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残酷人生論

感じたこと

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内容

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引用メモ

考えるということは、残酷なことである。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである、と。
できない、これはどうしてもできないのだ。「わかる」と「わからない」の間には、意志や努力や他人の命令を拒絶する決定的な断絶がある。しかし、意志し努力し他人の命令に応じようとするところのものとは、ほかならぬ、「自分」、「自分の」力である。
しかし、本当言うと、わからないものをわかることができるのは、じつは、「わかろう」という不断の意志でしかないのである。「わかろう」という意志のない人に、「わかる」ことは決してないのである。 ところで、「わかろう」という意志、これはなにか。言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。 (中略) わかる力は、愛である。えてして人は気づいていない。真の知力とは、愛する力であることを。
魂は、認識する宇宙の容器である
人が、そんな得体の知れないものを社会としてその存在を認めているのは、決まっている。それによって不自由と不平を言うことができるからである。なにか悪いこと、自分に都合の悪いことや自分が悪いこと、社会が悪いことそれ自体さえ、社会のせいにできるからである。(中略)自分が生存するためだけでなく、自分が存在しないために、人には社会が必要なのだ。生存も存在もすべてを社会に押しつけるために、人にはそれが必要なのだ。
自分でものを考えるという自由は、すべての人に開かれているというのに、自分でものを考えもせずに自分は不自由だという人は、すると、誰にその自由を求めていることになるのだろう。 よく考えもしない考えに囚われて不自由になっているのは、その人のせいであって、ほかの誰のせいでもない。このことに気づくだけでも、人は十分自由になれるのだが。 人が、自分の自由に気づこうとしないのは、ほんとは自由なんか欲しくないからである。ほんとのところは、自由になんかなりたくないのである。なぜなら、自由になったら、何もかも自分でしなければならないから、そのことをほんとは知っているからである。