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「100分de名著」ブックス 道元 正法眼蔵 わからないことがわかるということが悟り

感じたこと

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内容

  • 「仏教においては、人間はもともと 仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏であると教えている。それなのになぜ、わたしたちは仏になるために修行をしないといけないのか」
  • 聞き間違いで悟りに達するなんて、と思うかもしれませんが、世の中とは案外そういうものではないでしょうか。わたしの場合、教え子が、「先生のあのときの言葉が役に立ちました」などと言ってくれることがあります。でもたいてい、それは話の本筋ではないのです。わたしの脱線話から自分なりに意味をふくらませて受け取っている。ですから、道元が聞き間違いで悟りに達したと言ってもちっとも不思議ではありません。その証拠に、如浄は弟子が悟りに至ったことをはっきりと見分け、お墨付きを与えています。
  • 湯の中というのは、悟りの世界です。真理の世界、宇宙そのもの、と言ってもよいでしょう。わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが「身心脱落」です。 でも、身心脱落は自己の消滅ではありません。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖は消滅したわけではないのです。ただ角砂糖という状態でなくなっただけで、全量は変わっていません。角砂糖は少しもなくなってはいない。そこに溶けているのです。 それと同じように、自分を悟りの世界に放り込み、そこに溶け込めばよい。そうすれば自我というものが脱落した状態になる。道元はそんなふうに気がついたのだと思います。
  • 「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。道元は、如浄の下でその境地に達したのです。
  • 道元も、迷いが消えた末に得られるのが悟りだという考えを否定しました。迷いには実体がありません。実体がないのですから、その迷いを消滅させることはできないのです。わたしたち 凡夫 は、迷いをなくそうと思ってやきもきします。悟りを得ようと思ってやきもきします。それがまちがいです。迷いも悟りもありはしないのです。
  • ただ、生死がそのまま涅槃だと心得て、生死(迷い)であるからといって 忌避 せず、涅槃(悟り)であるからといって願ってはならない。つまり、迷いのなかに悟りがあれば迷わないし、悟りを求めてあくせくしなければ迷わない。「そうしたとき、はじめて生死を離れる手立てができる」と道元は言います。
  • 分かりやすく解説するなら、道元は、「おまえさん、あれこれ考えるな。そのものになりきってしまえばいいではないか」と言っているわけです。たとえば、わたしたちが病気をしたら、病気になりきればいい。何とかしてこの病気を軽くしようとするから苦しみが増すのです。苦しみのときは苦しみになりきればいい。暑いときには暑さそのものになりきればいいし、寒いときには寒さそのものになりきればいいのです。寒さそのものになりきるなんておかしいという人もいるかもしれませんが、スキーに行くことを考えてみてください。スキーをするときは、寒ければ寒いほど楽しいでしょう。同じように、海水浴は暑ければ暑いほど楽しい。なんとか涼しくしようなどと思わず、暑さを暑さとして楽しむ。それが「なりきる」ということです。
  • 魚でなければ魚の心も、その泳いだ跡も分からない、鳥でなければ鳥の飛んだ跡は分からない、というのです。 わたしは最初にここを読んだとき、何か比喩的な表現としか思っていなかったのですが、よく考えてみると、なるほど、魚の通った道というのはたしかにあるのですね。たとえば、鮭が生まれた川に戻る母川回帰。あれは、鮭が自分や仲間が通った道を知っているということです。鳥も、渡り鳥は毎年同じ時期になると同じ場所に帰ってくる。やはり、鳥が飛んだ跡というものがあり、鳥はそれを知っているのです。
