。曰く、アディクション(依存症) の対義語は、ソーバー(しらふの状態) でも、クリーン(薬物を使っていない状態) でもなく、コネクション(人とのつながり) である。 依存症からの回復において重要なのは、依存症者を叱ったり罰したりすることではなく、人とのつながりの中で、「治療」の対象であった苦痛を分かち合い、そして和らげていくことではないでしょうか。
青色のハイライト | 位置: 1,969
薬物依存症の苛烈な経験について知れば知るほど、僕はそこにあるのが、 享受の快を剝奪された生 であるという確信を強めます。何も楽しむことができない。それどころか、日々、苦痛に苛まれている。 人が享受の快を剝奪された生に陥る理由は様々です。だから享受の快を剝奪された人生について、どうすればそうならないかとか、どうすればそこから抜け出せるかといったことを一般的な仕方で語ることはできません。
青色のハイライト | 位置: 2,024
ならば主体が再来するための手がかりはどこにあるのか。ヒントの一つはおそらく習慣(habit) にある。我々はしばしば、まず主体があって、それが習慣を身につけると考える。しかし、そもそも主体とは、数え切れないほどの大小様々な習慣の集積ではないだろうか。何事かを反復していく中で身につけられた規則の総体こそが主体ではなかろうか。 主体の形成には反復が関わっている。しかし、現代の経済体制において最も許されないのが反復である。我々は常に新しい需要、新しい目的、新しい夢を追いかけるよう駆り立てられている。我々は習慣を作る間もなく、次のミッションへと投げ込まれる。
オレンジ色のハイライト | 位置: 2,030
習慣なき生は主体なき生であり、主体なき生は経験の能力を失っている──そんな風に考えられないだろうか。この予感を問題として考えるためには、経験と習慣についての哲学的な諸概念を磨き上げていかねばならない。