  • わたしたちは、水の世界、空の世界、あるいは悟りの世界をすべて学びきってから歩もうとしてはだめなのです。自分の必要な分だけ悟っていればいいのです。そして一歩一歩歩んでいけば、自然にまた次の道が見えてくるようになるのだと思います。一度悟ってしまえば迷わないのではありません。迷いながら歩んでいくのです。
  • 悟る以前は何物をも力とせず、悟りのほうが遥かに越えて自分にやって来るものであるがゆえに、悟りとは、一筋に悟りの力だけに助けられるものなのだ。 これはどういうことかというと、わたしたちは「悟ろう、悟ろう」として、たとえば坐禅をしないといけない、仏典を読まないといけない、などと思います。しかしそれは、悟る以前の力なのです。悟りとは、悟りのほうから遥かに越えて自分にやってくる。つまり、わたしたちがどうしたら悟れるかと一生懸命努力しようとする、その努力と悟りとは関係がないと道元は教えてくれています。悟りはある日突然やってくるのです。 ですから、いま迷っているのであれば、その迷いを一生懸命迷えばよいのです。「もっと迷う」ではだめですね。それでは 胃潰瘍 になってしまいます。そうではなく、「しっかり迷う」のです。「そのまま迷う」でいいのです。そう思って迷えばいいと思います。
  • 食事をつくることも修行である。若き日の道元には、まだそれが分かっていなかったのです。当時の道元は、僧堂という特殊な空間に身を置いて、悟りを得るという目的のために坐禅に 邁進 することが修行だと思っていました。「○○のために」という政治的発想をまだ持っていたわけです。ところが、悟りに至った境地から見れば、食事をつくることも食べることも、すべてが修行なのです。何のために生きるのかではない。生きていることが修行なのです。 禅でよく使われる言葉に「 喫茶 去」(お茶を召し上がれ)があります。一杯のお茶を飲む。それも修行なのだということです。このように、生活そのものを修行にすることで、わたしたちはあらゆる機会において仏性を活性化させることができます。
  • 布施とは人にものを施すことではなく、 貪らないこと、欲を出さないことだというのです。分かりやすい譬えでいえば、満員電車で高齢者や障害者に席を譲ることも布施です。あるいは、最初から坐らずに立っていることも布施です。そうすれば、必要とする誰かがその席を使えるからです。
  • へつらわないことも布施である。これはどういうことかというと、おべっかを使ったり権力に 媚びたりすることは、結局は出世したい、得をしたいという自分の欲望を満足させることにほかなりません。ですから、へつらうとは自分のための行動であり、へつらわないことが、他人のための布施になるのです。
  • 8つの道。
    • 一 少欲──物足りないものを、物足りないままにしておくこと
    • 二 知足──与えられたものを、全部が全部自分のものとしないで、一部を他人のために回すこと
    • 三 楽寂静 ──寂静を楽しむ。喧騒の場所を離れること
    • 四 勤精進 ──精進に勤める。おのれ一人の利益のためにがんばらないこと
    • 五 不忘念 ──常に仏法を思っていること
    • 六 修禅定 ──心静かに真理を観察すること
    • 七 修智慧 ──智慧を修得すること
    • 八 不戯論 ──物事を複雑にせず、あるがまま、単純そのままに受け取る
  • 若いときは、ひたすら若さに生きればよいのです。若いときは、その若さが実相なんですから。老いれば、老いが実相ですから、その老いをひたすら生きればよい。苦しいときは、さまざまな因縁によってあなたは苦しむはめになっているのですから、しっかりと苦しめばいいのです。苦しみたくない、苦しみから逃れたいと願うのは、まちがっています。わたしたちは、そのときそのときの自己のあり方を、しっかりと生きればよいのです。
  • わたしたちは、〈俺が、俺が〉と自己にこだわっています。それを忘れてしまうのです。同時にわたしたちは、他己(他人)にこだわっています。〈妻を愛さねばならぬ〉〈あいつは俺の敵だ〉と考える、それがこだわりです。そのこだわりを忘れてしまうのです。その忘れてしまうことが、つまりは「身心脱落」にほかならないのです。
  • 要するにわたしたちは、世界を「 此岸」と「 彼岸」に分別しているのです。此岸とは迷いの世界・凡夫の世界であり、彼岸は悟りの世界・仏の世界です。そして、此岸から彼岸に渡らねばならないと考えています。仏教とは此岸から彼岸に渡るための教えであると、われわれは思い込まされているのです。

引用メモ